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マグナマテルの傘

改札を抜けた小さな駅の階段で立ち尽くした。私は今、本降りになった雨に困惑している。

傘はある。
ジジイの小言を聞くくらいなら、言われた通り持って出かける方がマシだ。
でも傘をささないのには理由があった。
古びた黒いコウモリ傘だから?

違う。真っ黒な傘で雨を凌ぐのと、ほーら俺の言うことを聞いていれば間違いないだろうと被さってくるのとが、区別できないのだ。要はどちらも気に入らない。

ちゃっかり電車に置き忘れてこようかと思っていた傘は、忘れよう忘れようと変に意識したら、むしろ手放し方を忘れてしまった。

そうだった。大抵、意図したことは叶わない。

西口のひさしの下で雨宿りをしていると、さっきから私を追い越す人たちが、
ポン、ポン、ポン、
次々と傘を開き、タンポポの綿毛のように散っていく。

色とりどりの傘に出遅れたもう一人、いつから居たのか笛吹(ウスイ)も立ち尽くしていた。

中学から知っている、気のいい後輩。でもここ数年はすれ違っても視界に入れないことにしている。笛吹め、早く帰ればいいのに。

そう念じてどのくらい時間が経ったろう。周囲には二人の他に誰も見当たらない。
笛吹、どうかしたんだろうか。

気を回せば答えはすぐに見つかった。
ああそうか。笛吹は正真正銘傘を持っていないのだ。

だったらお互い運がいいじゃないか。無言で笛吹にコウモリ傘を押し付けた私は、どしゃ降りの中を逃げるように急いで帰った。

家は繁華街の大通りから奥まった、狭い路地のビル。

ただいま。
傘はどうした。持って出かけたんじゃなかったのか。
困ってる人にあげてきた。
俺のをか?
ごめんなさい。
いやそうじゃない。お前が風邪をひいたらどうする。

お節介なジジイが白いタオルを持ってきた。私だってそのくらい自分でできるのだけど、おいで、と呼ぶから黙って髪を拭いてもらうことにした。

俺がやらないとお前は自分で何もできないという顔が、年甲斐もなく嬉しそうで、直視できない。
だから目を閉じるのに、勘違いされる。

着替えなさい。寒いだろう?
別に。
震えているじゃないか。

はいはい、と雨でべっとり貼り付いた服を脱ぎ、敷きっぱなしの布団には私が先に寝転んだ。
イヤとか、イイダロウとかを繰り返して行為に至る一連の手続きは退屈でつまらない。どうせ駆け引きの結論は初めから決まっている。
それに、どうせの結論は私も嫌いではなかった。

こら、ちゃんと座りなさい。
はい。
よろしくお願いします。
よろしくお願いします。

ジジイは満足げに微笑む。この不自然な手続きだけは省略してくれない。毎度行為の前には互いに向き合って姿勢を正し、裸で三つ指ついて神妙にお辞儀するのがジジイのこだわり。
セックスは儀式だから、挨拶を疎かにしてはいけないらしい。

気に入らない。
気に入らない。
同じことを母にもさせていたに違いないとまたよぎった。

やがて肌の内側が疼き出し、今日こそは見られるかもと期待が湧いてくる。
前に一度だけ不可思議なものを見たことがある。
薄色の光の塊が、この世のものと思えなかった。これがジジイの言うところの浄化かもしれない。

おぼろげにしか思い出せないのがもどかしく、どうかもう一度、あと一度でいいから見てみたいと思う。今日こそ見られるのではと毎回思う。

どうやれば、どこをよじれば、と上になり下になり甲斐甲斐しく働くと、鼻から力ない声が抜けていった。

痛いっ

突然ジジイが短い声を上げた。

爪を立てるな。

私に悪意はなかった。かと言って無意識でもなく実は奉仕のつもりがあった。背中に傷が残るほどの痛みが喜びを与えるかと。
毎度我慢させていたのなら、悪いことをした。

後はいくら揺れても熱が冷めて気分が乗らず、今日も幻を見そびれてしまったことが惜しまれた。

ああ。大抵、意図すると叶わないんだった。

日は完全に落ち、窓ガラスが室内の灯りを反射させている。飾り気のないカーテンを閉めたちょうどその時、見知らぬ訪問者がやって来た。

たまに宗教の関係者だろうと思われる年寄りが仏壇に手を合わせに来ることはあったが、このたび家に上がってきた男は、聞けば私より年下、あの笛吹(ウスイ)と同じ年じゃないか。

