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【第25章・津山藩改易騒動】狩野岑信 元禄二刀流絵巻(歴史小説)

第二十五章  津山藩改易騒動

 衆利と書いて、あつとし。この名には、衆を利する者となれ、という親の願いが込められている。

 森衆利、二十五歳。ただの若者ではない。津山藩十八万六千五百石の第五代藩主内定者である。彼は、家督相続を許してくれた将軍へのお礼言上のため、家格に相応しい豪華な行列を仕立て江戸に向かっていた。

 その途中、残暑厳しい東海道桑名宿、そこで愚にもつかない事件を起こしてしまった。

 すなわち、宿にした宿場の本陣で酒宴を催し、泥酔した上に大暴れ。さらに、満座の席で将軍を侮辱する暴言を吐いた。間の悪いことに、この酒宴には来賓として幕府の代官が招かれていた。

 江戸幕府は全国の主要五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)を支配するため道中奉行という職を設けている。桑名宿は、桑名藩の城下町であると同時に、道中奉行の支配下にもあった。

 代官は、その道中奉行の代理人である。将軍に対する無礼を見過ごせるわけがない。その場で森衆利の身柄を押さえ、本陣に留め置くと決定。また、残る津山藩士に対して、行列を解き、近くの寺院に入って謹慎するように命じた。その上で事態を江戸表に急報したのである。

「おお、来たか。そちは狩野であったな。一蝶の件では世話になった」
「恐れ入ります」
「もう一人の若い方はどうした?」
「本日は他出しておりまして。あの者に御用でしてたでしょうか」
「いや、そちでよい」
「左様ですか。それで、此度は何事でしょうか」
「うむ。またしてもじゃが、中納言様のお力を借りたくてなぁ」

 元禄十年(一六九七年)九月下旬、狩野吉之助は内藤新宿に来ていた。江戸での初任務の発端となった内藤家の隠居・成定に呼ばれたのだ。聞けば、改易の危機にある津山藩を救いたいという。

 津山藩は美作一国を領する。美作は現代の岡山県東北部にあたり、津山はその中心地。元は鶴山と言ったが、関ヶ原の戦いの二年後、森家が入ったときに津山と改めた。
 この地は戦国時代のさらに前から領主が次々交替し、土地も民心も荒れ果てていた。しかし、森家が善政に努め、ようやく落ち着いた。特に二代目藩主・森長継の功績が大きい。

 その長継は、藩主となって四十年経ったとき体調を崩し、隠居を考えた。しかし、嫡男は若くして病死、孫も幼い。そこで、臨時の措置として三男に家督を譲って隠居した。その後、孫が成人したところで三男から孫に家督を戻したのだが、その孫が、跡継ぎのないまま急死してしまう。

 仕方なく、家老の家に養子に出していた十二男・衆利を本家に戻すことにした。この相続も本来なら難しい。しかし、八方手を尽くしてようやく幕府に許してもらった。にもかかわらず、当の衆利が事件を起こしてしまったのである。

「なるほど、聞けば聞くほどお気の毒。されど、森家は外様。なぜそこまでお気に掛けるのですか」
「外様とは言え、森家は織田信長公に仕えていた名門。さらに大坂の陣では東照大権現のご馬前で功を上げ、直々に国俊の名刀を賜っておる」

 意外である。このご隠居は筋金入りの徳川至上主義で、外様など眼中にないと思っていた。

「うむ。そしてな、森の隠居・長継は、わしの古い友なのじゃ。まあ、友と言っても、あ奴とわしでは出来が違う。あ奴は、わしなどと違い名君と呼ぶに相応しい男よ。数十年、藩主として懸命に働き、津山を実り多い豊かな領地として蘇らせた。それはひとえに家臣領民のためじゃ。犬小屋を作るためではない」

「確か、中野の御犬小屋の建設に当たったのが森家でしたな」

「そうじゃ。せっかく立て直した藩の財政もその出費のせいで元の木阿弥。さらに、嫡男に先立たれ、孫を失い、加えて此度の仕儀よ。あ奴は今年八十八、米寿だぞ。その祝いの年に、このまま行けば領地没収・家名断絶じゃ。あまりにむごい。そう思わんか」

「ごもっとも」
「そうじゃろう」
「しかし、大名の処分は幕府の専権事項。中納言様に何が出来ましょうか」
「ほう。前回はどう見てもただの使いっ走りであったが、短い間に言うようになったのう」
「恐れ入ります」

