見出し画像

好き嫌い言いません

おばあちゃんが言っていた。

お米のひと粒ひと粒に、神さまが宿っているのだそう。
神さまを見たことはないけれど、ひと粒ひと粒大切に扱わなきゃねって
おばあちゃんがいなくなった今も、お米を炊くたびにそう思う。

竹ザルのお米を零さないように、潰さないように、腕まくりをして掌でリズミカルに研ぐ。
背中越しに、彼が軽く笑った。

「最近のコメは軽く洗うだけでいいらしいよ?」
「ちゃんと研ぐと艶が出るんです。これはお米の神さまへの作法」
「ふーん。細い腕して…もう少し肉食った方がいいんじゃない?」

彼氏に言われると微妙な気持ちだ。
ダイエットしてるわけじゃないんだけど。

丁寧に仕込むと、炊きたてのごはんは透き通った味になる。
そこは理屈じゃないのだ。
土鍋で炊くとさらに美味しい。そんな難しい技も要らないから、毎日土鍋で炊いてもいいくらい。
吹きこぼれの後始末が面倒じゃなきゃ、やるんだけどなあ。

「疲れたー」

そうして息を吐く彼の前に、炊きたてのごはんを置く。

「どうぞ、召し上がれ」

美味しく炊けたと思うよ。この透き通った香り。
そうして味噌汁を、コトンと。

「味噌汁の具、何?もしかして」
「そう。ミョウガ」

夕方仕事から帰ると玄関のドアノブに、土のついたミョウガが袋に入ってぶら下がっていた。
間違いなく隣のおばさんだ。こんなにいっぱい、顔をあわせたらお礼を言おうと思いながら、ミョウガのたっぷり入った味噌汁を作った。

おばさんには一線で活躍しているパティシエの息子さんがいる。少し前にパティシエ役として朝ドラにも出てたのを、私も見た時は誇らしかった。

息子さんの創作した新作スイーツや、旅行のお土産、おばさんのお庭の柿など、いつも頂いてばかりなので焦るけど、いいのいいのと若々しい朗らかな笑顔。これまた恐縮する。

もう少し肉、かあ

あまり気乗りはしなかったけど今夜はハンバーグにした。材料さえあればすぐ作れるから。
挽き肉料理が多くなってしまうのは、肉を切らなくていいからだ。

肉に刃を立てるのが気分的にどうも滅入って。

田舎のおじいちゃんが離れの軒下にニワトリを3羽くらい吊るすのは、年末の恒例だった。

断末魔に悶えるニワトリは、やがて静かになる。

親戚一同が集うお正月、みんなで大皿の甘辛い筑前煮を頂くのだけど、生命を食すという覚悟は知るべきだ。

「おばあちゃん、この小さい卵、なあに?」

筑前煮の中にはいつも小さな卵の黄身があった。大きな鍋に1個か2個しかないそれは、親戚の子同士で取り合いになる。

「子宮の卵だよ」
「しきゅう?」

身体の仕組みを知れば、それもまた一つの生命だったのだ。
食べたことを後悔し、食べることを躊躇するのは、いつになっても覚悟が足りないからなんだろう。

「旨い。おかわりしたいくらい」
「私の、箸つけちゃったけど、食べますか?」

誰にも必要とされないと思う自分がこわいので、一生懸命がんばってはいるけれど、ときどき気が抜けて、
(あー、私じゃなくてよかったんだ)
と思うクセがある。

クセは勝手に思考を進める。

私は必要じゃないんだ価値がないんだ
生きる価値もない人間だよね
誰かの生命を奪ってまで
食べる価値も資格もない
食べちゃいけない食欲ないから
いいの、いいの
勧めてくれなくていいんだよ
だって食べる価値ないもん
だから要らない

