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小説『エミリーキャット』第26章・保管室での邂逅

『吉田さん、まだ居たの?
随分遅くまで仕事してるんだね』

先輩の山下 尚三が背後の扉の陰からそう言って掛けた声に、彩は悪夢から覚めるような思いで、急に現実に引き戻された。
彩はパイプ椅子の背を掴んだまま、鋭く後ろを振り返った。
すると山下のいかにも人の善さそうな面長の顔が、半開きの扉の陰からまるで子供のように身体ごと折れ釘のように傾(かし)いで覗き込んでいるのが目に入った。
その様子はいかにも漫画チックでひょうきんだった為に、彩は思わず吹き出しそうになるのをこらえて、ごく自然な明るい声でこう答えた。
『いえ、ちょっと来月オープンを控えてるヨーロッパからの作品を、
チェックしていたところなんです。
山下さんも遅いんですね、
残業ですか?』
『いやっ、そういうわけじゃないんだけど…
あのさぁ吉田くん、
そのファイルの中には無い画家の作品、見てみたくないかい?
3階にあるんだけど…』
『3階?何故?
だってあそこはほとんど保管庫のようになっていて…』
『その保管庫の中から来月もしかしたら、オープン作品に仲間入りするかもしれない作品があるんだ、
もともと昔から自社のものなんだけど、売ってみてはどうか?って話が出てきていてね、
まだハッキリと本決まりした訳じゃないんだけどさ、
ねぇ、観に行こうよ』
『いいですけれど…なんて画家ですか?』
『ビリー・C・ダルトン、
英国出身の画家だよ』
『ビリー・C・ダルトン?
聴いたこともないわ』


『あれぇ…そうなの?
まぁでも君の世代ではそうかな…
僕らが若い頃は一時期、ダルトンはマニアックな人気があってね、
記念切手になったり、カレンダーやいろんなグッズにまでなったりするほどの人気ぶりだった。
彼はイギリス出身の画家とはいえ、活躍したのはこの日本が主な拠点だったから…
むしろ日本でしか知られてないんじゃないかな』
『へえ~珍しいアーティストなんですね…見てみようかな』
ふたりはエレベーターに乗り込みながら語らった。
『そう珍しくもないよ外国から来日して、日本に何故か居着いてしまって、日本を描くようになった画家や作家は割りと居るからね、
京都や金沢を多く描いた版画家のクリフトン・カーフやエッセイや書評、小説で有名だった人ではC・W・ニコルとか、日本の文化や芸術を深く研究し、同時に欧米に紹介し続けた評論家としては世界初の草分け的存在だった、かの、ドナルド・キーン氏とか、
彼の書いた日本の文化や歴史や日本のあらゆる芸術に関しての書物のほとんどは欧米でも無論、出版されてはいるけれど、日本でのリスペクトを籠めた知名度からすれば、比じゃないんじゃないかな、
残念ながら今言った偉人達は、全員お亡くなりになられたけどね』
『それにしても私、ダーリントンなんて名前の画家は初耳です。』
『ダルトンね、
ダーリントンじゃなくて、
吉田さん流に名前作っちゃわないようにね?』
と思わず赤面する彩を見て、山下は愉しげに笑いながら『ダーリントンってのも、響きがロマンチックでいいけれどね』
と言って、保管室の扉の鍵を開けた。
彩は山下が沢山ある鍵束をジャラジャラ鳴らしながらも、すぐにその中から似たり寄ったりの鍵をすんなりとどこか慣れた指先で選(よ)り出して
扉の鍵穴に当てるのをふと不思議に感じた。
『山下さんよく保管室に来るんですか?』
『えっ…いや…まぁ…そうだな…』
山下は曖昧に言葉を濁すとガチャンと一瞬彩がひやりとするほどの大きな音を立てて、保管室の曇り硝子の窓が縦に真っ直ぐ嵌まった味気無いグレーの扉を開けた。


扉の横の手垢じみた壁のスイッチを指でパチンと下げると、更に味気無い蛍光灯が並列して点(とも)り、
決して広くはない室内を照らし出した。
壁には当ギャラリーが持つ絵の数々が、額に納められて壁に掛けられているが、中には室内の隅に幾枚も裸のまま、壁のほうに絵を向けて立て掛けた状態で、半ば放置されたような作品郡もある。
その絵の上には、大きな白い布が掛けられ、絵画達はもの悲しげに沈黙し、眠っているかのように見えた。
彩はふと白布に包まれた絵画達を見て思った。
''好きで眠らされてるわけじゃない、絵だって本当は目覚めたいのよ、
目覚めて人々と交流したり、
交感したりしたいんだわ、
自分を観てもらいたいはず、
だって絵なんですもの、
それなのに…こんなところで身を寄せあって、まるで昏睡状態のように眠っている…。
何年も…何年も、
海を越えてはるばるやってきたというのに。
この極東の国のお世辞にも綺麗とはいえない、煤(すす)けた窓すら無い暗い小部屋の片隅で…"

