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小説『エミリーキャット』第53章・出現

その室(へや)は鍵はかかっていなかった。自分に絵を見せる為に山下が敢えて施錠しなかったのかもしれない、と彩は思った。
日頃会社の最上階に用事の無い彩は、四階へは初めて来たのだが、狭い廊下に点(とも)るネオン管が暗くて定かには見えない廊下の奥の天井まで長く伸びゆき、仄暗く感じるその一番、奥のネオン管の一部がジジッと不穏な、まるで誘蛾灯に入り込んだ蛾を燃え尽くすような音を立て不安定に明滅しているのを彼女は鈍い怯えを持って見た。

それ以外は、彩のハイヒールの音も地下廊を歩いているかのように虚ろに響き、‘’随分森閑(しんかん)としているな‘’と彼女は内心思ったが内勤者も外勤部である画商社員も一人残らず帰ってしまったビルの中は今は何階でもそうなのかもしれないと思い直した。

『わあ』
と彼女はその室(へや)へ入った途端、思わず歓声を上げた。
扉の真向かいの壁一面にルオ―、ピカソ、エルンスト、マティス、といったいずれもリトグラフやアクアティント等の版画ばかりの錚々(そうそう)たるアーティスト達の作品がまるで小さな美術館のように並列して掛けられている。

その中にことのほか思い出深い版画を見つけた彩は、まるで窓灯りに吸い寄せられる羽虫のように眩しげな眼差しをしてその絵の前へと、にじり寄った。
美術館ではないので絵のタイトルは掛けられてはいなかったが、彩はそれが『悪いやつら』であることを知っていた。

こそ泥なのか?三人の男達が泥棒に入る前、事前の打ち合わせの鳩首協議をやらかしている最中に何か物音がしてはっとしたのか?
それとも偶然、町を警邏(けいら)中の警官に『どうしましたか?』
とでも声をかけられ、一斉に振り返ったはいいものの、ギョッとしてフリーズしてしまったようにも見えるその絵の中の男達はタイトルは悪いやつらや悪党どもであったとしても彩には極悪非道なホンモノの悪人達には見えなかった。どことなく怯々としておっかなびっくりな、その様子や‘’悪いやつら‘’なりに彼らは仲睦まじく固い絆があるのかもしれない、
三人揃ってこちらを振り向いた顔がいずれも『ジーザス…!』
という顔なのだ。
もし声をかけたのが警官なら彼らはきっと心の中で『神様あ、お助けを』と祈ったに違いない。

彩はこの『悪いやつら』がどことなく微笑ましく笑いを誘われてならなかった。彩は小さく笑いを漏らすとこう言った。
『昔、この作品を別のところで見たんです。
版画だし、複数画だから、
それにそこはあまり大きな美術館ではなくて…
本当に本当に小さな二階建ての個人が開くギャラリーで…ヴンダーリヒの作品展があると聴いて行ったんですけど、私は彼の作品はどちらかというと初期の頃のほうがより好きで、』
『‘’親友‘’とか‘’独り暮らし‘’…なんかの頃かな、』
『そうですね』
『独特のエロスだよね、
あれらを美しいと感じるかどうかは人にもよるだろうけど、官能的なことは確かだ、
でも単なる官能でもなくて…
退廃美…というと変だけど、でもそこに必ず巣食う虚ろさは無い、
退廃なのに…。
しかも死に面していないヴァイタルな退廃、生けるフィジカルさ、さえ感じられる。』

『あると思います。芸術には、
そういった矛盾…。
矛盾だけどきっとそれは矛盾ではない、それにむしろデカダンスは必要な要素です、画家によってデカダンスの現れ方は違うけど…
ベックリンの『死の島』などは鎮かで死の威厳さえ感じられます。
メメント・モリを想起させる…。
生が放つ血流の良さを感じるアクティブなデカダンや死の厳かさを覚える作品まで様々だけど…
‘’死について常に思え、忘れるな‘’という美術から発露した思想は、
モローだってクリムトだってシーレだってデカダンスの極みですもの、芸術家達は無視出来ないことなのかもしれない、
芸術家でなくたって時としてそうです…
この私だっていつ死ぬかなんて解らない、
たとえ若くても…
…だから…いつも絵が教えてくれるんです。そういうことを…。』

