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小説『エミリーキャット』第29章・『クローゼットの中の微熱』


いきなりのさんざめく光りに彩は驚いて空を見上げた。
さっきまでは確かに新月を数日過ぎたばかりの三日月だったはずなのに、ここではまるで丹念に磨きたてた銀器のような満月が煌々(こうこう)と空低く森の真上に異様なほど大きく照り輝いていた。
月灯りが目映(まばゆ)く辺りを照ら出し、夜とは思えぬほどに森の中は明るい。
雪のように次々と空から舞い落ちてくる落ち葉は緋や朱や萌え黄、
茶葡萄に古金茶(こがねちゃ)、
鬱金や浅緑。
赤朽ち葉に青朽ち葉、
そこは晩秋の燃えるような彩りに満ちあふれた、輝くばかりの森の中だった。

月灯りは森の中とは思えぬほどに辺りを明るく照らし出し、全ては純金の輪郭を備えて夜の中にレリーフのようにくっきりと浮かび上がった。
彩はロイと並んで暫く枯れ葉の絨毯の上を歩いていたが、今しがた開けたばかりの扉をふと振り返った。
扉の向こうには灰色の寒々しいあの貧弱な木立が遠く望めた。
扉はあの荒廃した外側ではなく、
トルコ石で出来た美しい内側を見せていた。
夜なのに小鳥の囀ずりが響き渡り、虫の羽擦れの音色も聞こえ、さながら秋のオーケストラだった。
彩が歩くたび足元の釣り鐘草に似た可憐な花が小さな花灯りとなって優しい薄紅色の光りを次々と灯した。
『帰ってきたのね、あの森へ…
そうでしょう?ロイ、
ここは貴方とエミリーの棲むあの森なんでしょう?』
ロイは黙って再び森の中を弾丸のような勢いで駆け抜けていった。
すると地面に深々とある色とりどりの落ち葉が勢いよく舞い上がった。
そして彩は耳にした。
ピアノの痛切な、同時に荘厳な哀しみの旋律を…。
『…さっきの曲じゃないわ、』
と彩は思わず自分に囁いた。
ロイが駆けてゆくと森の木々は、
さながら眼には見えない小人達がカーテンを一斉に引くように自らを退け、ロイへと森が路を築き、開くのだった。

その月灯りに照り映える秋の森の木々の合間を透かして、更に輝く窓灯りが一際、高く見えた。
一階は灯りがすっかり消えて暗いが、二階屋の更に上にある屋根裏部屋であろうか?
一番高くせり上がった三角屋根に挟まれた小窓はオレンジ色の灯りがまるで蝋燭の炎のように揺れている。
ピアノのしらべはそこから流れてくるような気が彩にはした。
にも関わらず、森全体がそのしらべを奏でているようだ。

ロイはどんどん駆けてゆき、気がつくと家の前でロイの姿は霧のように消えて急に彩の目には見えなくなった。
彩は消えたロイの後を追いすがるようにあの花屋の硝子のドアーの前に立った。
そして彼女はあの日の夜のように、それを開けた。
唯一違うのは、もう彩はそこを開けることも中へ入ることも躊躇っていなかった。
もはや怖れてもいなかった。
屋内へ入るとピアノの音は更に高まり、あの大きな真鍮のドアベルが鳴ってもピアノの音にかき消されて彩は気がつかないほどだった。
彼女は冷たく闇に閉ざされて眠る花達が夜なのにライトアップされたショーケースの中で、色蒼覚めた蝋細工の花のように浮かび上がるのを見た。

花々の活けられた琺瑯引きの色様々のバケツが並ぶ真ん中、ピンクグレーのリノリウムの通路をロイが駆けてゆくのが彩の目に再び見えた。
彩はロイに追いつくと、今度はロイが命ずる前に通路の奥にある空色の両開きの扉の一枚だけを、普通の扉のようにして開けた。
あの絡繰(からく)り時計の中の小さな扉と全く同じ空いろの、この大きな両開きの扉は開くとその内側は、輝くように白かった。
彩の記憶が次々と花が開くように目覚めてゆく。
"以前私がここで倒れた時、ロイはエミリーに頼まれて、この扉の前に座って見つめるだけで扉を開けてしまったことがあったわ"
私はそのあと気を失ったけど、
あれは夢だったのかしら、
でももう既に私はまたあの夢の続きの中に居る…''
彩はそう心の中で呟きながら初めて自分の手でこの世界の扉を開けたと感じた。
さっきの扉を開けた時もだが、今度の扉を開けるほうがよほど彩には気持ちが引き締まるような気がした。
''これでエミリーへ私はまた一歩、近づいた、"
心の中で''きっともう引き返せない、"ともうひとりの彩の声が彩自身の中でした。

