見出し画像

小説『エミリーキャット』第52章・魔性は清らかに宿る

『今年の桜はまた見事だね、
昨年はなんだか咲いたと思ったら大雨と嵐ですぐにダメになっちゃって残念だったけど今年は少しは長めに桜を愛でることが出来るかな、桜はバッと咲いてバッと散るあの潔さがいいと言われてはいるけれどそうは言ってもあんまりすぐ散っちゃうと淋しいじゃない?
僕ね、先週の日曜日にサイクリングで桜、見に行ってさ…』

山下が彩の謎の半年もの家出の話題から話題を反らそうとしているのを感じて彩は余計に泪が暴れるように止まらなくなった。
山下に薦められて食べた栗阿彌の甘さに彩は酷く泣いていたのに、いつの間にか胸の中で騒いでいた奔流が凪いでほんのり落ち着いてきたのを感じて、彩はふと学生時代に読んだある小説に女が泣いたり、わめいたりしてる時には何か甘いものを与えると少し落ち着くというくだりがあり、高校生の彩はその小説の主人公が泣いてぐずる恋人に実際に柿を剥いて与えて落ち着かせるというところで『何よ、コレ、あんまり女を馬鹿にしないでよね!』
とムッとして小さく独りごちたのを覚えているが、悔しながらも今はそれが当たってると感じてまだ小さく泣きながら不愉快になった。

『そうだ、以前三階の絵画保管室で見た絵、吉田くん覚えてるかい?』
『ええ…』
と彩は思わず頷いて山下のハンカチで鼻をかんでしまってこう言った。
『ダルトンの…でしょう?
いい絵でしたね、ちょっと…
と言うか…かなり異色の…不思議なパースペクティブの…』
『あれね、実は買い手がついたんだ、』
『そうなんですか?』
『お客は鷹柳教授だよ』
『鷹柳先生が?…
ロートレックを買って下さってまだそう間がないのに、』
『ああ、そうなんだけど鷹柳先生は若い頃、ダルトンと交流というか…
ちょっとあってね、
だからダルトンには先生は…
なんというのか…特別な思い入れがあるんじゃないのかな…でも買ってくれたのが先生でよかったと僕は思うよ、
先生なら毎日あの絵を見て愛でて話しかけたり、大切にしてくれることは間違いがないからね…

大病院の廊下やホテルのロビーやレストランなんかに飾るような作品じゃないと僕は思っているから…ホッとしたよ…
なんというのかな…
心配していた娘を嫁にやっと出したみたいな気持ちだよ』
そう言った山下の檸檬いろの日本茶を見つめながら話す伏し目がちの面長な顔を見て、彩は何かいつもの山下らしくない一抹の不思議を感じた。
彩がそんな山下を凝(じ
)っと見つめていることに気づいた山下は取り繕うようにやや大仰に笑うとこう言った。
『去年、君が見た後期の作品以外にも、初期の頃のダルトンの作品などもあるから、食べた後、見に行かないかい?
きっといい気分転換になると思うよ』
『ええ、いいですね』
ふたりは例の保管室へエレベーターで上がると入った。

前回の時にも彩は思ったが山下は大きめの鍵環の中に沢山下がる、どれもこれもさしたる特徴の無い似たり寄ったりの鍵束の中から迷うことなくたった一つの鍵を指先で選り出し、保管室の鍵穴へ当てた。

彩は内心それを見て『山下さんはこの室(へや)へよく来るのかしら…』と思った。

垢じみた壁の傍のスイッチをパチンと指で音を立てて下ろすと白っぽい、しかし暗めのネオン管が白々と灯った。

もう夜だが窓には遮光カーテンが掛かっている。
山下は、その部屋の真ん中のソファ―へ座ると、彩に向かいのソファへ座るようにと促した。
『松雪くんも帰っちゃったしね、もしよかったら彩ちゃんここで一杯どうかなと思って…
本当は三人で飲むつもりだったけど…まあいいじゃない、オジサンとふたりでも、その代わり帰りはタクシーでちゃんと送るからさ』