「何も公儀の仕置きを曲げてくれと言っているのではない。あくまでも正しい詮議を求めているだけだ」
「話が見えません」

「よいか。事件が起きたのは桑名。我が領地・高遠からは木曽川を下ればすぐだ。よって、国元の家臣を走らせ、事情を探らせた。どうやら、衆利殿には乱心の疑いがある。されど、出羽守(大老格老中首座・柳沢吉保)はそれを無視し、十八万石そっくり召し上げるつもりじゃ。わしとて、十八万石が安泰に済むとは思っておらん。しかしな、何とか、大名としては存続させてやりたい。評定所の詮議において、衆利殿の乱心が認められれば、それが叶おう」

「何か、具体的な材料をお持ちなのですか」
「それよ。桑名に赴いた我が家臣が、酒宴の場となった本陣を管理する旅籠の主と、同席した俳諧師の身柄を確保しておる。両名とも、衆利殿は酒を口にする前からすでに挙動が変であったと言っているらしい。そこで、この者たちを証人として大目付に引き渡したい」

 ここで内藤の隠居は、手に持った扇子をパチリと鳴らした。
「よいか。今度は前回の逆じゃ。その者たちを川崎あたりから船で浜屋敷に送る。その後、浜屋敷から大目付の元に届けて欲しい。我ら木っ端は、ご府内で勝手な動きをするわけにはいかんからな」
「それは中納言様とて同じです」

「そうかのぉ。ところで、そなたら、中納言様の催す鶴御成のため、準備を進めているのであろう?」
「はい」
「ここで力を貸してくれれば、ある御仁と繋ぎを取ってやろう」

「それは、どなたでしょうか」
「うん。わしには長継の他に隠居友達がもう一人おってなぁ」
「それは?」
「水戸の御老公よ」
「えっ?!」

 水戸の老公とは、誰もが知る前中納言・徳川光圀である。御三家の一角・水戸藩の二代目藩主。江戸幕藩体制における神聖不可侵の存在・神君家康から見て、将軍綱吉は曾孫、綱豊は玄孫になる。それに対して、光圀は孫である。現存する徳川一門の中で、最も家康に近い。印籠ひとつ出せば誰もがひれ伏すというのは、あながち嘘ではない。

 その光圀、何事も筋を通さないと済まない性格であった。

 実子がいるにもかかわらず、複雑な事情により水戸藩主になれなかった兄の子・綱條を養子に迎えて藩主の座を譲ったことに象徴される。
 それ故、将軍綱吉に対しても、綱吉の兄の子である甲府中納言・松平綱豊をもって後継とすべし、と機会あるごとに進言していた。綱豊を次期将軍に推す一派にとって、この上ない後ろ盾なのだ。

 ただ、光圀は隠居後、水戸の郊外に建てた瀟洒な山荘に引き籠っている。存在が大き過ぎるのだ。光圀が江戸や水戸城下でウロウロしていると、新藩主以下、誰もが何をするにも光圀の顔色を窺ってしまう。自意識の強い光圀にとって不愉快な状況ではないが、やはり良くない。それが分かっているから、今は余程のことがない限り表には出て来ない。

「鶴御成に水戸の御老公が参加されるとなれば、中納言様の格は上がるだろうなぁ」
「・・・」
 吉之助は、貴人の前であることも忘れ、つい腕組みをして考えてしまった。

 甲府藩にとって、御三家の内、尾張と紀州は次の将軍職を争うライバルだ。鶴御成への協力もはなから期待してない。その分、水戸家には是非協力して欲しい。ただ、そういう事情で、頼りの光圀に接触できないでいた。間部が水戸藩の江戸家老に打診しているが、のらりくらりとかわされ続けている。

「わしであれば、私信という形で御老公に直接連絡を取れるぞ。わしが中納言様に肩入れしていることは周知の事実。そのわしが勝手に御老公に頼み込んだことにすればよい。さすれば、綱條様や水戸の重臣連中の頭越しに事を進めたとしても角は立つまい。どうじゃ?」

 食えない年寄だ。思えば、この人が長く藩主を務めていた三代将軍家光の時代は、大名の大粛清期である。百を超す大名家が些細な非を突かれて取り潰された。外様は勿論、親藩や譜代にも容赦なかった。そこを生き残ってきたのだ。柳沢嫌いのただの頑固爺であるわけがない。

「誠にありがたいご提案。されど、私の一存では決められません」
「だろうな。すぐに戻って主の了解を取れ。ただし急げよ、すでに一行は桑名を立っておるでな」

 吉之助は浜屋敷に戻る途中、歩きながら考える。それにしても、不愉快な事件だ。

「犬公方の、そのまた下の大名か。それこそ犬だ、犬大名だ。俺は、真っ平ご免だ! 天下万民のため、あんな馬鹿将軍、さっさと死ねばいい。いや、いっそ・・・」

 問題の森衆利は、酒宴でそう喚いたらしい。彼は一度代々筆頭家老を務める関家に養子に出されている。多くの子供の中から彼が選ばれて藩の要石とも言うべき家に送り込まれたのは、彼にそれだけの素質があったからである。