壁に添うように点在するエミールガレ調の鈴蘭灯は、灯りを点してはおらず、闇に打ち沈んだような廊下を歩きながら、彩は森の中のほうがよほど明るくて歩きやすかったと感じた。
そう感じながらも、壁に掛かった様々な見たこともない絵の数々や、壁面に設置され、彩に向かって半円を見せるハーフムーン型のコンソールテーブルやその上にある置き時計、古めかしい調度品の数々を横目で見ながらも、彩はピアノのしらべに敏感に耳をそば立てながら何故だか猫のように足音を立てずに密やかに歩いた。
すると彩の耳元で急に現れた紅美子の幻影がこう囁いた。

『行っちゃ駄目、彩、
目を覚まして!!
その人は危険よ、言ったでしょう?彩、もう二度と彼女と逢っちゃダメ』   

『どうして??』
彩は鋭く紅美子の幻を振り返って、叫んだ。
さっきまで背後に居た紅美子は、
いつの間にか今度は彩の目の前に居てこう言いつのった。
『いいこと?
彼女は狼女、貴女はその前で無力な赤ずきんちゃん、
彼女は美しく優しげな仮面をかぶった恐ろしい敵よ、

一服盛られて貴女はまた辛い目に遇うだけだってどうして解らないの?
彼女の森は芥子(けし)の花がたくさん咲く悪の庭よ、
また貴女は玩(もてあそ)ばれるに決まってるわ、

だってその前はどうだったの?彩、
上郷賢一は既婚者でありながら、
『妻とは家庭内別居でもう何年もお互い口もきかぬ仲、』『彩と出逢う前から離婚はずっと考えていた、』
『君に自分の姓を名乗らせて、早く安心させてやりたい、』
子供時代から孤独で苦労してきた貴女にそんな膨大な甘言ばかり並べ立てておいて実際には、いざとなると逃げ回ってばかりの口先男、
何一つ具体化しなかったんじゃないの?
『新婚旅行はフランスを皮切りにヨーロッパ、
ルーブル美術館をはじめ、ヨーロッパ中の美術館巡りをしよう』
『北海道へも連れていってあげるよ、
ふたりでライラックの咲く季節、幸福駅へ連れてゆきたいんだ、』
『結婚式はふたりきりで教会で、
ごく質素に執り行おう』
『おじいさんとおばあさんになっても仲良く手を繋いで歩く夫婦になろうね』
…その他にもなんだか数え切れない未来の約束があったわね?
離婚なんかしたら上郷のキャリアの傷になると貴女が心配して反対した時、彼はなんて言ったっけ?
『今時、離婚なんかで傷などつかない、』
同居している母親にもまるで今すぐにでも打ち明けて離婚へ向かう決意だなんて言っておきながら、母親に頭の上がらない彼は
『すぐ言う積もりだったがショックを受けさせそうだから母が将来、
亡くなるまで待って欲しい』揚げ句『ついでに妻の両親も亡くなるまで待って欲しい』
揚げ句『定年まで待って欲しい』
全部、絵に描いた餅どころかあれじゃまるで詐欺師じゃないの、
それなのに愚かな赤ずきんちゃんは今でも自分ばかりを責めて苦しんでいる、
確かにマンションの頭金、慰謝料代わりに払わせたわね?
貴女もたいしたもんだわよ、
赤ずきんちゃん、なかなかやり手ね、
でもそんなことさせたくらいで貴女にあれほど固く約束し、数年間信じ込ませてきた未来やその夢見た青写真は一体帰ってくるの?
貴女の大切な赤ちゃんはどうなの?尊い無垢な命は帰ってくるの?
彩、貴女を何故『赤ずきん』って私が呼んだか?その本当の意味が解ってないようね、
貴女が知らずに今もかぶっている誰の目にも見えない頭巾は血にまみれて真っ赤だからよ!
貴女が殺めた赤ちゃんの命と、貴女が傷つけた数々の人々と…。

