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【物語の現場053】御前様・近衛熙子の視点・修学院離宮の絶景(写真)

「狩野岑信」の第七十章で、綱豊の正室・近衛熙子が大胆な献策をします。彼女は、後に天英院となって八代将軍に徳川吉宗を選ぶ女性です。

 ところで、歴史ファンとして、史跡やゆかりの場所を訪れたとき、イメージ通りだったときも楽しいですが、さらに嬉しいのは自分の既成概念を覆されたときです。
 
 私にとってその代表が修学院離宮でした。この離宮は後水尾天皇が退位して上皇となってから造営したもの。写真は紅葉時期(京都市左京区修学院、2010.11.16撮影)。

 後水尾院は能書家でもあり、万感込めた「忍」の一字を遺しています。そのことから、創立直後でイケイケの幕府によって忍従を強いられた不遇のご生涯であったというイメージを持っていました。

 しかし、初めてこの離宮のこの絶景を見たとき、誠に失礼ながら、「これのどこが不遇だよ?」と思ってしまった。

 当然、当時の朝廷にこれだけの大規模工事をする力はありません。資金も労働力も全て幕府持ち。表面的には厳しく接していながら、実は幕府側もヒヤヒヤだった。特に幕府の出先機関であった京都所司代は、間に立って大変だったことでしょう。いつの時代もしわ寄せは中間管理職に・・・。

 ともかく、この景色こそ帝王の視点。熙子は幼少期、後水尾院に可愛がられていたそうです。もしかしたら修学院離宮にも遊びに来て、この景色を見ていたかも。

 彼女の父親は朝廷のトップ・関白でしたが、彼女の視点はその上にあったのではないか。そして、天皇から見れば、関白も将軍も所詮は臣下。臣下は仕事が出来てなんぼ。そういう考えを持っていたのではないかと想像しています。だからこそ、彼女は最終的に尾張ではなく紀州を選んだのだと。

 いずれにせよ、吉之助は今後も、この美しく聡明でちょっと過激な女主に振り回され続けるのです。


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