 だからこそ彼は、二十歳そこそこで、津山藩が幕府から命じられた中野の御犬小屋建設の責任者となった。

 その建設には、近隣住民も含め、二十万人が動員されたという。幕府から多少の支援はあるものの、基本的には津山藩の持ち出しである。

 やり切れなかったに違いない。

 実父と養父が長年かけて藩政を立て直し、津山を豊かな領地に変えた。そして、ようやく数万両という金を藩の金蔵に積み上げた。無論それは、藩主一族が贅沢三昧するためではない。緊急時、災害や疫病などの際に家臣や領民を救うための蓄えだ。その大事な金が、犬小屋建設という馬鹿々々しいことのために見る見る減って行くのだ。

 それでも彼は滞りなく犬小屋を完成させた。

 ところが、第一陣として収容される予定だった約千頭の野犬の内、数十頭が施設に到着する直前に竹かごを破って逃げ出した。
 津山藩の面々はそれを追った。そして、一頭の大型犬が田のあぜで子供に襲い掛かろうとしたところ、藩士の一人がその犬を斬り捨てたのである。

 間の悪いことに、ちょうど月番老中配下の監督官が来ていた。人は立場で生きている。彼もまた役人である以上、言わざるを得ない。
「上様の尊きご仁政の象徴である御犬小屋の開所にあたり、殺生を犯すとは不届き至極。御犬を逃がした小者と斬った侍を引き渡せ」

 ふざけるな。たかが犬のために大事な家臣を・・・。

 衆利は、弁明のため急ぎ登城しようとしたが、彼が馬に飛び乗ると同時に、側近が駆けてきて手綱を掴んだ。側近は震えながら伝えた、犬を斬った家臣が自ら腹を切ったことを。

 恐らく、その時から森衆利という人間の心は壊れていたのだろう。

 しかし、不思議だな。高遠藩の連中は、どうして簡単に証人、宿屋の主と俳諧師だったか。彼等の身柄を確保できたんだ?

 そうか。出羽守様にとって、津山藩の取り潰しは既定路線。必要なのはその方向の証人だけだ。津山侯(正式にはまだそうは呼べない)が暴れた現場を目撃し、公方様に対する暴言をその耳で聞いた桑名の代官とその部下たちがいれば十分ということか。
 であれば、わざわざ海路を取る必要があるか。いや待て。あのご隠居がそうしろと言う以上、何か・・・。

 数日後、吉之助は浜屋敷の御成書院で事の次第を主君に報告していた。
「高遠石か。また面白いところに目を付けたな」

 その石は、高遠藩の貴重な産物のひとつである。雨に濡れると趣深い青色に変化することから、庭石などとして珍重されていた。大半は中山道を使って陸路搬出されるが、一部は富士川や天竜川を下って河口まで運ばれ、その後、海路で江戸や上方に向かう。

 吉之助は、竜之進に高遠藩が荷上場を所有する小田原港に急行してもらった。

 そして、高遠藩主から綱豊に献上する庭石の運搬という名目で船便を仕立て、石と一緒に二人の証人を浜屋敷まで運ばせたのである。一夜明け、二人の証人を無事に大目付の役宅まで送り届けてきたところだ。

「そうか。竜之進は、詮議が終わるまで、その者たちと共に留まるのだな」
「はい」
「今の大目付は、青山、青山なんだったかな?」
「但馬守様でございます」
「おお、そうだ。あれは変人と噂されるほどの一徹者。出羽守が何と言おうと、しっかり詮議するであろう」
「はい」

「ところで、高遠の庭石はどれほど届いたのだ?」
「はあ。そ、それが、一抱えほどの大きなものが八つ、ひと回り小さなものが十五ほど」
「そんなにか」
「はい。ご隠居様の殿への感謝の印とのこと。お陰で、船着場の周囲は石だらけでございます」
「はっははは。あの隠居、どこまでも面倒をかけおる。で、その庭石、どうする?」
「はい。庭師と相談し、お庭で使える物を二つ三つ選んだあとは、他家への贈り物といたします」
「そうか。贈り先は・・・。まあ、詮房が何とかするだろう」
「はっ」
「ともかく、吉之助、よくやった。褒めて取らす」
「勿体ないお言葉です」

 その後、評定所での詮議が尽くされ、森衆利の乱心が認められた。彼は死罪を免れ、親族預けで済んだ。一方、津山藩の改易処分は覆らなかった。ただ、幕府は隠居の森長継に現役復帰を命じ、新たに備中西江原に二万石を与えた。これにより、森家は大名として生き残ることが出来たのである。

次章に続く


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