その人達の心や軆や魂から流れた血潮で、貴女は真っ赤にそまった頭巾をこれからもずっとずっと被り続けなくてはならないのよ!
だから老いても貴女は一生、赤ずきんちゃん、
赤ちゃんのことにせよ、上郷なんかを信じて愛してしまったことにせよ、結局は彩、
貴女が全部選んだことなのよ、
上郷のせいでも他の誰かのせいでもなんでもない、全部自分の責任よ、
貴女自身が選び取ったことなのよ、
自分のした選択で、貴女は今も血を流し続けている、

他人や赤ちゃんの生き血だけでは飽き足らず、自分を憐れんで毎夜、ベッドで枕を濡らす貴女は本当に愚かな赤ずきんだわ、
罪悪感で悪夢にうなされてばかりの夜が辛くて親しくなった彼は、そのことを知っているのかしら?
苦し紛れに自分に気のある慎哉さんと親しくなったりした貴女も、そりゃあ淋しかったからかもしれないけれど…婚約までしちゃうとは驚きよね?
彼が哀れだと思うわ、
貴女と違っていまだ純情なとこのある人じゃないの、
本当の理由や自分の婚約者がどんな酷い女かも全く知らないんだから…。

ねぇそれからもうひとつ教えてあげるわ、赤ずきんちゃん、
エミリーはね、
美しい眠れる森の美女でもなければ、赤ずきんちゃんが来るのを心待ちにしている善良で心優しいお祖母ちゃんでもないわ、
三十路過ぎてまだ未熟な淋しい少女を引きずる薄っぺらくて恥ずかしい赤ずきんちゃんを一体どう料理してやろうかと手薬煉(てぐすね)引いて待つ、血に飢えた美しい牝の狼でしかないのよ!
彩、上郷どころか、また貴女は今度はエミリーに薬漬けにされて、玩(もてあそ)ばれて、飽きたら壊れた玩具みたいに打ち棄てられるのが関の山だわ、』
『やめて紅美子!!
もう黙ってっ!』
彩は廊下に立ちすくみ、両手で耳を覆ってうつむいていたが、耐えきれずに館中、反響するのではないかと思うほどの叫び声を上げた。

するとその彩の叫びと同時にピアノはまるで斧で断ち切られたように急に止んだ。
彩は折れてしまいそうな気持ちを無理矢理取り直し、ロイが鳴いて呼ぶ先へと涙を指で拭って、急いで走った。
そこは暗闇に閉ざされているはずの一階の奥にある広間だった。
『エミリーは2階に居るんじゃなかったのかしら…』と彩は思った。

広間は扉を両側にわずかに開き、
森閑と鎮まりかえっていた。
入ると暖炉に火が燃え、その豊潤な暖色がフットライトのように辺りの家具や彩自身の影法師をも、大きく長く壁や高い天井へまで投影し、幽かに火影(ほかげ)の揺らぎと同時にその濃い影も部屋中で揺らめき、彩はそれを見て思わず眩惑されて佇立してしまった。
薪が急にパチンと爆ぜる大きな音を立てて暖炉を生まれて初めて見た彩はその音に芯から驚き、我に返った。

広間の真ん中にグランドピアノが在り、ピアノの傍の小卓の上にランタンが置かれ、その小さな硝子張りの中でオレンジ色の焔が揺れていた。
その下に何か陰が動いた。

グレー地に赤と白の大判のチェックのストールがピアノの下でうごめいている。
人影大の大きさのそれは、内側でまるで誰かが誰かと格闘でもしているかのようだ。
彩は小卓からランタンの灯りを持ち上げながらそっと近づき、
そのストールを無言で剥ぎ取った。
ギャア!と巫山戯(ふざけ)たロイが叫んで飛び出して来た為に彩は肝を潰す思いに耐えながら、『ロイ!びっくりするじゃない!?
こんな時に悪い子ね!
一体貴方の大切なエミリーはどこにいるの?』
と言いながらも、彼女はそのストールが人肌めいた温もりをまだ宿していることに気がついた。
さっきまでエミリーはこれを羽織ってここにいたんだわ、
でも今はどこにいるの?エミリー、
私はもう怯(ひる)まない、
ここまで来たのよ、もう今更私は逃げたりしない

