1人がたくさんの絵

小説『エミリーキャット』第11章・幻惑ドライブ


やがてタクシーのフロントガラスを過(よぎ)るワイパーの規則正しく微かな音に目覚めた彩はふとタクシーの窓外へと目をやった。
霧雨が降り始め、すっかり暗くなった街の派手なネオンサインや、店々の様々な色に点(とも)る窓灯りに向けて、彩はそっと疲れた眼を閉じた。


彩にだけ見えるその暗く熟した杏(あんず)の果皮を内側に天鵞絨張(びろうど・ば)りにしたような色の世界に滲むように光っては見え、
消えてはまた光りその点滅を繰り返す彼女の内部に彩は激し過ぎる疲労を感じた。
その鮮明さとは裏腹に総(すべ)ての輪郭は曖昧で、彩の泪(なみだ)も伏せた睫毛もその沈痛な横顔すらも、その原形を残さないほど溶けて道路脇の排水溝に街ごと、車ごと、自分というちっぽけで愚かな女も、まるで路面に落ちた歩行者達に散々踏みにじられた病葉(わくらば)のように流れ落ち、その深い暗渠(あんきょ)の不潔な水の底で泥々になり、やがてすぐに跡形もなく消え失せてしまうのを感じて彩は内心清々(せいせい)した。
そして微熱に浮かされたように
思った。
『本当にそうだったらいいのに…』

遊歩道を拡げる工事をしている辺りでは、工事現場を囲む赫く光るセーフティコーンが彩をひやりとさせるほど刺激的で幻想的に輝き、その発光のしかたはまるで生きた何か意思あるもののような輝きかたで、それが鈍い不安を彩の中に起こさせた。


その意味は解らないのに彩に向かってしきりに助けようと送られてくるサイン、同時に真逆のサインまでもが送られてくるような切羽詰まった感覚、彩の中にそれらが同居することを彩は本気で怖れた。
『雨やっと止みましたねぇ』
とタクシーの運転手が話し掛けた。
『…雨が降っていたんですか?』
彩は沈黙を破って幽(かす)かな声でそう言ったが、発声の始まりだけほんの少し弱々しげに掠(かす)れていた。
『霧雨がほんの少しだけね』
道路が濡れ色に光り、その黒鏡のような舗道はあらゆる街の光を逆様に映し出し、ムンクの絵のあの夜の水面に浮かぶ月柱(げっちゅう)のように『それら』は長く遊歩道からガードレールの段差までをも流れ降りてきたりもした。
やがて『それら』は道路上にまで黄金(きん)色の液状と化して細長く触手のように伸びながら、その秘奥(ひおう)に様々な彩りをさながら万華鏡のように宿したまま、ゆっくりとこちらへ向かって不安のように巨きくはらみ、拡がり、その癖、鎮(しず)かに流れ寄ってくるかのように彩には感じた。
華美で鮮烈で圧倒的な不安はひたひたと忍び寄る宝石のように美々しい蜥蜴(とかげ)の姿をした幻視か、悪夢のようだ。
やがてタクシーは渋滞に巻き込まれた。
『あーあぁついてねぇなぁお客さん、可哀相にごめんなさいねぇ』
と運転手は謝ったが彩は微笑んで
『運転手さんのせいじゃないです、仕方無いですわ秋の天気は不安定ですから』
彩は不安に抗(あらが)うようにわざと明るく答えた。
『オネエチャンは今からデート?めんこいから会社でもモテるんだべ?』
今まで出なかった東北訛りがふいに運転手の口から人懐っこくぽろりと出た。
『会社じゃ私は怖がられています。
特に怖いようなことを云う訳でも無いんですけど、多分お局様扱い陰ではされているんじゃないかしら』
運転手は思わず大きな笑い声を上げたが急いで取り成すように柔和な笑顔に戻ると
『そんなことあんめぇ、さぞかし職場の華だろうに』
彩は渋滞でストレスを感じるであろう客を労(ねぎら)おうとする運転手の温かな心遣いが嬉しくはあったが、体調の悪さと疲労のほうが勝(まさ)っていたので、内心早く渋滞から抜け出せたら、このとりとめのない善良だがお喋り好きな運転手との会話も打ち切れるだろうにと思った。

 
運転手は人は善いであろうが気遣いにムラがあるのか、彩と会話を交わすうちに段々図に乗り始めた。
『オネエチャン独身?彼氏は居るの?』
と案の定、彩のプライバシーに関する興味本意なのか暇潰しなのか時間を持たせる為なのか?
彩の私的なことへの根掘り葉掘りが始まり、彩は曖昧に微笑んだり笑って答えをスルーしていたが、ふとタクシーが止まっている道路脇から見える小さな画廊に眼が釘付けになった。
遊歩道の上、等間隔に黄葉(こうよう)の始まりかけたプラタナスの樹が立ち並び、その樹と樹の間から見える画廊のショウウィンドウに飾ってある絵は、彩の見知らぬごく写実的な絵であった。
昼下がりであろうか、
草地に菫(すみれ)色のドレスを着た異国の愛らしい童女が、靴紐を編み上げたドレスの色とよく似合う象牙色のブーツの両足を投げ出して座っていた。
その両足の間に非常に大きなやや毛足の長めの白地に焦げ茶の虎縞の模様の入った猫が座り、童女はその猫を後ろから抱き締め猫の首筋に顔を半ば埋めていた。
抱き締められた猫はそれを厭うでもなく、凜然(りんぜん)とした澄んだ眼差しを遠くに向けて、まるで童女を兄のように守ろうとでもしているかのように雄々しく見える。
いい絵だわ…と彩は心弱りする最中(さなか)で思った。
何か救われたような気持ちにすらなった。
少女のゆるやかに波打つ西洋人独特の日本人の癖毛とは趣きの異う流麗と豊かな髪の円いはらみの一番高い部分に木漏れ日が一点当たり、柔らかいヘイゼルの髪がそこだけ小さなスポットライトを浴びたように金茶色に輝きサテンのように艶めいていた。
乳白色のポーセリンのような頬や手は幽かに薄薔薇色を帯びていて、抱き寄せた猫に埋めた長い睫毛を伏せた横顔は彩の心をそのまま反映したかのように不安げだ。
反して猫は鎮けさの中に芯の強さを秘めた中高い横顔を見せ、その横顔の放つオーラはまるで無骨な野武士かエレガントではないが雄々しく逞しい騎士、或いは童女を護る、さながら神話のライオンのようですらある。
『…あら…?この間、森の花屋で逢ったあの猫になんだか似ている…』
ふと彩は思った。 