山下はテーブルの下から白ワインを取り出して笑うとこう言った。
『そこいらで買った安価なワインだから特に凄く美味ってことは無いとは思うけど、簡単なお祝いの積もりで買ってきちゃったんだ、
よかったら絵画鑑賞しながら一緒にどう?』
『いいですね、嬉しいです』

山下のいつもと変わらない接し方が彩には嬉しかったし少し萎(しな)びたような薄くなった瞼が被さった下から暖かい穏やかな光をたたえる山下の瞳と、目尻からこめかみにかけて笑うと大きく拡がる深いシワも彩は好きだった。
‘’山下さん有り難う…‘’
彩は心の中で彼に手を合わせる思いにすらなった。

自分が悪い、加害者であることは火を見るより明らかであることは解り切っているものの、彩は慎哉とずっと居るのが苦しかった。
そしてそんな苦痛を感じる自分がどうしようもなく苦しかった。

プリカッツというドイツ語で仔猫、あるいは可愛い仔猫という意味を持つワインをオープナーで開けてくれると山下はワイングラスに注ぎ入れ、そのひとつを彩に手渡した。自分を病人扱いせず、ワインを薦める山下の行為にも彩は逆に癒された。
まろやかで飲みやすいそのワインを飲みながら彩は山下の背後にあるダルトンの初期の作品をしみじみ眺めながらこう言った。
『同じ画家の作品とはとても思えないわ、この絵は…穏やかで、
もの柔らかで…手堅い写実主義で丁寧に作り込まれた感じがします。
技術は高いし美しく優雅さもありますが…
正直…それしか感じられないというか…』
『…そう思う?』
山下は彩のそういった言葉を愉しむような笑いかたをすると言った。

『ダルトンは初期の頃は若い女性達を中心にロマンチックな柔らかい雰囲気で人気が出た画家だったんだが後期に近くなり始めた頃に画風が急に変わり始めてね、
評論家達からはそれと同時に急に絶賛の嵐を受け始めたんだが、
本格的な画壇デビューとまで囁かれ始めていたんだが、同時に描いているのは本当にダルトン自身なのか?といった疑惑を唱え出す人まで居た』
『そうなんですか?』
と彩は淡い蜜いろに揺らめいて輝く白ワインを入れたワイングラスを傾けながら瞠目した。

『でも…確かに解るような気がする、去年山下さんにここで見せてもらったダルトンの絵は物凄い
迫力で絵のほうでこちらへ迫ってくるような鬼気迫る臨場感がありました。
観る人によっては怖いと感じるかもしれないような独特のパワーがあって…絵そのものが自らの意思で動いたり急にぐいっと近づいたりするような錯覚を覚える絵なんて…
そうそうはお目にかかれないもの、魅力的な絵だとは思いますが…手元に買って置くにはちょっぴり怖い感じすらしてしまいます。』
『それなんだ、ダルトンは最初は‘’羊のように温和(おとな)しい絵を描いていたのに急に魔性に取り憑かれた、しかしその魔性は芸術の神から与えられたものでダルトンは羊の原から抜け出して今やかつてのフリードリヒやベックリンのようなドイツの浪漫派か、あるいは絵のタイプは違っても表現主義のムンクやキルヒナー、ココシュカなどに近い精神性にまで到達しつつある‘’
とまで高く評価されるまでになっていったんだ』
『それにしてもまるで豹変だわ、確かに初期と中期、後期と変わってゆく作家は珍しくもないけれど…このダルトンの場合そういうのとは違って…
なんだかまるで清らかで美しい…
魔性に魅入られたみたい、

同一人物がこんな豹変以上のものを果たして描けるのかしら…
あの絵のほうで刺し迫ってくるような、動いて見えるような錯覚を観る者に与える独特の技術は誰にでもあるものではないし、教えられて身につくものでも無いと思います。