存在感なく突っ立って、笛吹とは似ても似つかぬ冴えない風貌に、恋人もいないんだろなとふと思った。

つい比較して笛吹に申し訳ない。でもさっき私のおかげで雨を逃れたのだから、まあいいんじゃない。

いまどき純粋な男だよ。
で? 泊まるの?
純粋だから儀式の教え甲斐がある。

ジジイの言う儀式とは、セックスのことだ。勝手にどうぞと言いたいところだがそうもいかない。

私と、じゃないよね?
お前とだよ。

生気のない顔色で立ったままの男に、ジジイがシャツを脱ぐよう促した。

聞いてないけど?
教えたよ。夏至は太陽の恩恵を一番授かる日だ。緯度の高い北欧では一年で一番性欲を掻き立てる日と言うらしいな。

夏至の日に裸で泉をのぞくとか、真夜中の交差点に立つとか、人間をそそのかす数多の伝説を、確かに聞かされたかもしれない。でも今日は雨……

いいな?
今日は夏至だったの?
俺もいるから大丈夫だ。

裸になった男が既に正座をして私を待っていた。ひ弱でなんて尊厳のない姿。ジジイは何をさせる気か。
男も男だ。他力本願で言いなりになって、きっと何も考えてない。
どうして私が見ず知らずの初めてを世話しなきゃならないの。早く服を着て出て行ってもらいたい。

乃木さんは出かけてよ。見られるなんて、いや。
見届けてくれと頼まれた。
何ですって? 本気で言ってる? まさかあなた乃木さんがずっと見てるのがいいの?

隙を見て追い出すつもりなのに、男は俯いたまま、先生……とだけ呟いた。

俺が手ほどきするから心配ないぞ。
それって私が二人を相手するってこと?
二人、三人も同じだろう。

絶句した。冷めた目でまじまじとジジイの緩んだ身体を見た。ジジイへの愛着をそれなりに育んできた自分を、初めてもったいないと感じている。
そして珍しく昂ぶりジジイに激しく抗議した。

哀れな男は抗いもせず姿を消した。むしろあなたは尊厳を守られたのだから、感謝してほしいくらいだ。
疎ましいのはジジイの方。さっきから子どもじみた声でまとわりついてくる。

でも済んだことをグズグズごねても仕方ないか。ジジイは口にしないが、悪いことをしたと分かっているだろう。

その証拠に、機嫌をとって離れない。仕切り直して相手をすればまた精を出し、今日もいい一日だったと締めくくる一連の儀式。反応を伺い、なだめ、持ち上げ、丸め込んでは私に嫌われまいと必死だ。

もてなされて悪い気がするわけもなく、つい流されていつもの起承転結が始まった。
三つ指をついたこの手がジジイの肌を這っていく。各部位は全て、子宮の命(メイ)に従いザワザワと呼び起こされ、やがて意識を殺めてしまうのだから、私の身体は相当な欲しがりにできている。

だからといって都合よく解釈しないでほしい。好きだからしがみつくんじゃない。気持ちいいからでもない。何かに掴まってないと身体がどこかに飛んで消えてしまいそうになるから怖い。怖い。何かを、シーツの端でも、例えば藁しか無いなら迷わず藁を掴むだろう。ジジイの価値は藁と同等だ。

痛いっ!

図らずもまた爪を立ててしまった。ジジイは果てる前に離れていった。私を冷たく見下して。
その気がなくなった途端、どうして手の平を返してあんな目ができるのだろう。私だってジジイを捨てていつでも逃げ出すことができるのに。

だけどそうしない。
逝き損なった身体で考える。光の幻、……私は本当に見たのだろうか。

寝つけずカーテンを少し開ける。まだ雨は止んでいなかった。
珍しいことに、外に誰かが居る。窓の下の路地でコウモリ傘が一つ、行ったり来たりを繰り返している。

忘れ去られた路地に用がある人なんて、居ない。もし居るとすれば、笛吹(ウスイ)かしらとぼんやり思ったら、妙な確信に至るまでが早かった。
彼なら理由がある。律儀に傘を返しにきたに違いない。

どうした?

目を覚ましたジジイが問う。
私はいつでも逃げ出せると思ってはいるけど、逃げたいと切実に思ったことがなかった。
でも笛吹がここから連れ出してくれるのなら、家なんて仏壇ごとジジイにくれてやる。

どこへ行く?

返事はしなかった。
ビルの外階段を着の身着のまま駆け下りる。笛吹は私にとって初めての人。終わったあとにどんな顔で向き合えばいいか分からなくて、そのまま避けるようになってしまった。
嫌いになった訳じゃない。
その反対。

路地に下りると笛吹は居なかった。
でもすぐに見つけられた。相合傘の男女が、影だけ残して向こうへ小さくなっていくのを。
そして二人はネオンの壊れたビルへスッと消えた。

笛吹が待っていたのは私ではなかった。

それもそうだ。深夜に傘を返しに来る方がどうかしている。

でも気持ちは収まらなかった。
ほんのちょっとだけでいいから私に気持ちを残してくれているかもと、自分はさんざん気の無い素ぶりをしておきながら、それでもいつか追いかけてきてくれるかもと、願わないではなかった。

願っていた。

できることならこんな家からさらってほしい、でも期待して叶わなかった時、救ってくれるものが何もないから。
だから期待しない期待しない考えない考えない、笛吹を視界から追い出してきた。その方が願いが叶うような気すらした。