山下は壁の絵のひとつに真っ直ぐ歩み寄ると、彩を振り返って微笑んだ。
微笑むその顔はすっかり白髪が目立つとはいえ、来月の師走にはもう還暦を迎えるとは信じられない、まるで大学生の青年のような奇妙な初々しさがあった。
『これなんだけど…ビリー・ダーリントンじゃなくってダルトン、』
『いやだわ山下さんたら、』
と彼に招き寄せられて彩は苦笑しながら絵の前に立ち、思わず『えっ…?』
と声を上げた。
絵の中で端正な横顔を見せる異国の少女が、毛足の長い大きな猫と並んで大きめのカウチの上に居る。
少女はカウチの上で猫のほうを向いて、ちょこんとかしこまって正座をし、猫にブラシをかけようとしていた。
少女は黄金(きん)いろの輪郭の小さな頭を包む亜麻色とも言い難く、金茶いろとも言い難い、淡い砂いろに薄茶と蜜いろを加味したような、
それでいて黒っぽい焦げ茶のブルーネットに見えなくもない、
はっきりと何色とは形容し難い微妙な色の長い髪に隠れて、その横顔は少ししか見えないが、婦人用の銀の背のついた大きく典雅なヘアブラシで猫の毛を梳(と)こうとしている様子である。
そんな少女に対して大きな猫は、
取り立てて厭(いと)うことなく、
どこかどっしりと獅子の風情で、
少女に向かって背を向けて長々と、まるで砂漠のスフィンクスのような形で座りながら、恐らく絵筆を握る画家に向かって両前肢を向け、意思の強い瞳をも向けている。
背後と両脇を取り囲むように広い窓があり、そこから射し込む放射線状の光の反射の為に、猫の片目の色が判然とは描かれていないが、彩は不思議な邂逅(かいこう)をこんなところで得た気持ちになった。
『…この猫……』
と思わず云いかけて、彩はその先の言葉を飲み込んだ。
心の中でその言葉は、彩の中で昏(くら)く遠い水の上へ落ちた雫の音のように谺(こだま)した。

『ロイだわ…』


『何?吉田さんこの絵、見たことあるの?』
『いえ、そういうわけでは…』
と云いながら絵に向かい合って立つうちにその光の描き方や色使い、遠近感があるようで無いような、不思議な空間の捉え方、恐らく故意にであろうが近くに見えて遠くにも同時に感じられる対象の描き方は、観る人によっては一瞬目の錯覚で酔いを感じそうになるのではないだろうかと思わせる不思議な魔力のような強く牽引する力があった。
そしてどちらかといえば薄塗りの絵肌は透明感があったが、部位的にはゴツゴツとワニの背のようにツノが立つほどの唐突な厚塗りも見られ、
均一性は無いのだが、にも拘らずバランスがとれて見えるのが奇妙な感じだった。
『この作品、オイルなんですね、
珍しいわ、
うちで版画以外の作品を扱うのは…。
今までだって決してオイルは皆無ではなかったけど…
ここまで大規模で本格的な油彩画は…
なんだか久しぶりだから新鮮です。
それと…独特のマチエールですね、まるで継ぎ接ぎだらけ、ハッキリと絵肌の中にジョイント部分が見えます。
なのに奇妙にそうは見えない、
なめらかで透き通るような薄塗りとツノが立って、
まるで薔薇の棘を埋め込んだような激しく隆起する厚塗りの部分もある、うっかり触れると指先を傷つけてしまいそう、なのにその中間は無い、そういった絵肌の作品は中間も必ずあるのにこのダルトンの絵には中間がまるで無い、それなのにつるんとシームレスみたいに見えるし、感じるし、違和感が全体像として見た時にまるで無いなんて…
ちゃんとマチエールとして調和を遂げている以上の奇跡みたいに感じます。
普通あり得ないわ