ああいったものは天性のセンスで技術を越えたものだと…
この初期の上品で手堅く穏やかなだけの静物画を描いていた画家が何故あんな魅力的ではあるものの怖いほど蠱惑的な絵を描けるようになったのか、彼に…一体何かあったのかしら?』
『何かはあっても…ここまで変われないさ』
『じゃあ、山下さんも後期の作品は別人が描いた者だと?』
『画壇や当時有名だった美術雑誌でコラムを持っていた鷹柳先生が、ダルトンの影武者説をかなり強烈に書いてね、当時は随分、話題を呼んで…ダルトンさんは辛そうにしてた』
『えっ…逢ったんですか?
ダルトン氏に?』
『…うん…まあもともと僕は彼と昔から旧知の仲だったからね…
可愛がってももらったよ、
息子が欲しかったといってまるで息子のようによくしてくれた、』『そういえば確か…昔、お仕事で逢ったとは聴いた気が…でも…初めて聴いたわ、
そんなに昔からの個人的な知り合いだっただなんて、山下さんそんなこと前には一言も言ってくれなかったじゃないですか』
『そう…そうだね…今まで誰にもこのことは言わないできたんだ、
ダルトン氏の娘さんとも仲良しだったしね、
娘さんのほうが僕より歳上だったけど僕らはとても気が合ったんだ、』
『ガートルード嬢ね』
『そう…僕らは…幼馴染みでもあったんだ』

『そうだったんですか?
どうりで…でも何故、以前はそのことを黙ってたんですか?
まるで隠してたみたい』
『隠していた?』
と彼は白ワインをほぼ独りで一本空けてしまうのではないかと思われるピッチで杯を重ねるとこう言いきった。
『隠したくもなるさ、
忘れたくても忘れられない思い出って誰にでもあるだろう?
僕にとってはこのことはまさにそうなんだ、であると同時に忘れたくない胸が締めつけられるような…大切な…思い出でもあるんだ…』

『…鷹柳さんが買うことに決まったあの絵が見たいわ、
だってもう観れなくなってしまうかもしれないんですもの、
あの先生はお金を積まれてもご自分が愛蔵する絵は美術館へ容易く貸し出したりしなさそうなんですもの、』
彩が関心はあるものの、いつもの癖で鈍感を装ってそう言うと山下は思わず笑ってこう言った。
『彩ちゃん今日はよっぽど緊張した一日だったんだね、
…その絵は君の真後ろにあるよ』
そう言われて彩はドキリとして振り返った。
あの黒髪なのだがその癖、何色と識別出来ない光と艶とに玉虫色に輝く髪に覆われた真摯な横顔を見せた少女が大きな婦人用ブラシを手に、やはり大きな毛足の長い猫に向かいブラッシングをしようと試みている、その姿が背後にあった。
『…驚いたわ、
こんなとこに居たの?』
と言いながらも彩は絵の中でこちらを疑っと見据える大猫の瞳と自分の眼とがぴたりとあって思わず息を飲んだ。
猫の右目に背後の壁を取り囲むようにある窓から差し込む光が反射してそのせいで猫の左目のいろは判然と描かれてはいないものの、もう片方の右目は深海のように青くひたすらこちらを挑むように全てを見透かし知っているようで彩は身がすくむ思いがした。
猫は砂漠のスフィンクスのようなポーズで座ったままこちらを見ている。一瞬、その怜悧過ぎる眼に戦慄したものの、ずっと見つめるうちに彩は猫の瞳の奥深くに全ての人に解りやすくはない、深い‘’何か‘’を感じて胸を突かれた。

