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【第32章・金色の悪意(前段)】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第三十二章  金色の悪意(前段)

 伊川栄信が、阿部備中守の動向について栄に問い質すため、素川と息子の晴川養信に席を外すように求めた。
「お栄、一人で大丈夫か」と不安顔で問う素川に、栄は落ち着いて、「はい」と答えた。

 むしろ、望むところである。

 栄は、融川門下の弟子の一人に過ぎない。法眼の官位を持つ奥絵師にして御用絵師筆頭・伊川栄信と一対一で向き合える機会など、こちらから作ろうと思っても作れるものではない。

 江戸の絵師の世界では、伊川の評判は至極よい。

 絵画の腕だけでなく、人柄についても評価が高い。身分の低い弟子や町絵師などにも気さくに声をかける。仕事や報酬の配分も公平で、画壇の総帥に相応しい器量人だと言われている。

 しかし、今の伊川には、器量人の雰囲気は微塵もない。先程までとは全く異なる顔をしている。能面のような無表情に、底なしの井戸のような暗い目で、こちらの様子をじっと窺っている。

 まるで、蛇のようだ。これが、これがこの人の本性か。栄は、慄然たる思いがした。

「それで、そなた、何をどこまで知っているのだ?」
「それを伺いたいのは、こちらでございます」
「何だと?」

 大柄な晴川養信が目の前から消えたので、栄の位置から、床の間の掛け軸がよく見えるようになった。

 双幅の「日月瀑布図」だ。右は、しぶきを上げて岩場に落ちる滝の水と大きな旭日。左には、同じ構図で、滝と三日月が描かれている。署名が見えた。どちらにも、「伊川法眼筆」とある。

 栄は、ふつふつと怒りが込み上げて来るのを感じた。

 見事に金泥と金砂子が用いられているではないか。朝日と月光に照らし出される水しぶきに金砂子を散らし、幻想的な景色を表現している。そして、滝と岩場の立体感を出す技法も巧みだ。

 美しい。やはり、この技法の第一人者はこの人なんだ。

「なぜでしょうか」
「なに?」
「なぜ、伊川様は、備中守様に金泥金砂子の使い方について、あの様なことをおっしゃったのでしょうか」
「何のことだ?」
「おとぼけ召さるな!」

 栄は、前方の双幅の掛け軸を指さした。
「この見事な技法の、どこが公方様の御用に不適切だというのでしょうか」

「不適切だ」
「馬鹿な。ご自身これだけのものを描けるのです。融川先生が描いた近江八勝図が如何に優れているか。ご承知のはずです」

 伊川は、ちらりと後方に目をやった。
「これは試作の試作という段階だ。わしはまだ、この技法を、大きな画面、あの近江八勝のような大画面で試したことはない」

「しかし、伊川様は、備中守様と違い、融川先生の伺下絵もご覧になっています。さらに、屏風として仕上げる前、融川先生が描き上げた十二枚を並べて確認されたではありませんか」

「そなた、わしが浜町に行ったとき、あの場にいたのか」
「いえ。女子の身ゆえ、遠慮いたしました。されど翌日、融川先生から、伊川様からお褒めの言葉をいただいたと伺いました。あの屏風を描くにあたり、先生の助手として、金泥と金砂子の準備をしたのは、このわたくしでございますから、大層嬉しゅうございました」
「そうであったか」

「伊川様は、この金の使い方が、大きな画面でも映えること、十分お分かりだったはず。それなのに、なぜ?」

「新しい技法は、御用絵師筆頭であるわしが、まずは用いるべきなのだ」
「それを融川先生が先んじてやってしまった。だから、ですか。だから不適切であると。そんな理不尽な!」

 確かに、これまで伊川が金泥金砂子の新技法を用いたのは、小さな画面の掛け軸などばかりだ。近景と遠景を描き分けるため、金泥の塗りや金砂子の散らし方に濃淡をつけると、全面を金で塗り潰す従来の表現に慣れている者が見れば、所々物足りないと思うかもしれない。

 実際、阿部備中守がそうだ。事前に伊川から話を聞き、新しい技法に対する拒否感を強めていたにせよ、彼自身がそう感じたから、専門家である絵師を相手に文句をつけたのだ。

「わしは御用絵師筆頭、画壇の覇者たる狩野派の総帥だ。決して失敗できない。わしの失敗は、狩野派全体の失敗となるからだ」
「見事な責任感ですこと。いえ、違います。それは単なる言い訳。あなたは、あなたには、勇気がなかっただけです」

