小説『エミリーキャット』第71章 ・コヨーテの鳴く夜に
彩は無自覚というものがさながら自分という人間が誰か別の人格に操られていつの間にか動いてしまっている、
というはっきりとした結果をもたらすことがあるという事実を今まで知らずにいた、と、まるで見知らぬ人から急に人混みの中で腕の皮膚をつねられたかのように刺激的に知覚した。
何故なら彩ははっと我に返った時には既にカウンター席に座って珈琲を飲む鷹柳教授の肩を大胆にも後ろからポンと叩いていたからだった。
振り返った教授は一瞬何が起きたのか咄嗟に理解が出来ないような顔をしており、その表情はどこか心許なげであった。いつもはダンディで自信に満ちあふれた鷹柳の全く異なる素顔の一面を彩は偶然垣間見てしまったような気がした。
『鷹柳さん、教授、
私です、
ギャラリー・エコール・ド・巴里の吉田です』
『おお…』
と言って鷹柳はまるで夢から覚めたような驚きを秘めた眼をして彩を信じられないとでも言ったように見つめ返していた。その眼に彩はこちらを見つめながらもどこか微睡(まどろ)んだままの老いという乳白色の霞のかかった対岸から遠く彼女を見遥かすかのような距離感を彩は感じた。そしてしわがれて弱々しい老人の声を出すと鷹柳はこう言った。
『君が何故こんなところへ…』
その問いに彩が答えようとするといつの間にか彼女の背後に来ていた順子が言った。
『彩さんお知り合いなの?』
『ええ、仕事で時々お逢いする…大切なお客様で』
と答える彩の言葉と同時に順子は思わずこう言ってしまった。
『ねえ彩さん今、鷹柳さんって言わなかった?
もしかして…
こちら鷹柳貞夫教授?
だとしたら私達と同じエミリーさんの…』
『しっ…!駄目よ、順子さん』
と彩は思わず順子を小さくたしなめたが、鷹柳貞夫は電撃的に全てを察知し、その顔色は見る見る変わっていった。
『吉田くん、君は…』
と鷹柳は言ったもののその先の言葉の継ぎ歩を見失い、隠し切れない動揺の中、ついには音を立てて壊れるかの如く心弱りしてゆくようにすら見えて彩は思わずこう声を掛けずにはいられなかった。
『鷹柳さん、
私も偶然たった今知ったところなんです。
エミリーと鷹柳さんは親しかったんですか?』
『……』
鷹柳は芯から驚いたような眼をして彩の顔をまるで怯えたように見つめ返した。
彼はやや尖って目立つ喉仏を上下させて固唾を飲み込むと酷くかすれて聞き取りにくい声でこう言った。
『エミリーのことを…
君は知っているのか?
吉田くん』
『ええ知っています、
エミリーは私にとってかけがえの無い人で大切な友人でもあります。』
『しかし…何故??
いやいやそんなはずはない、そんな…君はエミリーと逢えるなんてことが…何を巫山戯(ふざけ)たことを、そんなことを言って私が信じるとでも』
その先を口調はもの柔らかだが力強さを秘めた彩の言葉がさえぎった。
『私、エミリーと逢ったんです、ビューティフルワールドへ行ったんです。
恐らくそこへ私を呼んでくれたのはエミリー自身です。
彼女は今もあそこに棲んでいます。』
『……』
鷹柳はまさに鳩が豆鉄砲でも喰らったかのような顔をして再び固唾を飲み込むと何かを言いかけてやめたのか?その口をもごもごと無言のまま動かしていたが、やがて苦々しい顔をして彼は黙り込んだ。しかし彩はそう答えながら堂々としたその自らの態度に内心驚いていた。
が彼女はこう言わずにはいられなかった。
『ビューティフルワールドは今でも在ります。
確かに目には見えないけれど…
でもちゃんと在るんです。
そこにエミリーはいます。
そして彼女の愛したロイやロージィや…ロイの血をひく大勢の猫達も…』
『そんな馬鹿な…』
鷹柳はやっとの思いでそう言いつのったが、それすら彼にはまるで酷く重労働であるかのように見えた。
『いいえ彩さんの言っていることは本当です。
私もエミリーさんに逢いました。
エミリーさんはあの森にいます。
あの森の中にあるビューティフルワールドに、あの館に今も居ます。
彩さんの言う通り普段の私達の目には見えないだけで…
今もあのビューティフルワールドは存在しているんです。』
と順子が彩の隣で堰を切ったように言うと鷹柳の瞳は瞠目を通り越えてまるで恐怖に凍りついたかのように見えた。
『では…ではあの噂は…
本当だったのか』
鷹柳は震える唇を思わず骨格の美しい指先で戸惑うあまり押さえながらも、その老いた眦(まなじり)に薄く泪を滲ませながら無自覚の裡(うち)にこう吐露していた。
『でも何故…
それが私ではない?