山下は彩が何かをまるで達観しているかのように、山下には解らないものに対して決意を固め、密かに覚悟を決めたような、そしてむしろそのことを悦ばしいことのように話すのを見て、ふと心配になり、そんな彼女を黙って見つめた。

彩は絵を見たまま再び朗らかに笑うと言った。
『でもそのギャラリー…せっかくヴンダーリヒ展だから行ったのに後期の作品しかなくて…
正直私はちょっぴりがっかりしてしまって…。』
山下はワイングラス片手に苦笑していった。
『そうなんだ、
まあでもそうかもしれない、
なんとなく解るような気が…』
『それでもせっかくだから一階二階と全部見て帰ろうと思ったんです。』その小さなギャラリーの中は雨の日だったからなのか、
ヴンダーリヒは日本では知名度がとても高いとは云えないからなのか、
彩とギャラリーの店主以外誰も居なかった。
彼女は一階をゆっくりと見て周り、あまり好きな作品には出逢えなかったものの二階も見て帰ろうとクリームいろのペンキ塗りの鉄筋螺旋階段を登っていった。

『‘’二階には誰か居るかしら?‘’
と思ったけどやっぱり誰も人がいなくって…二階もまるで今日の会社の中のように森閑(しんかん)と…
まるで水を打ったように鎮まり返っていて…』
と言いかけて彩は思わずうつ向いて小さく思い出し笑いをした。
『何?何かあったの?』
『ギャラリーの恐らく創庫なんでしょうね、多分関係者以外立ち入り禁止みたいな小部屋の扉が何故か半開きになっていたんです、
そしてその前を通りかかったら…
中にこれがあったんです』
『‘’悪いやつら‘’が?』
『ええ、それも他の著名な画家の作品と沢山、ぞんざいに床の上へ連ねて壁に立て掛けるように置いてあって…このルオーのは他の作品と一緒に後ろのほうに重ねるように立て掛けてあったので危うく見落としそうな感じで…
でも上へ重ねてある他の作品の下からでもほんのり少し見えていて…そこからでもまるで後光が射すようで』
彩の言葉に山下も彩も思わずふたり揃って笑った。
山下はその関係者以外立ち入り禁止の小部屋へ彩が勝手にまるでそれこそ泥棒のように入り込むやいなや、その後光が射すルオーを、他の絵の後ろからまるで我が物のように引っ張り出す様を想像した。

そして壁に立て掛けるようにして床の上に並べ、その前の床面にキャップを被りモッズコートとジーンズといったラフないでたちで座り込み、暫くの間、缶珈琲片手にじっくりと眺め入っていた様子を彩からの話を聴きながら思い浮かべて、山下は可笑しくなった。

