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【物語の現場046】黄門様の長男が見た高松城天守台からの景色(写真)

「狩野岑信」の第五十九章で、水戸光圀の死について書きました。物語中、光圀自身を登場させなかったのは、何せ主人公がまだ甲府藩の一藩士なので、直に絡ませるのはさすがに無理があるだろう、と。

 水戸黄門、すなわち徳川光圀は興味深い人物です。「大日本史」の編纂をはじめ様々な業績を遺しています。よくも悪くも、意志の強さを感じます。

 写真は、高松城天守台跡から瀬戸内海を望む景色(香川県高松市、2020.12.7撮影)。

 海城として有名な高松城は、豊臣期の領主・生駒氏によって築かれました。その後も改修が続き、完成したのは江戸中期、讃岐高松藩第二代藩主・松平頼常の時代。

 ところで、光圀の性格を表す顕著なエピソードと言えば、兄の子を養子に迎えて水戸藩主の座を譲り、代わりに自分の子を兄の養子に出して兄の跡継ぎとしたこと。

 その養子に出された光圀の長男が、松平頼常(1652-1704)。

 彼は妾腹ですが、立派な跡継ぎだったことに違いない。それが親父の一存で、水戸藩を継ぐはずが讃岐高松藩主に。三十五万石が十二万石に。しかし、さらに辛かったと思うのは、殿中での序列。讃岐高松藩も親藩であり、決して粗略に扱われる身分ではありませんが、御三家には到底かなわない。割り当てられる控えの間、儀式での並び順など、事あるごとに従弟との身分の逆転を思い知らされたことでしょう。

 ただ、この人、財政難に喘いでいた讃岐高松藩を見事に立て直すなど、なかなかの人物だったようです。だとすれば、江戸に縛り付けられる水戸家の当主より、参勤交代もあって直接領国経営も出来る。さらにはこの雄大な瀬戸内海の景色を楽しめる讃岐高松藩主こそ望むところだったかもしれません。

 とにもかくにも巨星墜つ。水戸光圀の死を契機に物語は新たな展開を見せます。乞うご期待。


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