何故彼女は私の前には現れない?何故私ではなく君達などを彼女は選ぶんだ、何故?
何故だ、エミリー!?』
『……』
彩は胸を衝かれたような想いとなって言葉を失った。
動揺の余り、自分を見失った鷹柳は彩の知るいつもの鷹柳ではなかった。
詳しいことは解らないものの彩は今、目の前の鷹柳にシンパシーを強く感じて胸に押し寄せる不可解な感動に目頭が思わず熱くなった。
予期せぬ事態に惑乱を隠せぬ鷹柳は彩達の目の前でまだ初々しさの残る青年のように震えながらその泪を流し続けた。
デューラーの銅版画を思わせる武骨な中に優美さを兼ね備えたその大きな両手で彼は思わず顔を覆って我を忘れてこう叫んだ。
『何故君はいつも私を選ばない??
たとえ亡霊でもいい、
私を早く君のもとへ連れてゆけ!私は君のものなのに、
君だけを今も待ち続けているというのに!』
『鷹柳さん…』彩は感涙に咽びながら思わず鷹柳の老いて薄くなった肩に手を置いた。
顔を覆ったまま戦慄(わなな)く鷹柳の前にマスターは黙ってカフェロワイヤルを差し出した。
『ダルトン一家が愛した珈琲です』と順子が囁くように言葉を添えた。
その言葉はやはり彩同様、感動と共感とに震えていた。
角砂糖に火を点し、淡く揺らぐ碧い小さな炎が鷹柳の泪に濡れそぼった面長な顔を照らし出したが、彩はその老いた中にもいかにも敏(さと)そうな顔が一瞬、辛い恋情に心弱りし、戸惑う青年の表情と重なる気がした。
カフェロワイヤルを飲み終えた鷹柳はどこかまだ茫然自失としていたが、
ようやくそれも自覚して乗り越えようと努めるのが彩にも目に見えて解ったが同時にそれは痛ましくもあった。
『一体私としたことが…
こんなに取り乱してしまうなんて…』
鷹柳は彩を苦しげに見遣ると頭を下げた。
『すまなかったね』
『そんな…やめて下さい先生』と彩が言う隣で順子はすっかり泣きべそをかいていた。
『それより…エミリーのお墓参りって本当なんですか?
エミリーのお墓って…
一体どこにあるんですか?』
『……』
鷹柳は彩を再び瞠目して見つめ返すと硬くそのかぶりを振るとこう言った。
『それは…云えない、エミリーとの約束なんだ』
『約束?
でも私、知りたいんです、彼女のことならなんでも、たとえ約束を破ったとしても私ならエミリーは赦してくれるはずだわ』
と言いつのる彩を後ろから制したのは意外にも泣きじゃくっていた順子だった。
『彩さん、先生は今はまだ仰いたくないのよ、
でも何故どうして彩さんがエミリーさんと出逢ったのか…
それをまず先生に教えて差し上げたら?