『私、背後の扉をしっかり閉めて電気も点けて…中でルオーもなんですけど他にもたくさん素晴らしい画家達の作品があったから次々重ねてある中から引っ張り出しては床に置いて壁に立て掛けるようにしたり、手に取って間近で顔を近づけてつらつらと眺めたり…
散々独りで美味しい時間を過ごしたんです。』
『それは贅沢だなあ、
うらやましいや、
でも女性は勇敢というか…
結構チャレンジャーだよね、
僕だったら扉の影からチラ見程度はしても、そんなことする勇気はとてもとても…
小心者の尚(しょう)ちゃんって昔よく呼ばれていたくらいだし…。
でもよくそこの人に見つからなかったね』
『見つかったんですよそれが、
背後のドアノブが回る音がして…私、床に座ったまんまアメリカのマンガの猫みたいにぴよーんと飛び上がりそうになっちゃいました。』
『怒られたでしょう?』
『ええ、‘’こらこら!
こんなところ勝手に入ってナニやってんの??‘’
って、でも‘’ここが半開きになっていて中が見えたから思わず…‘’
って言ったらそこのギャラリーのオーナーらしきおじさまが意外なことをおっしゃったんです。
‘’おかしいな、ここは関係者以外絶対立ち入り禁止だし、オートロックだから半開きになんかなるはずがないのに、故障したのかもしれない、後で見とかないと‘’…って』
『いやあそんなのよくあることさ、オートロックの故障なんかじゃないね、
僕も似たような不思議なことって時々あるけれど…
そういうことって起こるよね、
絵を心底愛する人のことを絵のほうでも、よく知っていてくれるから、その人のことを絵が呼ぶんだよ、』
『絵が呼ぶ?』
『うん、絵もだし、絵に宿る画家の魂も君を呼んだんだと思うよ、誰でも呼ばれたりはしないから、むしろ光栄なことだと思わないと…
だけどそういうものはいくら鍵のかかる部屋なんかに入れておいてもあまり意味無いんだよね、
‘’聖アントワーヌの誘惑‘’じゃないけれど絵はとても強い牽引力というか…中には魔力を持つものもあるから、鍵なんてなんの意味も持たない』

『なんだか嬉しかったんだけど…
ずっとそのことが不思議で…
今山下さんからそう言われてやっとあの不思議が解った気がします。でも呼んでくれたのだとしたら凄く嬉しいわ、だってルオーだけじゃなくてピカソやアンソール、マン・レイ、モーリス・エッシャー、後、珍しいから驚いたんだけどシャルル・メリヨン、マリー・ロールまで…本当にたくさん居たんです』
『VIPルームへのお招きだったんだね』彩が微酔に頬を桜いろに染めて笑うと山下は言った。

『ここも結構なVIPルームかもしれないよ、ルオーの隣に在るのが後期になってから初めて画壇で騒然となった例の話題作なんだ』
『…これ…ダルトンの?』
『そう描いている対象は相変わらず、もの静かで優しいものなんだけどね、
ダリのような奇抜なところは微塵も無いのに、何て言ったらいいのかな…描くことに対して、あるいは表現することに対して彼はとことん狂信的なんだ。
鎮かな狂気すら感じる、
対象に対する狂恋すら感じてしまう。たとえそれが静物や風景であったとしてもだ。
……ダルトンはどうしようもなくファナティックな画家だよ』

それは噴水の一部を描いたと言われる絵であった。
絵のタイトルは『噴水』であると山下から教えられたものの、噴水そのものは敢えて描かれておらず、噴水の水が満々と盛り上がる人工池の水面に繊細な小波を外側に向けて幾重にも造り、さながら水々しい切り株の年輪のような水の環を小さなプールの水面に描いていた。
そしてその奥には噴水が水面に落下し飛沫を上げ、灰色の石で築かれた噴水の縁(へり)や、その下に続く階段には季節は秋なのか、
赤い小さな病葉(わくらば)が幾葉、さながら明るい影のように落ちている。
色使いは鮮明で写実主義とは云えないが手堅いタッチはやはり初期のダルトンを思わせる堅実さと静謐さがあった。

しかし彩が絵の前に立ち、その水面を見ているとたちまち水は幽かに揺らぎ妖しく蠢(うごめ)いた。
そしてその水はほんの一瞬、満ち溢れ、石造りの縁を伝って階段を伝い落ち、こちらに向かって流れ落ちて来た。