それと一瞬、
まるでCG画像かと思ったほど不思議なパースペクティブです。
特別な技法を用いてるようにはとても見えないのに、じっと見ていると絵のほうが急にぐんっと近づいてくる。
はっと我に返るとそんなことは無くて、
特に奇をてらったとこも無く、
どちらかというと割りと普通の絵なんですけど…
なんだか…まるで鎮かな騙し絵みたい、』
『これはダルトン特有の持ち味だね、きっと誰にも真似出来ないと思うよ、
彼が日本だけで有名な画家として終わったことは、本当に僕は残念で仕方が無いんだ、
もっと世界中に知られていい一流のアーティストだったからね』
山下のダルトンを語る口調が過去形に終始しているので彩は試問した。
『ダルトンは、もしかしてもう…?』
『そう…残念だけどね、亡くなったのも60代の初めくらいだから今の僕より少し歳上くらい、亡くなるには些か若過ぎるよね』
『何年くらい前にダルトンは亡くなったんですか?』
『さぁ…もう…何年くらい経つんだろう…でもね生きていたらそうだな、恐らく、100歳近いんじゃないかなぁ…』
『100歳!?』
『でも娘さんが居たからね、
早くに父親も母親も亡くして、娘さんだけが残されて随分苦労して…可愛そうだった…』
『娘さんって…もしかしたらこの絵の女の子?』
『うん…とても可愛らしかったよ、まるで西洋人形か、妖精のようだった、少女時代はね…
大人になっても独特の存在感というか、魅力というか、不思議なオーラを持った…とても美しい人だった…。この絵の猫のように毛足の長いのや短いのや様々な猫達と家族とで暮らしていたんだ。
…ピアノが上手でね…』


『山下さん彼女に逢ったことあるんですか?』
『…うんまぁ…昔ね…僕がまだ若かった画商の見習い時代の頃に…』
『えっでも…少女時代も見たことあるんですか?』
『いやっそれは……
絵だよ、絵を見ているとそんな風に思えちゃって…
妄想かな?』
山下は恥ずかしそうにその癖、咄嗟の惑乱を隠すような笑い方をした。


『この美少女も、もうとうに熟年のマダムですね、
きっとご結婚なさって…
今はお孫さんに囲まれてお幸せにお過ごしかも』
『…だとよかったんだが…
彼女はとうに亡くなったよ、
今から何年くらい、前になるんだろう…
彼女、障害があってね…当時の日本はまだ今よりずっと福祉にせよなんにせよ遅延していた。
彼女は独りで相当苦労して…』
『…もしかして…自殺?』
『いや自殺じゃないよ、彼女はそんなことする人じゃない、
考えたことはあったようだが…
…でも…
彼女は愛に生きた人だった、
愛に尋常ではなく向き合って、
逃げずに生きた人だった、
最後の最後まで逃げなかったからこそ…
もしかしたら早死にをしてしまったのかもしれない、
燃え尽きてしまったのかもしれない、でも彼女は多分…
そういう生き方しか出来なかったんだと思うよ、他に器用な生き方をしようとしても、結局それに徹っすることが出来る人ではなかったからね』
『…名前なんていうんですか?
この少女』
『…ガーティ』
『ガーティ?』
『うん通称はね、
本名はガートルードだ、
ほらガートルード・スタインって女性の作家知ってる?』


『ええ…読んだことは無いけど名前だけ知ってます。』
彩は何故だか心の中でホッとしていた。
何故私はこんなに怯々としているのだろう?彩は早打ちする臆病な小鳥のような心臓を抑えて思った。
何故だか山下の口からエミリーの名前が出てきそうな根拠の無い不安とその不安への現実感が彩の中でどんどん強くなり、彩は内心息切れする思いになっていた。
心弱りしきっている彩にまるで気づかぬ様子の山下が、急に話頭を転じた。
『鷹柳先生のロートレック返ってきたんだって?よかったね』
『ええ、そうなんです』
『僕も心配してたから先生から電話を受けた時には本当にホッとしたよ』
『電話あったんですか?』
『うん真っ先に電話したのは吉田くんだと先生言っていたけどね、僕は二番手だったみたい』
ふたりは顔を見合わせて笑った。
彩はやっと心の底から笑い安堵した。
こんな風に山下と2人だけでのんびりと話すのは久しぶりだった。
以前はよく仕事のあと2人だけで居酒屋や赤提灯で飲食したものだった。
新しい画廊にまだ慣れない間、山下は彩に教育係りのような役割をしていたがもともと画商だった彩は画廊が新しくなってもすぐに今の会社の方針や流れに馴染んだ。