きっと解って下さるわ』
『……』
彩が思わず沈黙すると同時に鷹柳の視線がそう言った順子から彩へと一心に注がれるのを彩は痛いほど強く感じた。
ヨンマルイチゴーシツはとうに閉店したというのに夜の八時を回ってもまだその奥まった出窓には、薄ぼんやりと琥珀いろの灯りが点っていた。
黄褐色の灯下、グラスに残った僅かなシェリー酒が揺れてもいないのに震えるような幽かな黄金(きん)いろの綺羅めきを小さな湖面のように、たたえるのを彩と順子は黙って見守っていた。
それに反してテーブルの上には空のキャセロールと僅かな皿とがどこか睡たげで過鎮静なセピアいろの静物画のように在った。
鷹柳教授はその皿とグラスの間にある何もない卓上の木目をじっと見つめたままこう言った。
『では…エミリーは今でも君が帰ってくるのをあの森で待っているというのだね』
『そうです』
『最初聞いた時にはにわかには信じられない話だったが…
今や私はこのことが他のどんな荒唐無稽な出来事よりも容易(たやす)く信じられる』
鷹柳の大きなそのややぎょろりとした眼が彩の顔をまるで吸い尽くすかのように一心に見つめていた。
『エミリーは君がビューティフルワールドへ帰ってくることを信じて今も待ち続けているのだということを…』
『そうです、
だから私は早く彼女のもとへ帰りたいんです』
『しかし吉田くん、
君は考えたことがあるのかね?
エミリーのもとへ行くということは君はこの世の人間ではなくなるということなのだぞ、つまり君はエミリーと同じ死者になるんだ、
その覚悟は出来ているのかね?』
『そんなことは私にだって解ります。
解ってて私はエミリーのもとへ帰りたいと真剣に思い続けているんです』
『君を諭して引き留めようとした山下くんは恐らく正常なんだろうが、私はそういう意味では正常ではないのかもしれない、何故なら私はエミリーの最後の望みである君の帰還を絶対に叶えてやりたい』
それまで傍観者のように彼らの会話に耳を傾けていた順子がその肩を痙攣するようにびくっと震わせたことに彩と鷹柳はふたりだけの対話に没頭し過ぎて露ほども気づかなかった。
『私はエミリーの望むことならばなんでも叶えてやりたいのだ』
その言葉に今更ながら順子はハッとしたかのように鷹柳の顔を見つめ上げ、それと見比べるかのように向かい合う年下の女友達の顔を不安げに見守った。
『私はエミリーのことやエミリーのためを想うことはあっても吉田くん、
君のためを想うことはない』
『それでいいんです
鷹柳さん、
それが引いては私のためでもあるからです』
『……』全く揺らぐことのない彩の信念に鷹柳は慄然として彼女の無邪気にすら見える笑顔を見つめたまま、その悲哀と同時に沸く不思議な悦びを彼は淋しさと共に味わった。彼は黙ってシェリーの杯に口をつけると長い沈黙の果てにこう言った。
『先にもいった通りエミリーの望むことならなんでも叶えてやりたい、
たとえ悪魔のような所業だとしてもね、だから彼女が君を求めているのであれば奇妙なその現実を私は是非彼女に与えてやりたい』
その言葉を聴いて燭台の焔の揺れる薄暗がりの中、その焔の影が揺らぐのを顔に映しつつ、今更ながら順子の顔色が変わった。
”ああ私は彩さんとエミリーさんとの間のキューピットになってあげるだなんて何故あの時あんなことを言ってしまったのかしら?
今考えたらそれはとても恐ろしいことなのに、
だってそれは彩さんを黄泉の国へ手離してしまうということに他ならない、
エミリーさんは確かに今でも大切なかけがえのない思い出の人、
でも彩さんはこの”今”を共に生きる友達なのよ、
私は彼女を死者の国のビューティフルワールドへ行かせてはならないわ、
彩さんを止めなくては、
でもどうやって?
彩さんは何があってもビューティフルワールドへ、
エミリーさんのもとへ行くつもりなのに…一体どうすれば彼女を止めることが出来るというの?