が、次の瞬間、まるで夢から覚めたようにものの数秒後、絵はもとの静謐なごく平凡といってもいいような穏やかな‘’ただの絵‘’となり、彩は思わず目をこすりたくなった。

それはほんの一瞬に過ぎないのだが彩は眩惑され、その水面に全意識を吸い込まれそうな感覚を覚え、思わず眉間に指先を添えた。

『大丈夫?』
『ええ、ああ、
やっぱり後期のダルトンが凄いって…よく解るわ、
三階にあった初期の作品のあの穏やかさからはとても考えられない臨場感以上のものがあるんですもの、聖人ダルトンに魔が宿ったと言われたっていうのも納得』
『この作品で日本のアート界のアイドルだったダルトンはたちまち一目置かれる鬼才ダルトンとなったんだ』
『でも同時に影武者が居てその影武者が描いてるんじゃないかって説も勃発したんですよね?
鷹柳先生らしいといえばらしいんだけど…確かにそう言いたくなる気持ちは解るわ、だって全然別人なんですもの、描いてる対象や選ぶ色使いが似ていても全く異質過ぎて…』
『描いたのはダルトンでも後から誰かが加筆したか、それもかなり大胆に、それともダルトン風の題材をダルトンを真似て描いてはいるものの、この通り全く異なる作品と化してしまっているか…
いずれにせよダルトンではなくて他の誰かが後期の幾つかは描いていたのではないかと…当時は鷹柳先生が声高に言っていたものの、急に途中下車するかのように先生はその説に触れなくなってしまった、以降先生はダルトンについてはずっと沈黙を守っている…
昔も…そして今も尚…』

『どうして?』
『…さあ…どうしてかな…
ダルトンに当時は弟子入りした青年が居てね…影武者は彼ではないかと噂されていたがそれも定かではない、
いつの間にかその青年もダルトンのもとを去っていったしね…』
『弟子が居たんですね』
『うん、ダルトンはそういうのを取らない主義の人だったんだけど青年の熱意に負けて晩年、師事するようになったんだが…
あんな奴、ダルトンは門戸を開くべきじゃなかったと僕は思うよ、あいつはとんだ癌だった』
『えっ…?癌?』
『もの柔らかで誰が見ても誠実で善良な…その実あいつはダルトン家を蝕む癌みたいな男だったよ』
山下は急に吐き捨てるような口調となって苦々しげに語った。
『……どうしてそう思うんですか?』
『ウィリアムさんはあいつに騙されたんだよ、障害のある娘さんのことをゆくゆくは託せると思ってしまったんだ、
師事した理由はそういった背に腹を代えられない理由もあったんだと僕は思う…』
『そういえば…ダルトンの娘さん…
ガートルードには何か障害があったと…前に少し聴いた気が…』
彩は‘’それはどんな障害だったんですか?‘’と聞こうとして山下がビリー・ダルトンのことをウィリアムと呼んだことに今更ながら気がついてはっとした。

『山下さん、ダルトンはビリー・C・ダルトンでしょう?それなのにウィリアムって今…』と言った。
何気なく言った途端、彩の胸の中で夜の暗闇の中の野原が、長い女の黒髪のように風に大きく揺らぐようにざわめいた。