がそう思ったと同時に彩は別の男の声で眼が覚めた。
『お客さん、着きましたよ』
はっとして彩は目覚めたが、目覚めて彼女は怖れのあまり、たじろいで窓際にドンと音を立てて身体をぶつけてしまった。
そこはバスの中だった。
『どうして?だって私…!』
彼女は咄嗟にその先の言葉を恐れが先立ち、飲み込んだものの心の中ではこう叫んでいた。
『タクシーに乗っていたのに!
何故わたしはここに居るの?
誰か教えて!』
怯え惑う彩をバスの中の僅かな乗客達が皆、まるで生まれて初めて見る異邦人でもみるかのような、一点に貼り付くような訝(いぶか)しげな眼を彼女に向けて、一斉に硬くて無遠慮で一途(いちず)な凝視を送っていた。
バスの運転手までがどこか虚ろな眼で彩をぼんやり見つめてこう言った。
『お客さんでしょう?
ここのバス停で降りるボタンを押したのは』
『…えっ?…わ、私?いいえ、だって私は』
と言いかけて彩は口ごもった。
“さっきまでタクシーの中にいたんですもの”…。
そんな事を言ったところで一体誰が信じてくれよう?
重い鈍色(にびいろ)の空気感が張り詰める中、人々は皆、人間離れした橙(だいだい)色の白目ばかりが異様に広く大きくその中央で、まるで小さく絞られたような黒点に近い黒目で、彩を一斉にまるで怯えたように、責めるように、求めるように、息を止めて無言でこちらを向いて見つめている。
その顔という顔は皆、驚くほど瓜二つで隣り合わせの顔すら区別がつかない、
男女の差すら見分けがつかず、老いているのか若いのかすらもまるで解らない、さながらマスカレード帰りの仮面の群集のようだ。

その不安が泉の如く溢れ出る、あまりの臨場感にバスの中に居ることがいたたまれずに、彩は怯々(きょうきょう)とバッグとマフラーを震える手でまとめると、急いでバスを無意識にまるで滑落するような勢いでいつの間にか降りていた。
バスは不穏な雰囲気を残したまま音も立てずにそのまま立ち去った。
立ち去るバスの広いリアウィンドーに数名の乗客が皆一斉に紫陽花(あじさい)の額のように、びっしりと寄り集まって手のひらを硝子に押し当て、小さ過ぎるまるで猛禽類のような黒目を見張り怯えたような、嗤うような、奇妙な貌(かお)を向けて残された彩をバスが闇路の奥に消え去るまで執拗に見送っていた。
まるで蒼白い発光に包まれるような弓なりに弧を描く道路の向こうへとバスが秋というのに赤紫色の濃霧(のうむ)の立ち込める彼方へと立ち去るのを彩は見届けた。
彼女はぐっと革の手袋を嵌めた手を鎖骨の真中に置くと、そのこぶしで優しく自分を鼓舞するかのようにとんとんと2回軽く叩いた。
『大丈夫、大丈夫、大丈夫よ、わたし』
彩はようやくバス停の周囲を見回した。
バス停の背後はザワザワとどこか不穏なざわめきを立てる暗黒の居丈高な森の影が教会の鐘楼のように屹立(きつりつ)していた。
『…森…』

と彩は晩秋が近づきつつある冷気の中で白い真冬のような息をついた。
『ずっと呼んでいたんでしょう?…知っていたのよ私…』        と森の黒い輪郭を備えた一枚一枚の葉や長い枝葉を赤銅いろに燃えるような赫い異様に大きな夜空に低くかかる満月を背後に、黒々としたシルエットを人の指のように浮かび上がらせた。
それらはさながらピアノでトリルを奏でる人の指の動きのように舞踏的に、スウィングするのを見た。

彩自身の気持ちの昂まりのようにそれらが一斉にざわめき始めたのを見ても彩はむしろ平静だった。 バスの中に居たほうがずっと不安だったからだ。 その前のタクシーだって快適だったわけじゃない。 その前のクリニックに居たって、会社でも…。本当のことを言えばどこにだって私の居場所なんて在りそうで無かった…。 本当のことなど誰にも打ち明けられない、どこに居ても息が詰まりそうだった。…そう最愛の人の前ですらこんなに心身が軋みを上げている時ですら…。私は秘匿(ひとく)ばかりしている。辛いの、私辛いの、このままでずっと居られない、彩はふとそう泣くように独りごちた。 と同時に森が自らを開いた。





(To be continued…)

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