 しかも、融川が描いた「近江八勝図」は水墨画だ。白い画面に墨一色で描く。極彩色の花鳥図などと異なり、清潔感や格調の高さを強く求められる種類の画である。

 そこに金を用いる。

 これにはさらなる勇気が必要だ。屏風という大きな画面である。足りなければ効果が伝わらない。しかし、やり過ぎれば、致命的に野暮ったくなってしまう。それを、融川は見事に仕上げた。

 伊川は驚愕したに違いない。新技法の第一人者であるはずの自分が、一気に後塵を拝することになる。ここ三代、木挽町家の当主が御用絵師筆頭を務めているが、何か決まりがあるわけではない。奥絵師四家の地位は本来対等であり、筆頭は、その時の当主たちの歳周りと技量で決まる。融川と伊川は歳が近い。技量で負ければ、筆頭の交代も十分あり得る。

「いえ、勇気がなかっただけじゃない。あなたは絵師でありながら、融川先生の屏風の素晴らしさを分かっていながら、保身のために姑息な動きを。絵師の総帥が聞いて呆れるわ。あなたはただの卑怯者です!」

 その時、栄は、はたと思った。

 融川は、口論の相手である阿部備中守に対し、「良工の手段、俗目の知るところにあらず」と言い放ったというが、あれはもしや、伊川栄信に向けた一言ではなかったか。
 融川は、仲裁に入ってきた伊川の様子から、伊川の背信に気付いたのではないか。伊川の卑怯な心底を見抜いたのではないか。

 だとしたら・・・。

 栄は、体中の血が沸騰する感覚に襲われ、勢いよく立ち上がった。乱暴に歩を進め、伊川の横を抜け、床の間の双幅の掛け軸の前に立った。

 まず、右側の滝と旭日が描かれた中ほどに手を掛け、思い切り、引き下ろした。次いで、左も。そして、二幅の掛け軸をまとめて一気に真横に引き裂いた。
 絹本でなく紙本の作品だ。女性の力でも容易に破ける。案の定、バリバリと音を立て、真っ二つに裂けた。その裂け目から、金泥に使われた金と白い胡粉が、粉となって、ふわっと空中に舞った。

 栄は背後に目をやり、伊川栄信の様子を確認した。悔しいかな、微動だにしていない。

 何をやってるの? 最低最悪の所業だ。仮にも絵師が、どんな理由があるにしろ、画を引き裂くなんて。こんなこと、こんなこと・・・。
 涙がこぼれそうだ。しかし、必死に耐える。そして、黙ったまま座に戻り、伊川の顔を睨み付けた。

「気は済んだかな」と、冷たい目で静かに尋ねられた。
「済むわけがありません!」
「わしも、まさか融川殿が腹を切るとは思わなんだ。薬が効き過ぎた。思えば、あの腕は惜しい。狩野派にとって大変な損失だ」
「何を今更!」

「では、頭を下げて謝ればよいのか。泣きながら悔いて見せればよいか。そんなことは意味がない。今更感傷に浸っても仕方ない。お前はそれを知っている。だから、備中守様とも話を付けたのであろう?」
「そ、それは」
「お前は、わしを何かおぞましい物でも見るような目で見ているが、わしには分かる。お前もこちら側の人間なのだ」
「そ、そんなことは・・・」

「ふん、まあいい。わしも備中守様同様、事を荒立てたくない。要求があれば聞こう」

 奥絵師、しかも御用絵師筆頭ともなれば、ただの絵師ではない。幕府の行政官であり政治家でもある。誇りより利害、意地よりも損得か。あっさり折れた伊川に、怒りがさらに増す。
 栄は、昨日の昼過ぎまで、ただただ、己の画技を高めることしか考えていなかった。取引、駆け引き、そんなこと、考えもしなかった。

 自分も同じ? そんなことはない、断じて。しかし、明日からもこれまでと同じ純粋な気持ちで絵筆を握れるだろうか。同じ目で物が見えるだろうか。

 伊川に対する怒りと自分自身に対する不安。彼女は今、収拾のつかない感情に支配されつつあった。

次章に続く


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