『そうだけど…本名はウィリアムなんだよ、通称ビリーだけどね』『えっ?じゃあ…ダルトンは…
本当はウィリアム・ダルトン?』
『そうだよ、どうして?』
『いえ、…ただ何故、ウィリアムがビリーなんて…と思って…』
すると山下は意味ありげな笑いを浮かべながら彩の問いとは一見なんの関係もない話をした。
『彩ちゃんさあ、
松雪くんから聴いた話なんだけど…ふたりの馴れ初めは松雪くんへのティーチングの時、君が画商のいろはを教示した時だったんだろう?』
彩は急に何故そんなことを言い出すのか山下の深意が解りかねて、困惑した顔でただ山下の眼を見つめ返した。
『松雪くんがこんなこと言ってたよ、‘’彩と初めて出逢った時、彼女は先輩でおまけにコーチで、とても冷たかった‘’って、
それと君、彼にこんなこと言ったんだろう?
彼が好きなセザンヌの『サント・ヴィクトワール山』の連作のどれかや、『トランプに興じる男達』なんかを家に置いて日がな一日眺めていたい、といった夢のまた夢みたいなことを言うと、君はまるで鼻で嗤うような口調で‘’そんなことは象が針の糸を通ることよりも難しい、
どれも世界で唯一であるセザンヌの超大作など、たとえビル・ゲイツでも手に入れるのは無理かもしれない‘’と…』
『さあ、よく覚えてませんけど…
シンちゃんそんなことを?』
『ビル・ゲイツの本名はウィリアム・ゲイツだって知ってた?』『えっそうなんですか?』
『ウィリアムって名前の人はウィルとかウィリーとか呼ばれたりするけれど、ビルやビリーと呼ばれることも多いんだ、
ウィリアムの綴りの中には一文字だってBの文字は無いのにね、
僕ら日本人からしたら奇妙な感じを受けるけど、ダルトンさんはウィリアムって固い感じを好まずにフレンドリーにビリーって幼い頃から呼ばれていた通称で一生通したんだ、
ビル・ゲイツもだけど、かつて大統領だったビル・クリントンだって本名はウィリアムだ。
向こうの人はかなり公的な場でもショートカットした呼び名、
つまりニックネームで通してしまうことに抵抗は無いようで割りとよくあることなんだよ、
日本じゃ考えにくいことだけどね、たとえば僕の昔の知り合いの女性はナンシーと呼ばれていたけど僕は何年も交流があって…だいぶ経ってから本名はアンだって知って驚いたことがあったよ、
アンが何故ナンシーになるのかってちょっとの間悩んだからね、
ナンシーのほうが本名より字数も多くなってるわけだしニックネームとしては奇妙な気がしてね、
でも向こうの人は戸籍上の本名で必ずしも呼ばれるとは限らないようなんだ』
『でも…でもじゃあ…ダルトンって苗字は?それも…それも本当は違うのでは?』
『…君は…何故そんなことを言うんだい?』
山下は彩にふと彼女は奇妙なことを云うなといった顔をして、一瞬彩に怪訝の眼を放った。
『ダルトンはダルトンだよ、
ウィリアム・ダルトンだ、
通称はビリーではあるが…
…そうだ、
そんなことよりもガーティの肖像画を見ようじゃないか、
せっかくその為にここまで来たんだ、』
『山下さん、ここ、確か四階でしたよね?何号室か知ってますか?』彩は急にまるで虫の知らせに怯えたような心持ちとなって、そう問うた。

突如、踵(きびす)
を帰そうとした彩に山下は言った。
『さあ…何号室だっけ?
番号はあったはずだけど…覚えてないなあ

と言いながら彼は部屋の中央奥に複数白布の掛かった絵がイーゼルに立て掛けてあるそのひとつの前へ歩み寄った。
『私…もう帰らないと…』
ドアの前でそう言って振り返った彩に山下は言った。
『急にどうしたの?
せめてこの絵を見てからでも』
と言うか言い終わらぬかのうちに彼はリネンの白布を一番手前の長方形に近い大きめの絵の上から丁寧にと同時に大胆に剥ぎ取った。

『………』
彩は呼吸が止まり、時間が自分の奥深くで巻き戻ってゆくのを感じた。

鴉が彩の中を羽ばたきながら貫いてゆき、凍りついたように冷たい門扉を内側から掴んだまま、淋しげにエミリーが微笑む。
門扉の向こうから一声吠えたバターカップ、門扉の隙間からすり抜けるように外へ出ると彩に抱かれたロイの温かく柔らかい毛並みと抱いた感触、その重み、
森、天にある湖のように光る秋の空、栗、病葉(わくらば)、黄金のアカメガシワが散り敷かれたような森の地面、
要塞のような不思議な建物、
去ってゆくエミリーの悲痛な後ろ姿、猟犬のように寄り添うバターカップ、彼女にいつも付かず離れず共に歩くロイや猫達、
キャンディケーキのジャリジャリした感触とその余りにも節操の無い甘さ、
それは礼儀にもとるインモラルなな甘さだった。
それなのに美味と感じたのはビューティフルワールドで口にしたからだったのかもしれない。
エミリーが濡れた紫水晶のような葡萄を片手でぶら下げるように持ち、その果粒を唇でくわえると、皮つきのまま美味しそうに口に含み食べる様、
エミリーと共に抱き合ったまま転がった庭、そのまま斜面を転がり落ちてふたりは飢えたような口づけを貪(むさぼ)るようにして互いを味わい尽くした。