そうだわ、
彩さんの婚約者、
彼に逢って力を貸してもらうのよ、なんとしてでも私は彩さんをエミリーさんから引き離さなくてはならない、
それが引いては彩さんの命を守ることになるのだから!”
順子の心の叫びに全く気づかぬ彩と鷹柳とはまるで仲のよい親子のようにテーブルを挟んで向かい合い、端からはさも仲睦まじく親密げに見えた。
しかし身近に忍び寄りつつあるにも関わらず、その陰ひとつ無いまでに明るく漂白されたかのような“死”についてふたりが嬉々として話し合い、まるでピクニックの計画をたてようとしているかのような愉しげな様子は、順子にはゾッとするほど信じがたい風景にしか見えなかった。
『エミリーと私がどうやって出逢ったのか?そしてエミリーは何故、どこでどうして亡くなったのか君は知りたくはないかね?彼女は成人後ニューヨークへ行き当時としてはかなり暴挙であったまだ認可の降りないかなり特殊な…
それもまだ研究段階の初歩にあるような治療をアメリカ人ドクターから受けた、このことは私も診断証明証を見たから確かなことだ』
鷹柳はぎょろりと大きく同時に鋭い鋼のような眼光を宿すその瞳をまばたきひとつせず彩の顔を一心に凝視してくる。
彩はそのあまりに強過ぎる視線に射抜かれて自分の顔に孔(あな)が空いてしまいそうだと心の中でふと思った。
『治療?』
そのような考えを振り払いながらも訊ね返した彩の脳裏にケンイチの赤いノートブックに綴られていたという言葉が思い浮かんだ。
”君は再びニューヨークへ行かなければならない、ドクターイカヴァニに逢わなくてはならない”
鷹柳は彩への視線という照準を合わせたまま固く頷いた。
『エミリーはその治療で奇妙な副産物を得たものの治療の真の目的は遂げられなかった、彼女は帰国してからも並々ならぬ苦労の連続を味わったが、晩年ロンドンで私立探偵を雇うと自分の本当の父親を捜し出し英国まで単身高飛びするという真似までやってのけた。
だが…実の父親に逢いながらも結局深い失意の中再び日本へ帰りその数年後彼女は私だけに見守られ…
…やがて…病死した…』
『病死?』
彩の瞳が大きく慄然と見開いた。
その瞳には事前に解っているはずの現実に今更衝撃と悲哀とに揺れ動いていて今にも泪が零れ落ちそうだった。
鷹柳はそんな彩の顔からむしろなんの関心も無いと言わんばかりにあの強過ぎる視線をふいに反らすと今度はエミリーの肖像画の下の壁の染みを見つめたままどこか力尽きたような声を出した。
『そうだ…だが結局それがなんの病いであったのかはもう私には解らない…彼女はとうとう自分を何年もかけて蝕み続けた病いについては口を閉ざしたまま逝ってしまった…』
『何年もかけて…』と彩は思わず苦しげに口ごもった。
鷹柳は壁の染みを見つめたまま今度はまるで別人のような平和で静謐な声を出すとこう言った。
『だが…それ以外についてはエミリーは病苦と共に迫り来るその怖れと闘いながらも私にいろいろと語ってくれたよ、
最後のほうはもう自分は長くはないと知っていたからこそ、ようやく彼女はそれらを最後に私に話す気になったのかもしれない、
話さなくてはならない圧倒的事情が彼女は私に対してあったせいもある』『……圧倒的…』と彩は一言一言まるで彫(え)るように言った。
『…事情?』
『私は彼女の病いがもう治らないことを知り、それに合わせて私も彼女のためにある職種の立場に就くための留学を急遽無理やり自分に架した、
そのために私は一度は美術評論家という仕事を表向きは辞め、そしてその職種の資格を執るべく、自分の意思にまったく反して美術の留学でかつて知ったる異国で懸命な学びに徹し、四年後その資格を得てエミリーの為だけに日本へ直帰し、息もたえだえになりつつも、ひたすらに私を待っていてくれたエミリーのもとへと馳せ参じた。