バカだなあ、何年経ったと思ってるの。意図したことは都合よく叶わないんだってば。

雨はどこまでも生温く、ある年の夏休みの匂いをそっくり再現していた。

小降りになってきた。気が済んで中に戻ろうと振り返ると、ジジイが白いタオルを持って待っていた。いい年したジジイが不安げな幼な子に思えて笑いが止まらない。

でもジジイより滑稽なのは私の方だ。
やっぱりここに帰るしかないのね。
タオルを奪って目に押し当てた。

重い夜風が口笛を運んできた。軽やかなメロディは、聞き覚えのある「雨に唄えば」の一節だ。誰かが口笛を吹いている。

世に捨てられたはずの路地に、こんな夜に限って人が来る。
しかもその人は口笛を吹きながら、ジーンケリーさながらのステップで踊りまで披露して。

ああ。ジジイより、私より上手(うわて)の道化がいた。
見てるこちらが恥ずかしくて、痛々しくて、見てないフリをする。道化は気後れするどころか近寄ってきた。

あれ? 先輩、こんなところで偶然。
覚えてるでしょ、ここ私の家だもん。笛吹〔ウスイ)こそなんで。
傘を返しに来たよ。
だからって踊る必要ある? 普通でいいじゃん。
そしたら先輩、忘れられそう。

今度こそ本物の笛吹が傘をステッキに見立ててくるりと回し、その場でまたステップを踏む。

タップ上手いね。
映画何度も観たから。驚いた?
少し。
やったぜ。で、その人は?
えっ?

真顔で答えられるはずがない。笛吹と向き合って話すことが、こんなにも簡単だったなら、どうして私は見えないフリをしてきたの。今更何を、どう言えばいい?

しかも窓の下から事の顛末を全て見られていたかと思うと、余計にたまらない。

咄嗟に口をついた。

おとうさんよ。

ジジイに聞かれたかもしれない。もし逆上したら、それでもいい。構わないと思った。

ところがジジイは意外にも物分かりのいい父親となり、調子を合わせてくれた。

おとうさんは中に入ってるよ。風邪をひくと良くない。二人もほどほどにな。

笛吹の振る舞いも自然だ。

あ、これ。大事な傘をありがとうございました。
本当に優しい娘でね。
知ってます。

安堵していいのだろうか。
私をよそに、会話は続く。

連れて行く気か?
はい。
君には荷が重いかもしれない。
未練ですか?

男たちの腹の内は分からなかった。

俺も俗物に見られたものだ。
いえ、そんなつもりは。考えていることはあなたと同じです。あまり時間もないので、行きます。
見せてやれるか?
はい。たぶん、ですけど。
そうか。頼んだよ。

初めてこの狭い路地を案内した時、高校生だった笛吹は、ネコ道だと笑った。

先輩、行こ。

窮屈な世界から手を引かれ、路地を抜けたら繁華街のスクランブル交差点がもう見えてくる。

交差点の歩行者信号が一斉に青。

それを合図にぞろぞろと辺りのビルから薄色の影が現れた。闇の中、顔のない影の群れが四方から横断歩道を目指してやって来る。
名を失ってなお彷徨う影のそれぞれが、他人に言えない後ろめたさを抱えて歩き出す。中には私を舐めるようににゅるっと追い越して行く影もいる。

にわかに雨が激しくなった。
スクランブル交差点で色とりどりの傘が開く。
ポン、ポン、ポン
傘に顔が映る。
客引のバイトを終えた男も、二次会を抜け出した女も、賭け事に負けた男も、ネカフェに向かうカップルも、ついさっきの蒼白い顔の訪問者も、亡き母の影までもがみんな薄色の光をまとって交差点の中心に集まってきた。

先輩も、傘さして。

笛吹に渡されたのは、羽化したてのカゲロウみたいな薄色の傘。

そしたら笛吹が濡れちゃう。
大丈夫だよ。
でも。

信号が点滅している。私の顔も開いた傘の中で赤く点滅した。

行け!

笛吹に背中を押されてハッとした。

逝っていいの?
怖くないから。
私、あのね。
知ってる。僕も好きだ。

子どもなりに精一杯交わしたいつかのやり取りが脳裏に蘇った。

先輩、早く!

笛吹が私のことを好きって。何年も何十年も待っていたそのひと言を、ゴクリと丸呑みした。

儚い影たちが一箇所に集まり、薄色の一つの大きな塊となる。闇夜の空に向かって立ち昇る様は、あたかも子宮を目指す、とある窮屈な道のようでもあった。

信号はじきに赤へと変わる。まだ間に合うだろうか。横断歩道の白いラインを跨ぐ。乃木さんは死と再生は繰り返すと言っていた。儀式は怖いことではない。死は恐れるに足りない。既に名の無い私も一体の影として、今度こそ出遅れぬよう無我夢中で走り出した。

交差点の途中で車の往来が吹き返す。その風圧で私は傘と共に舞い上がった。頭上は空に吸い上げられる傘の目抜き通り。

見下ろせば名の無い影の街。笛吹は無事? 彼のスラリと長い手足を探す。

雨粒より小さくても分かった。得意のタップで、私たちの去るのを下界からまだ見送っている。

逝きます。

声が届いたのだろうか。
笛吹は胸に手を当て、うやうやしくお辞儀した。

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