果てしなく上へ上へと薔薇の花弁のように連なり、巻き上がってゆく血赤珊瑚で築かれたような真紅(しんく)の螺旋階段の頂上に在る薔薇窓が、月の光と流れる雲とに輝く、翳る、
そしてまた輝く。

その追憶の白い焔が揺らぐ向こう側で彩はかつて自分が言った言葉をもう一度どこかで聴いた誰かの科白(せりふ)のように耳にした。

『エミリーどこ?
ねぇどこに居るの?』

そんな彩に応えて典雅な薔薇窓の傍からエミリーが欄干を掴み、顔を覗かせ、彩にこう言う。

『ここよ、彩、大丈夫、
ここまで登ってきて』

白布が滝のように床へと流れ落ち、カンヴァスが現れたその時、彩は山下の声を同時に聴いた。

『思い出した、
ここは401号室だった、』

彩はその声をどこか遠くで聴きながらぼんやりと麻痺したような頭の隅で思った。

『本当は解っていたの、
ああ私…
エミリー、私は解らない、知らないふりをしていただけなのかもしれない、私は心の底のどこかで本当は解っていたのにそれを認めたくなかったの、
エミリー貴女が本当はガートルードだって…』

そう心の中で囁きながらも、
彩は目の前に現れた大きな猫を抱いて薔薇の咲く繁みの前でこちらを見るその姿に今更ながら戦慄した。

絵の中のエミリーは彩がすっかり見慣れたあのトラッドな黒縁の眼鏡を掛けている。
少し色のかかったスモーキーなレンズの下で秘密めいた瞳が黒真珠いろの夜空の雲間から輝く月のように淡く輝きを放つ。
エミリーは茶葡萄のタートルネックのセーターを着て、その上から黒のやや解(ほつ)れたような毛糸編みの旧粧(ふるめか)しいショールをまとい、
ダークグリーンや黒やグレー、赤の入ったチェック柄のロングスカートを細身のドレスのように身につけ、大猫を抱き上げている為に肩から毛糸編みの黒いショールが猫の爪でずり落ちて片身頃だけ地面すれすれに着きそうだ。
猫の片目が一瞬、宝玉(ほうぎょく)のように妖しく光り、
絵の中のエミリーが彩に微笑む、
あの日、
あの時と同じように彩にだけ微笑む、

『彩』

その囁く天鵞絨(ビロウド)のようになめらかで暖かいアルトまで耳もとで聴こえるようだ。

『…エミリー…』

彩の指先からワイングラスが、
凍て溶ける氷柱(つらら)のように滑り落ち、ゆっくりと彼女の中で時を超えて彩の泪のように床へ零れ落ちると砕け散った。

『……今、なんて言った?』

彩はその今や山下の声とすら判らなくなったその声をまるで他人事のように聴いた。
泪に濡れた頬でその声のするほうをぼんやりと振り向くと、山下が別人のような形相でそそり立っていた。

彼はたいして広くもないその部屋で何故か酷く遠くに居るように最初、彩は感じた。
それはまるで心もとなく立ち尽くす山下ではなく、見知らぬ誰かの昏い影法師のようでもあった。
そしてその声がしたと彼女が思った次の瞬間、山下は彩に急接近したように彼女は感じた。

山下の顔色は一瞬にして土気(つちけ)色と化し、白目の奥で瞳が異様なほど小さく絞られ、さながら猛禽類の眼のようだ。
ワイングラスを持ったその手が、大きく戦慄(わなな)いている。
そして彼は凍りついたような声でこう言った。
その声はまるで別人のようだと麻痺したように薄ぼんやりと彩は思った。

『…何故その名前を…何故?
どうしてお前が知っているんだ!?』





…to be continued…

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