むしろ以前はタブレットを持ち歩きレゾネ等も持たない今風の方式を取り入れたギャラリーであった為に、彩は疑問を抱いていた。
どんなに疲れても分厚いアプローチブックを入れたアタッシェケースを持ち歩き、場合によっては生の版画の入ったレゾネを持ち歩き、顧客を訪ね歩くのが画商なのだと彩は思っていた。
それがどんなにオールドファッションだと云われても、彩はそのくらい努めずして芸術に申し訳が立たないと考えていた。
私達は絵を売る人間だ、
お金で絵を切り売りする種族なんだからせめて、芸術に少しは敬意を払わなくてはバチが当たるわ、
毎日あらゆる画家達の絵を目の当たりにしてあんまりスマートなことばかりは出来ない、と彩は思った。
そんな彩を後輩として好ましく思った山下は何くれとなく大先輩として彼女にさりげなく助言を与えてくれたり、仕事の流れ上、周りには解らぬよう彩に花を持たせて、まだ不馴れな彩が周りから一目置かれるようにしたりもした。
鷹柳の絵の盗難への保険が下りる、下りないの騒ぎの際、最後まで会議で彩の肩を持ち、繊細な加勢をしてくれたのも会社の中では山下ただ一人だった。


慎哉は会議にはまだ出られなかったし、彩の孤立感を感じながらの鷹柳への擁護を、鬱陶しげに見る上役の中で、その上役達の娘くらいの年端の彩は、時に言葉に出さないまでも彼らから露骨に小生意気扱いをされた。
もうすぐご結婚も控えておられることだし、自社のやり方にそこまで否定的な考えを持っているくらいなら居るのも苦痛だろうし早くいっそのこと寿退社なさったらどうか?
という発言まで薄笑いと共に出て、彩は膝の上で握ったこぶしが震えるのを感じた。


そんな彩を山下は自分の立場が悪くなりかねないリスクを侵してまで、会議で彩も驚くほどの強い援護射撃をしてくれて、彩は感動で胸が一杯になり、その夜の赤提灯で酔いながら山下の肩に凭(もた)れかかって、むせび泣いてしまったほどだった。
慎哉ですらあんな風に人前で堂々と自分の立場を顧みず彩を庇い守ってくれたことなどなかった。
既に慎哉と交際は始まっていたものの、彩は山下へと気持ちがほんのり揺れたことがあった。
山下が彩を歳の離れた妹のように可愛がってくれ、彩の美術への強い愛情を高く買ってくれている為に特別に贔屓にしてくれているのは解ってはいたが、彩はふと山下に耐え難い不安や悲しみに襲われて自分の中からもう一人の自分が悲鳴を上げながら切り離されそうな恐怖感で崩壊してしまいそうな夜、電話で山下を呼んでいっそのこと抱いて欲しいと願ってしまうことすらあった。
そんな彩の不安定な切望を塞き止めたのは、山下の左手の薬指に光る結婚指輪だった。

『それだけはいや…
もう二度と…私はあの汀(みぎわ)
から足を踏み外したくない…』

しかしながら彩は山下への淡い恋情じみた想いが時が移ろうと共に、父親か兄への、庇護を求めるような恥ずかしいほど幼稚で少女じみた願望にしか過ぎないことに、自然と気づいた。
山下への気持ちはその気づきと同時に凪(な)いだ湖面のようになり、むしろ兄を慕うような純然たる敬意へと移り変わっていった。


彩は山下が車で送ると言うのを断って、
帰りの電車に揺られながら、ダルトンの絵のあの猫を思い出していた。
『…ロイとそっくりだったわ、
クリスにも似てるけど…
あの不敵で、見るからに利発そうな眼光の鋭さは、クリスというよりロイに思えた…』
と彩は思った。
『…ガートルードか…』
彩は思わず苦笑と同時にため息をつき、顔に乱れ落ちた髪を中指で掬って耳にかけると思弁した。
『私ったら馬鹿ね、
よく似た猫なんてどこにでも居るものよ、増してやロイは夢の中で出逢った猫…
現実の猫じゃないんですもの』
すると隣の六十代くらいの女性達の楽しそうで華やかな笑い声と共に、その会話が聴くともなしに聴こえてきた。
『ねぇ美和子さんたら、いくら若い頃、好きだったからといって今更そんな仔猫を買い始めるだなんて、
私達の歳から生後3ヶ月の仔猫だなんていくらなんでも無理よ、
自分が先死んだらどうするの?って私、言っちゃいそうになったわよ』
『大丈夫よ、まだ還暦ジャストならギリギリセーフよ』
『あら?そうかしら、
もうそろそろ要心しなけりゃいけない歳よ?
私達、
飼うならもっと大人の猫にすればよかったのに、十歳とか、十歳以上とか…』
『美和子さんは娘さん夫婦と暮らしているんだからその点は大丈夫なのよ、それで彼女、安心しているのよ』
『まぁいいご身分ね、
そりゃ私だって若い頃はビリー・ダルトンに憧れてあの絵みたいなフサフサの、大きくてゴージャスな猫を飼ってみたいと思ったりしたわよ?でも今更ねぇ…』


