ステンドグラスアップ

小説『エミリーキャット』第3章・魔がさす時

『馬鹿だなぁ彩は…何やってんだ、危ないじゃないか夜に雑木林に普通入ったりするか?』
慎哉は彩のマンションのキッチンで、体調の優れない彩のために鰹節の香りがほんのり立つ粥を作ってくれた。
彼は卵を計量カップに割り入れると、それを菜箸で混ぜ合わせ、粗塩だけで主な味付けをしたシンプルな粥へ回し掛けると数秒で火を止めた。
キッチンのテーブルの前に座った彩は不貞腐ったようにこう呟いた。
『違うわ、雑木林じゃなくてあれは森よ、雑木林は小汚ないけど森は綺麗だもの』
『綺麗ったってそんなに暗かったんなら、綺麗か汚ないかなんか解らないじゃないか』
慎哉は作りたての卵粥の湯気の向こうからそう言った。
そして彩のお気に入りのヴェラ・ウォンのボウルへと、雪平鍋から木杓子を使って切るように混ぜ合わせつつもややぞんざいな手つきで粥をよそおった。
そして向かいの椅子に音を立てて座りながら、
まるで兄のような口調で彩をたしなめた。

『だってぇ…』
『だってじゃない!だいたい気分が悪くなったのは仕方無いとしても、なんでそんな雑木林の奥に入り込んだりしたんだよ?危ないだろう、そんなとこさぁ普通、昼間でも入らないよ、おかしな奴が潜んでいて襲われないとも限らないだろう?そんな暗いひとけの無い雑木林なんか入っちゃダメだ、彩、解ってるの?君のやったことは些か軽率だったんだぞ』

慎哉はいい匂いのする卵粥のボウルを彩の前に置きながら、自分のぶんのボウルも置くと差し向かいに腰を下ろした。
『解ったわ…ごめんなさい、確かにそうね軽率だったと思うわ、でもあれは確かに森だったのよ、雑木林ではなくて、いただきます』
彩はしつこく言い正すと、両手を合わせて慎哉に向かって一礼した 。
『森でも雑木林でもなんでもいいんだけどさぁ』
と慎哉はれんげで卵粥をすくいながら
『出てこれなくなったりしたらどうするんだよ?遭難まではゆかないとしてもさ』
『遭難だなんて』
食べかかって思わず笑いながら彩は言った。
『そんなとこじゃないわ青木ヶ原樹海じゃあるまいし』
『そうだけどさ、それでもそんなに深い森なんだったら、中には獣を捕らえる為のろくでもない装置とかあるかもしれないじゃないか』
彩はれんげの卵粥に息を吹き掛けながら、思わずその息を飲み、さも厭な言葉を聴いたというふうに眉をひそめた。
『虎ばさみのこと?』
『まぁあれはあまりにも残酷だからって今では禁止されてるって聴いてはいるけれど、世の中なんでもする奴は居るからな』
『あんなの仕掛ける人は最低よ、人間じゃないわ』
『もちろんだよ俺だってそう思うけど…とにかくそんな誰も入らないようなとこに、今後はもう入らないほうが賢明だと思う。』
『…そうね…』
『だいたいなんで森なんかに入ったりしたんだよ、普通誰も入らないだろう?気持ち悪いじゃないか、しかも夜に、臆病で慎重な彩がそんなことするなんてなぁ』
ほっぺの裏が熱そうな咀嚼をしながら喋りにくそうに慎哉は言ったが、何度考えても、どうにも腑に落ちないといった様子だった。
『私も解らないの…何故あの時あの森に踏み込んだりしたのか…本当にどうかしてたんだと思うわ、いつもの私なら昼間だってあんなとこ入ろうともしないだろうし、そんなこと考えつきもしないと思う』
『考えてなかったからなんじゃないか?』
『えっ?』
『ほら、よく“魔が差す”とかいうじゃないか、これとは少し違うけれど人間って何も考えられなくなる隙間みたいな一瞬が出来ることがたまにあるんだよな』
『隙間?』