そしてエミリーのためだけに就いたその職種ゆえ彼女に授けられるあることを彼女に行った。私は今あの時を振り返って思うがそのことの為だけに当時私は遮二無二に生きていた、
そしてエミリーの死後、私はその四年もかけて必死で別人となって学び、取得したその職種をまるで脱け殻になったかのようになんの未練もなく辞めてしまった。
事実上破門という形で退(しりぞ)いたその仕事の仲間達からは冷たい眼を向けられ、ずいぶん糾弾もされたが私は全く平気だった。
何故なら私はエミリーの為だけにそうしたことで…他意も未練も何も無かったからだ。
エミリーの死後その職種に就き続ける理由など微塵も私には無かったからだ。
再び今の仕事へ何食わぬ顔で私は復帰した、
恥知らずな背徳者、少なくともそのことを知る一部の人々から私はそう思われ軽侮(けいぶ)されていることだろう…』
鷹柳はむしろそのことに愉悦すら感じているかのように満足げな顔をすると誰にともなく室(へや)の一隅に宿る闇に向かってそっと微笑むとそう囁いた。
『その職種って一体…』
『それはエミリーにとって大切なことであったが、私にはそれそのものよりエミリーが望んでいるからこそそうなったということのほうが大きい、
恐らくはその事について話したところで大抵の世間の人は、にわかには信じられまい』
そう言って闇を見つめ続ける鷹柳の横顔がふと何故か彩には不思議なあり得ない聖人のように一瞬見えた。
しかし、次の瞬間、世俗の被膜を纏った鷹柳へと光の速度で立ち戻り、彩は自分の錯覚をなんとナンセンスなんだろうと自嘲した。
『もし君を彼女が必要としている最後の人間なのだとしたら、私はエミリーの生きたその軌跡を君に語っておいたほうがいいかもしれない、
エミリーは今もそうだが生きている間中彼女はずっとゴーストだった、
そして苦しい恋愛、
それもゴーストとしての彼女の立場を深めてしまうことでしかなく…』
『アデルの不慮の事故死、
美世子夫人の謎の失踪、
ウィリアム・ダルトンの飛行機事故による急逝、
ダルトン氏の兄である国際的なアンティーク商のブランド会社をもつアンブローズ・ダルトンへと受け継がれたその後のエミリーの親権、
そしてエミリーが終生こだわり続けたハセガワ・ケンイチというシベリア帰りの元将校だったという善意の老人から貰い受けたという彼からの友愛を綴った赤いノート・ブック、
そのノートが彼女にもたらした福音と、黒い福音、
そして…吉田くん、君が本当にエミリーについての真実を知りたいと言うのであれば今から話すことに君は耐えられるか私は些か心配だが…』
鷹柳教授はそう言いながらも彩をまるで試みようとするかのような眼差しを向けていた。
そのことに素早く気づいた彩は『私をテストしているんですね?
いいわ、構わないわ、
どうぞお話になって』
彩はそう言いながらその言葉は本心であるものの内心は鉛のように重い固唾を飲み、その胸は強く蓋(ふた)がれるような圧力に低く狂おしくドクドクと鳴り響いていた。
『エミリーが終生こだわり続けたシベリア帰りの、元将校のハセガワ・ケンイチだが』
彩はその鷹柳の言葉に沿って深く頷いた。
『彼はエミリーが彼女の頭の中で無自覚に造り上げた虚構の人物だよ』
『えっ…』彩は思わず席を蹴って立ち上がりそうになる衝撃に耐えて一旦その呼吸を浅く素早く整えると急いでこう言った。
『でもエミリーはケンイチさんから赤いノートブックを受け取ってそれをとても大切に』
それに対して鷹柳はにべもなくこう言い放った。
『赤いノートなど存在しなかったし、ハセガワ・ケンイチという老人も存在しなかった、
どちらもその影すら無いのだよ』
『そんな…』
彩は思わず呼吸を止め、その息を飲んだ。
『だいたいおかしいとは思わないかね?何故、総合病院の出入口に昼も夜も物々しい制服制帽姿の警備員などが立っているのか?