するとロイは広間の片隅にある小さなクローゼットの前でぎゃあと再び彩をひやりとさせる声をあげた。
そして彩が近づくのを待って、そのクローゼットの扉を後ろ足で立って前肢でカリカリと引っ掻いて見せた。

すると中から幽かに、幽かに女の泣き声がする。
彩は躊躇うことなくその扉を開けた。
室内着らしき衣類が長々と幾重にも深々と連なって掛かるのを彩はかき分けるようにして、すっかり自分が通れる小径を作ると慎重に持ったランタンの灯りでその先を注意深く照らしながら、歩いた。
その奥で吐息で幽かに湿ったような泣き声が、ごく小さく漏れ伝わってきた。
彩はストールやガウンの掛かった重い衣類をカーテンのように掻き分けて、その意外なほどの奥行きの深さに驚きながらもその一番奥の片隅に、
うずくまる白髪だらけで腰の曲がった老婆を照らし出し、思わぬ遭遇に戦慄して凍りついたように動けなくなってしまった。
こんなところに何故?この人は一体誰なの??
怯え混乱しながらも、彩は手に持ったランタンをその老婆を怯えさせないようにそっと向け、震える胸の高鳴りを抑えて優しく声をかけようと苦闘した。

次の瞬間、灯りを受けて顔を上げた老婆の顔が見えた。
胡桃の渋皮いろと化した皺(しわ)まみれの…深い傷のような無数の皺の中に眼や貧しい唇が埋没し、バサバサに乱れ切った蜘蛛の巣のような白髪はメデューサのように渦巻いてはいるが、旋毛(つむじ)はうっすらと黄ばんだ地肌を痛ましく透けて見せている。
この人は一体誰なの?と思わず彩が問いかけようとした瞬間、
老婆の顔が目の錯覚かと思うほど、湖々(みずみず)しく美しいエミリーへと見る見る花が音を立てて咲き零(こぼ)れるようにランタンの灯りを受けて、その灯りを跳ね返すほどに生き生きと輝かしく変容していった。

『…彩?彩なの?』
その声はあの天鵞絨(びろうど)の、なめらかさを感じる心地好いアルトだった。
『…エミリー?』
『彩、帰ってきてくれたの?
私、ずっと待っていたのよ、
もう来てくれないのかと思って、
ずっと絶望してた…』
彩は目が覚めたようにエミリーに駆け寄ると灯りを置き、膝まづくと、持っていたストールで彼女を包んだ。
『ニャア』というあどけない声と、まるで笑ったようなあの懐かしい顔をエミリーの腕の中に見た彩は、
エミリーがクリスを抱き抱えて、
独り忍び泣いていたことに気づいて安堵した。
クリスはエミリーの暖かい胸に抱(いだ)かれて、よく眠っていたのだった。

『彩、本当に貴女なの?顔をよく見せて、』
エミリーは彩の髪を震える指先で、かき分けるようにすると思わず泣き出しそうになって、その手で再び自分の顔を覆おうとした。
彩はその手を取り、何故かもう無い自分の乳房の痕へと当てた。
何故そうしたのかは解らない、
エミリーは驚きを隠さなかったが、その手のひらで今度は彩の頬を優しく撫でた。
『可愛そうな私の彩、
もういいの、もう、いいのよ、
何もかもがもういいの、
全てはもう大丈夫よ』
何がもういいのか解らないが彩はエミリーの胸に飛び込んで泣いた。
エミリーは彩を抱きしめ、自分のストールで深く包み込んだ。

エミリーの涙が彩を濡らし、彩の涙がエミリーを濡らす。
ロイが背後から音もなく近づいてきた。
エミリーはロイをもストールの中へと招き入れた。
どうしようもなく寒いのに暖かい夜
、女がふたり、猫がふたり、
お互いの髪の匂い、
首筋の甘い匂い、
遠く薫る古くなってすえたような、いつ付けたのかさえも解らない、
遠い過去の壊れた恋のような、練り香水の匂い、

