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【物語の現場013】ぽつんと離れて立つ狩野融川の墓(写真)

「融女寛好」の第三十五章(最終章)で、狩野融川の墓の位置について述べました。実際、ひとつだけぽつんと離されているのです。

 浜町狩野家の歴代当主の墓は、真っ赤な多宝塔の南西のエリアに集中しています。しかし、融川の墓だけが、多宝塔の東側、中橋家(狩野宗家)の墓の集まる地域の背後の石段の途中に建てられています。

 この光景を見て、やはり、融川の死には何かある、と思いました。

 切腹事件があったとすれば、第十二回朝鮮通信使の時期から文化八年(一八一一年)以前のはず。しかし、墓石には「文化十二年」と。
 切腹事件はなかったのか、或いは、贈呈屏風と関係ないところで切腹したのかなど、いくつかの可能性を考えましたが、結局、物語のように解釈した次第です。

 写真は、融川の墓(東京都大田区、2021.11.15撮影)

 亀のオブジェの上に墓石を載せるスタイルは、初代・岑信以来の浜町狩野家の伝統。そうなった理由については、いずれどこかで語ることになるでしょう。しかし、墓の前に置かれたゴミ箱が悲しい。

 ところで、「腹切り融川」のエピソードは、明治時代に発表された画人伝「石亭画談」の記述によります。

 そこで問題になるのが、融川が口論した相手です。

「石亭画談」では、老中・阿部豊後守となっています。しかし、その時期、或いは可能性のある前後の期間を見ても、老中に阿部豊後守という人物は見当たりません。
 言論の自由が保障されていない江戸時代、瓦版や芝居などでは、貴人の名前や官位、役職は似たものに置き換えられました。不思議はない。

 では、架空の老中・阿部豊後守をそのまま使うか。いや、歴史小説と冠する以上、それはなるまい、と。

 そこで、実在の老中のメンツを改めて検討。この時期はベテランばかり。再び政治腐敗が進みつつあった時代ですから、誰か一人ピックアップし、金に汚いベテラン老中というレッテルを貼って敵役にすれば簡単。

 しかし、それでは忠臣蔵の焼き直しになってしまう。

 何より、老中職は激務です。登城してから帰るまで、今で言うなら分刻みで予定が詰まっていました。そんな中、贈呈屏風の最終見分というほとんど「儀式」のような仕事で、わざわざ波風立てるだろうか。自分自身が納得できない。

 あれこれ考えた末、その時点では老中ではないものの、将軍側近としてイケイケで、後に老中となる備後福山藩主・阿部備中守正精に白羽の矢を立てました。官位と藩名ですが、「ぶんご」と「びんご」は音が近いし・・・。濡れ衣だったら御免なさい。

 ともかく、備中守に敵役を引き受けてもらったことで、ありきたりな賄賂をめぐる諍いではなく、分野は違えど、同じく名門の出で、同じく働き盛りで上り調子の二人の人格的衝突ということになりました。

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