昭和の平和な時代というのに』
教授の言葉は尚も続いた。
『丘の上総合病院はその頃、
在るには在ったが既に廃墟と化していたし、
その傍に建つ半ば同じく廃墟化した丘の上のマンションというものは確かに現存したものの、
在ったのはそれだけだった、
ハセガワ・ケンイチなる父性愛と深い共感力を持つ心優しい老人は本当は居なかったんだ、
虐待に心身をすり減らし、
深く傷ついた孤独な少女が造り出したケンイチはエミリーの、”かけがえのない友達”であり、
どうしてもこの世界にたったひとりでいいからいて欲しいと痛切に願った果てに彼女の中に生まれた”大切な理解者”だったんだよ、
赤いノートはそんなエミリー自身の願望だったのだろう』
『……』
『当時のエミリーに関してはそのようなことは枚挙にいとまがない、
たとえばシンガポールで心臓発作により亡くなったという少女もそうだ』
『えっ…梗子さん?
スクールバスの玉突き事故が原因で急逝したという…』
『解るかね?吉田くん
それだけエミリーの孤独と心身に受けた傷は深かった、
だから私は彼女をなんとかして救いたいと一心に思っていた…』
だが、次の鷹柳の言葉は今までの話題からは一見なんの脈絡もない驚くほど唐突な話であった為、彩は一瞬教授が血迷いでもしたのかと本気で疑った。
『コヨーテの遠吠えが聴こえるようだ…。
コヨーテなど見たこともない私の耳に今もその声がどこからか聴こえるようだ。
エミリーは死ぬ間際も、
そしてまだ元気な時も
よくこう言っていた。
”アメリカの夜はずっと私の中で明けない夜なのだ”と…。
それは”豊かで世界が一度にすべて照り映えるほど眩しく輝く、安堵と平安とに満ちた幸せな星月夜だった”と…。
コヨーテが遠くの丘の上で鳴くのが聴こえるあのアメリカでの夜だけは私は孤独ではなかった』と…。
『コヨーテ…
アメリカの夜…
それはどういう意味なのかしら…アメリカに居た時の思い出をエミリーは鷹柳さんに語ってくれたんですか?』
『わからない…
熱に浮かされたり、体調を崩した時に途切れ途切れにそう話してくれたことはあったが詳しいことを後から聴いても覚えていないとしか言わなかった、
私は今も忘れることが出来ない、恐らく彼女はその夜を何度も何度も彼女の中で体験し、心の奥底でそれを生涯大切に守り続けたのだと私は思う、
だがそれが一体何を意味することなのか、もう謎でしかないんだよ』
『教えて下さい、先生が知っているエミリーのことを、
私にはその謎を解けるかもしれません』
彩の脳裡にアデルの声が遠く彩の中で半鐘のように鳴り響いた。
その音色は彼女の心の奥深くさながら百合の花のように円錐形に花開き、黄金(きん)のトランペットの輝きで世界を塗り潰すと同時に、彩の内側を脈打つドラムの如く打ち鳴らし続けた。
『エミリーの記憶のボタンの掛け違いを直せるのは彩!
もう貴女しかいない、you・can・go』
『エミリー…』
そう生きる者に呼び掛けるように絵の中の少女を見ると鷹柳は泪を浮かべた瞳を隠しもせず絵から彩へと視線を移すとこう言った。
その声はたとしえもなく穏やかで、暖かくそして何故か宇宙の底を見てしまった老いた宇宙飛行士のような厳しい悲しみに満ちていた。
『では話そう、私から君に伝えよう、私の中に永遠に生きるマイ・ビューティフル。
エミリーにまつわる光と影のその総てを…』
to be continued…
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