まるで麝香(じゃこう)の匂いみたいと彩は思い、『独りで香水つけたの?
この香りは誰のため?』
といつの間にか彩の秘奥(ひおう)に灯った微熱の内に、彼女はまるで熱病に浮かされたように尋ねる。
エミリーは涙の跡を気にして答えない。
『私のため?
そう言ってエミリー、
そうであってくれたら私、凄く嬉しい』
彩は頭の芯が痺れたような気がして、それを恥じて思わず普段よくするような照れ隠しの為の笑い声を立てた。
彩は突然、エミリーの指で唇を封じられて息を止めた。
『お願い、彩、声を立てないで、
今はそんな風に声を立てて笑わないで、』
エミリーの指が唇からそっと離されると同時に彩は小声でそっと尋ね返した。
『どうして?』
『どうしてって…』エミリーは闇へと視線を移して聴き取れないような囁き声でこう言った。
『どうしてもよ、
彩の笑い声は愛くるしくてとても好き、
だけど今はお願い、
声をたてて笑わないで、
…微笑みだけのほうがいい』
彩はお互いの呼気で幽かに湿った中でそっと微笑んだ。
エミリーを壊さないように、そっとそっと微笑んだ。
すっかり大人なのにこんなに怯えている少女のようなエミリーを壊してしまわぬように、彩は息をひそめてそっと静かに精一杯微笑んだ。
それをエミリーが望むのであればいつまでも微笑んであげていたい、
心の中で彩は囁いた。
『貴女を壊したくない、
今にも壊れそうな貴女を守ってあげたい、』
エミリーの指が彩の唇に触れ、唇の内側の粘膜までそっとまるで小さい子供が不思議そうに検分して触れようとしてくるのにも似て、探ろうとしてくる。
再び約束を忘れて笑い出しそうになったその時、急にエミリーはランタンの開け放った小窓に向かい、
ふっと鋭く吐息を吹きかけ、その焔を一気に吹き消した。
彩の唇をエミリーの唇が突然覆い尽くしたのは、まだランタンの焔の匂いの残る闇の中だった。
濡れた髪の張りついた彩の頰をエミリーの両手のひらが挟み込み、彩の唇をエミリーの唇が更に花の蜜を少女時代吸った時のように吸い、開かせる。
エミリーの温かい薄桃いろの口腔に彩は自分をすっかり開きたくなった。
誰にも言えなかった秘密も、懊悩も、羞恥も、プライドも、責任も、約束も、悲しみも、喜びも、烈火も、氷結もよく解らない出自さえも…。

あの道も、この道も、天国も地獄もいつの時代も有り余るほどなのに、どうすれば伝えられるのか解らずに苦しくてたまらないだけのこの不器用な愛も、過ち無しには顕せない含羞など振り捨ててまでの情念も、
全て砕け散り、二度とは帰ってこないあの幸せも…。
何もかも全てを芯から開いて見せたくなった。
全ての原始を打ち明けたくなった。
えぐり取られて無くなったこの胸の痕に口づけて欲しいとすら願う私は一体、誰?彩は心の中で誰か解らぬ人に問うた。
自分を閉ざす扉の鍵をエミリーになら口移しにそっと心の奥底から素直な夜の獣のように手渡してもいい。
どうしようもなく寒くて暖かい夜、
どうしようもなく哀しくて優しい夜、
女がふたり、猫がふたり、

猫の毛並みの香ばしいような匂い、エミリーは何故だか赤ん坊が吐き戻したミルクのような匂いを放ち、その赤ん坊の吐瀉物のような匂いが、何故だか彩には少しも不快ではない、
遠い過去につけたかのような練り香水の薫りと混じり合ってすら、その動物のような匂いは彩には何故だか自分の寝間着や肌着の匂いを嗅ぐように決して厭ではなく懐かしい、
全てが溶け合い、全てが優しく全てが哀しい…。
ふたりは互いの哀しみを暖めるように互いの扉に手を伸ばした。
人が一生閉ざしたままそのことに気づかぬままに笑いさざめいて、交わり、寝て起きて、食べて、働いて、老いてとうとう見ずに終わる扉を開けてもう一度彼女と素顔で巡り逢う為に…。
互いの宇宙のどん底を分かち合う為に。
クローゼットの奥深く夜は更けていった。





(To be continued…)



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