‘’本当にロイとよく似ているわ…‘’
と彩は思ったが、と同時に少女が持っている銀の背のブラシに気がつき凍りついたように視線が釘づけになった。
銀の背には微細な彫り込み細工が施され、それを持つ少女の横顔はヴェールのように被さった髪を透かして仄かに見えてはいるものの、ブルネットの髪にほぼ隠されその表情は髪を透かして僅かに見える程度でしかない。
しかし窓ガラスから射す光の下、恐らく普段はダークヘアーな少女の髪色はその小さな頭の輪郭を明るい薄金いろに浮かび上がらせ、ゆるく波打つ長い髪の中に金糸銀糸を紛れ込ませたような、彩りと輝きのコミュニティーとなり、彩の何故だか急に騒ぐようにときめき始めた胸の鼓動に合わせて絵の中で少女の髪は一瞬、一陣の微風に揺らいだかのように波打ち、見えるはずの無い少女の横顔がほんの一瞬、ハッキリと見えた。

『エミリー?』

と彩は心の中で思ったが即座に否定した。
いいえ、そんなはずが無いわ、
だってエミリーはガートルード・ダルトンじゃない、
エミリー・キーティングですもの、と彩は口には出さずに首だけ振って心の中でそれを否定した。
しかし少女の持つ銀の背のブラシはあのビューティフルワールドで、彩の髪もエミリーが梳かしてくれた重々しいあのアンティークのブラシと酷似している。
彩はずっと見ていることが不安になって思わず絵から眼を反らして山下に向かって向き直った。

『どうしたの?大丈夫?なんだか顔色が悪いようだけど』
との山下の言葉に彩は笑って否定した。
『いえ、あまりにも迫力というか…独特の臨場感になんだかまるで船酔いしたような感覚を覚えてしまって…凄い画家とは思いますが…
彼の作品は一般受けはしなかったでしょうね』
『まあそうだね、最初は一般受け以上にアート界のアイドルだったのに晩年彼は鬼才ダルトンと呼ばれるようになったんだから…
それだけならまだしも急にモンスターと化したとも言われていた、画壇では後期の彼は騒然とされていたんだ。』
『モンスター…』

『奇しくも彩ちゃんが言ったように‘’聖人ダルトンに魔が宿った‘’とも評されたこともあった。
俳優なら怪優と呼ばれるところかな?どれもこれもダルトン自身はとても嫌がっていたけれどね…』
『……』
『そうそう、いずれあれも鷹柳先生が買い取ってしまうんじゃないかなと僕は思っているんだが…
晩年の彼が描いた娘の肖像画があるんだ、
それがまたとてもいいんだ、
帰る前にちょっと見てゆかないかい?一見に如かずの作品であることは間違い無いよ』
『ここには無いんですか?』
『もうひとつの保管室でその絵は眠っているよ、
実はそれは長く僕が持っていたんだけど…段々…持っているのが辛くなってきてね…どこか美術館へ寄付しようか迷っていたら…鷹柳先生がそれなら是非とも、譲って欲しいと…』

『鷹柳先生、随分ダルトンにご執心なんですね、全然知らなかったわ』
『先生は…ダルトン氏を影武者疑惑で糾弾していたものの、反面ガートルード嬢に熱烈に恋してもいたんだ…先生自身は何も言わないが、
でも僕には解るんだ、
ガーティは最愛の父を糾弾する若き評論家を嫌ってまるで氷のように冷たく彼に見向きもしなかったけどね』

酔いが彼の舌をついなめらかにしたのか山下はいつになく個人的なことにまで触れて能弁だった。
『せっかくだからガートルード嬢の肖像画を観にゆこう、
ここよりもっと温度も湿度もキメ細かく管理された保管室に彼女は居るよ、
鷹柳先生のとこへお嫁入りする前にふたりでガーティに逢いに行ってみようよ、おめでとうってね』ふたりは薄金いろの白ワインを少量入れたグラスを持ったまま、エレベーターへと乗り込んだ。
そして吸い上げられるあの独特の感覚を微酔の中に感じながら彩はふと思った。

『四階にも保管室ってあったのね…』




…to be continued…

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?