彩はこんなところで思わぬダルトンの名を聴いてはっとして思わず背筋を立てて耳を澄ませた。
『あらそうなの?
私は猫というよりはあの絵の少女像に憧れたけどなぁ…
なんというのかしら、
ほら憂いを秘めたというか、どこか淋しそうで…
神秘的でさぁ』
『綺麗だったものねぇ…ダルトンの描く少女像は…透明感があって、どこか妖精じみてて…
あの美少女と猫とで日本で人気に火がついたようなものだもんねダルトンは、』
『うん、さっちゃんはどっちが好きだった?』
『どっちって?猫?少女?』
『違うわよう、
どっちの少女が好きだった?
ふたり描かれていたじゃない?
髪が少しダークな子と、淡い金髪のお人形みたいな子と』
『えっ…』
と彩は思わずふたりのご婦人を振り返りそうになったと同時に、次の駅へ電車が到着し、ふたりは楽しげに笑いながら立ち上がった。
駅のホームへ降り立った最初に猫のことを話していたほうの婦人がこう言ったのが微かに聴こえてきた。
『私は断然、ガートルード派だったかなぁ、女子はみんなガーティが好きだったもの、
だけどガーティって本当はガー…』という言葉の先を掻き消すように電車の扉は閉まった。

電車は発車し、彩は何か言い知れぬ不安と同時に、今までの彼女の中ではあり得ない奇妙な歓びにも似た説明のつかない意味不明の希望が目の前で大きく薔薇のように花開くのを感じた。
でもそれが何故なのかは全く解らない。

全く解らなかった。
全く解らないのまま、彩は自分の中でどんどん花開き、咲きこぼれる、その花の『ビジョン』を信頼した。

そうすると彼女の中にあった不安は突然消えてしまった。
駅に着き、ホームへ降りながら彼女は深くグラファイトに染まった夜空を仰ぎ見た。
するとその断片的な『ビジョン』が一瞬空を透かして見えた。
エミリーはピアノの鍵盤に両手と顔を伏せたまま泣いていた。
そしてその声に彩は自分がエミリー自身となったかのような、深い井戸の奥底に独りぽっちで居るような、暗黒の孤絶と哀しみに心身を囚われて突然身動きがとれなくなった。
夜空を透かして見えるエミリーはこう言った。
『何故来てくれないの?彩、
待っているのに、貴女をずっと待っているのに、
私を独りにしないで、』
彩は思った。
『ああエミリー、貴女が私を呼んでいる、これは幻じゃないわ、


貴女が泣きながら私を呼んでいるのが私には今、解るの、
エミリー貴女は夢幻(ゆめまぼろし)なんかじゃない、
たとえそうだとしても、もう貴女がなんであっても私はいいの、
私を呼んで、エミリー、
もっと強く私を呼んで、
私を求めて、
そうすれば私達きっともうすぐ逢えるわ、だって私には貴女が私を呼んでいるのがこんなにも強く解るんだもの、
私を呼んでくれているエミリー、
こんな私を誰よりも必要としてくれている貴女…待っててちょうだい、
私、貴女の傍へ必ず行くから!』

すると夜気に冷たい枯れ葉の薫りを含んだ色無し風が吹いて渡り、
彩の頬をしなやかな女の手のひらのように撫でていった。
彩はエミリーがこんな自分を待ち焦がれていてくれているのだと風の中で急に知って、月を見上げようとした。
何故月を見上げようとしたのか、解らない。
…が、駅のホームの屋根で歪(いびつ)に区切られた空には月を見る余裕が無かった。
それでも見えない月の光の余韻の中に、彩はエミリーを見る想いがした。
エミリー、エミリー、
早く貴女に逢いたい、
彩は大声で叫びたいその気持ちを抑えて月の光のもとその意味も解らず、それを叶えるであろう対象も知らないまま、ただエミリーとの再会を気がつけば、ひたすらに祈っていた。
そしてそれは神やあらゆる神秘を信じない彩の、生まれて初めての心からの"祈り''でもあった。





(To be continued…)


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