『そう俺…昔、そういうのあったんだよ、彩の夜森に入ったっていうのとはだいぶ違うんだけど』
『何?それ魔が差したことがあるの?』
美味しい卵粥の味を楽しみながら、彩は舌というよりは頬で喋った。 

『冗談じゃないんだ』
慎哉の真剣過ぎる眼と心ならずも対峙してしまった彩は、粥を飲み込むとひと呼吸置いてからたずねた。
『ねぇ何?それ、わたし聴いたこと無いわよね』
『引かないか?』
『何よ婚約してるのよ私達…』彩は婚約指環を嵌めた左手を慎哉にかざして見せた。
『今更引くもなにも無いわ、私だって婚約中に癌になったんだから、』
『乳癌だろう、癌っていうなよ』
『でも癌よ』
『乳癌は早期発見なら治る確率が凄く高い癌なんだから他の癌とは違うよ、それに彩は比較的早期だったし』
『それなのに再発した』
『だから全摘した』
『そうね!そうだわねお陰でわたしはおっぱいが一つしか無い四十路近い貴方の惨めな婚約者、こんな私でももらっていただけるんだから文句云えた義理じゃないわよね』
『またそれなの?絡むのよせよ、俺はそんなことより彩が健康にずっと俺と一緒に生きてくれるほうが嬉しいんだから、おっぱいなんか一つになったっていいじゃないか、もうそんなにおっぱいにこだわるのはやめようぜ』
『シンちゃんには解らないのよ、結婚して乳房を失ったんならまだしも…私まだ結婚前よ』
『それでも彩は彩だ、俺にとって大切なひとに変わりはない』
『…』思いっきり文句を垂れてやろうと身構えていた彩だったが、急に涙が込み上げてきてその先が言えなくなってしまった。
『愛しているよ彩、おっぱいが一つになっても彩は綺麗だ、俺より三つ歳上でも彩は可愛いし愛しいと思っている』慎哉はテーブル越しに腕を延ばして、彩の泣き濡れた頬に暖かい大きな手の平を当てた。 

『彩は俺の可愛いティンカーベルだよ、おっぱいがひとつになっても妖精なんだから可愛いままさ』
ティンカーベルが好きでティンカーベルのグッズを収集している37歳の彩は泣き笑いして『慎哉と違って私は大人になりきれないままだもんね』
『そういう意味で言ったんじゃないよ』
『ティンカーベルは病気の年寄りになっちゃったわ』
『そんなことない!』
『おまけにおっぱいが』といいかけた彩は立ち上がった慎哉の固い胸にいつの間にか抱き締められていた。
『もう言うなよ、自分で自分を傷つけるなティンカーベル』
『…』
ひとしきり彩は慎哉の胸で泣いた後、慎哉の腕にまだ取りすがり、その胸に耳を当てたまま囁くようにたずねた。
『慎哉の“隙間”に起きた出来事って何?聴かせて』
『…俺達結婚するんだから…言ったほうがいいかもしれないな…』
慎哉は自分の腕の中で安堵して素直にうなずけるようになった彩に更に安堵して、彩の頭を胸に固く抱き寄せながら話し出した。
『俺、放火したことがあるんだ』
『…えっ』彩は抱き寄せられたまま閉じていた瞳を驚いて見開いた。
『高校生の時だった…父が浮気しててさ…母は悩んでいた…俺は薄々知ってはいたけど結局母を慰めたりいたわったりとか何もしなかった、母はそのうちもともとあった鬱病が悪化して…自殺したんだ』
『…』彩は言葉を失った。 

慎哉は母親は病死したと言っていたので初めて聴く自殺という言葉に惑乱した。
しかし彩も自殺を考えたことが無いわけではない。
だが慎哉の母親が自殺していた?
彩は思わず身を固くした。
それに気づいた慎哉は言った。
『いいんだごめんよこんなこと話して…体調の悪い彩に今話すべきじゃなかったのかもしれない』
身を離そうとした慎哉の胴を逆に抱き寄せた彩は、その胸に動揺を隠す為に、わざと顔をうずめて試問した。
『いいの話してシンちゃん、私ちゃんとシンちゃんのこともっと知りたい』




(To be continued…)


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