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小さいあ~き見ぃつけた♪【ぶらり道草エッセイ】第2章:(2016年載・再)

やっと店舗が蝟集する一角へ足を踏み入れても、中では疲れ果てたような人達がなんだか脱け殻のようにただシートに座っているだけか、売り場でも考えあぐねたまま、ただ茫然と立ち尽くす様子の兎にも角にも、覇気の失せた感じのする街はなんだか過疎の街にでも降り立ったのか?と勝手で余計な憶測をしてしまいそうになる雰囲気なのです…。

まぁ、はっきり言って魅力の無い街だった訳ですね。

…でもこういう市街地に魅力の薄い街というのは、郊外の果ての果てへと出てしまうと意外なくらい美しい野原が拡がっていたり… 
山裾にひっそりと隠された宝物のように居丈高な鉄の門扉を閉ざして眠る薔薇園があったり…。 
門扉には南京錠が下げられており、菠薐草のような深緑のペンキに塗られ高く尖って屹立する門を越えられる人はそうは居ないだろうし私もそこまでする気もありません。
ってか出来ません。
鈍くさいほうだし、それに大人げなくとも一応は大人です…。

門越しに見る薔薇園の中は、たいして広くは無さげなのですが恐らく咲いているのは秋冬に咲く冬薔薇(ふゆそうび)か…
ネクタリンのような強い柑子(こうじ)色の薔薇が小さく咲き、ピンクの薔薇と白薔薇も小さく息をひそめるように身を寄せ合って、沈潜するかのように咲いているのが僅かに奥まって見えました。
ほとんど咲いていない濃い緑の蕀(いばら)の中、僅かに咲いている薔薇は皆、薔薇じゃないみたいに楚々として『私達だけが咲いていて…なんだかごめんなさい?』とでも言っているかのような風情です。

冬薔薇(ふゆそうび)とは冬の季語なので秋に使うのは誤りかもしれませんが、
それを言えば夏に咲くピンクの鬼百合が艶やかに静まり返った民家の庭で秋風に揺れていたのですが『深草の百合の花笑み(はなえみ)』という夏の季語であると同時に和歌にも出てくるあの麗しいフレーズが思わず私の胸に浮かんだくらいなのです。

つまり今年の秋は本当に秋らしくない秋…。

ちなみに『花笑み』とは上記の通り百合に対してしか使われない比喩だそうで、いかなる美しい他の花でもこの『花が笑う』という表現は使うと間違いになるそうなのです。
薔薇や芍薬や、あるいは野の花が、どんなに可愛らしく花笑みと呼びたくとも何故か百合にだけ赦された依怙贔屓(えこひいき)な言葉なのですね。

百合って特にカサブランカやシベリアのような白百合は、聖母マリアにたとえられますから、なんだか特別ノーヴルな感じの花ではありますが薔薇のように単純に
『ねぇ私って綺麗でしょ?
でも棘があるのよ。
綺麗なだけじゃないんだからバカにしたら承知しないかんね?』
といった率直で無邪気な感じはありません。

ひたすら高貴一点張りというか、近寄り難い聖女みたいな風情があります。

もし薔薇を聖女に無理矢理たとえたなら、ジャンヌ・ダルクとしよう、かなり無理矢理なので喩えにくいのですが…。
(まぁ基督を盾にして大勢の犠牲を出した“聖人”さんです)
凛然と美々しくカッコよくはあってもおっきく過ちを犯して猛然と突進した割に途中、踵(カカト)を挫いたりしているぶん人として解りやすい感じがある、その愚かしさゆえある意味変な言い方ですが、親しみは人間としてあるかもしれません。好きかどうかは別として…。
ところが百合はひたすら聖母マリアでしかないのです。
マリア様はマリア様だ。
マリア様は人なのだが人として理解出来ない人なのです…。
もう人間として次元を超越してしまった方なのですね

私が百合を好まないのは上手く説明のつかない妙なコンプレックスと畏怖の念からくるものなのかもしれない。
静謐で優しく何事も取り乱したりせず、淡々と優美に行える女性のようなイメージが重なるからでしょうか?
どんなに優美でも私は百合は苦手な感じの花なのです…。

秘密の薔薇園からの帰途、そんなことを考えながら私はふと、この街を想いました。

古びて冴えない草臥(くだび)れた背広の内ポケットの奥深くに、ひっそりと輝く真珠のカフスボタンを何故かひとつだけ隠し持っている…。 
不揃いゆえに余計その奥床しい鎮かな輝きが秘密めいて印象に残る…
そんな寡黙な初老の紳士のような印象を抱かせるこの街は、力なく項垂(うなだ)れていながらも、深く識りたいと想う者にだけ、その心襟を開いて、あらゆる面を見せてくれる…。 
この一見、覇気のない寂れた街に対してどこか底光りするような奥深い魅力を私は感じたのです。

≪つづくっヽ(・ω・´)ノ✨≫

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