「だめだよ、ちゃんと食べないと」
「そうでした」

その文脈がおかしな所に流れているのは大いに自覚しているので、普段はちゃんと食べる。
体力も欲しいし、もう少し女性らしい身体つきにもなりたいな。

「お向かいの中学生の娘ちゃん、胸を大きくしたくて毎日頑張って豆乳を飲んでるそうです」
「そりゃかわいいな」

ふふ……ほんと。かわいいの
豆乳、私にも効くかな
今からでも間に合うかな

食にはあんまり執着しないので、あれば食べるし、無きゃ食べない。

残すのは失礼かなと思うから、目の前に出されたものは最後まで綺麗に食べる。

ちゃんと味わって食べてるよ?
だから納豆はちょっと苦手なアイテムだったりする。

今朝は彼が鮭の切り身を焼いてくれた。相変わらず魚を綺麗に食べる人だ。

「いっそ、骨まで食べたらどうでしょう」
「勘弁してよ」

こ彼と初めて一緒に食事したのも煮魚定食だった。
いつかの帰り道に立ち寄った定食屋さん。
食べ終わりには、お皿の隅に魚の骨と目玉を寄せて、割り箸を元のサヤに戻す。その先を斜めに折り曲げてお盆に置いて、ごちそうさま、だって。

感心した。
うわー
ちゃんとお母さんが躾けてくれたんだなー
だってこの人仕事が続かないので、だらしないかと思ってた。

お墓まいりについていったことがある。

「親戚?」
「友だち。」
「仲良かったんですね」
「まあ」

高校在学中に校則で禁止されてたのに車の免許とって、親の車に友達乗っけて事故起こして、学校行くのをやめてしまったそうだ。

「オレはヒト殺しだから」

音楽好きって言うから、へえ。誰が好き?って聞いたらトムウェイツとフェアグランドアトラクションって言うから、あ、ちょっとおもしろい人かもって、そしたらうっかり過去の話まで掘り起こしてしまって。

少し後悔している。

「そのお皿、きっとネコも見向きしませんね」
「だろな」

笑ってみせながら表情を伺った。
私も自分の過ちを、いつかこの人に告白する日が来るのだろうか、と。

でも言うべきことじゃない。

所作を意識しながら残りの鮭を口に運ぶ。

「そういえば、前にデートでイタリアンの店連れてってくれた年上の人がいて」
「へえ」
「私たちは定食屋さんでよかったんです。ミスチョイスしようがない」
「ダメ出し食らったの? どっちが?」

ふふ……
デートは所作だけじゃない。メニューのチョイスも重要だ。

「その人、イカスミのパスタ頼んじゃったんです。ニーって笑うとお歯黒」

その時のニーって笑い方を真似して口角を広げてみせた。
もー無理、お歯黒とはチューできないなんて、そこはさすがに伏せておこう。
ミスをギャグに変換する器量なんてとてもとても。

「初デートでイカスミ。これ絶対やめといた方がいいですよ」

「じゃあ今日、イカ1杯買って来ようよ。もう初デートじゃないし。」
「いっぱい?たくさん?」
「1杯2杯って数えない?」
「私、イカ捌けませんよ」

だから無理なのだ。イカの調理でヒトの上半身と下半身が切り離される連想をするから。

「オレがやるから大丈夫だって」
「へえ。そんな特技が」
「魚は任せろ。自分で作る塩辛旨いよ」
「火星人の塩辛…」
「イカで火星人言ってたら、タコはどうなる。知ってるか?心臓3つに脳が9つ」
「M78…」

買い物から帰ると早々彼は台所に立ち、まな板にイカを載せて作業を始めた。

「見ててもいいですか?」
「やってみたい?」
「むりむりむり」

イカの胴の中に左の親指を入れ、右手で足を引っ張っている。

「うわーーーイタイイタイイタイ……」
「うるせ」

奇声に構わず作業は進む。
スポンとあっけなくイカの耳と足が離れたところで、皮を一気に剥いでいく。

ベロベロベローっと簡単そうに見えるけど、海の中で皮の剥がれたイカが泳ぐなんて聞いたことない。
剥き始める箇所や向き、包丁を入れるポイントをちゃんと知っているんだな。

「すごーい」

やがて丸裸にされた真白い本体の塊をペチョンと横に置き、足が調理される番だ。
こっちは相当グロい。艶めかしい足10本に何やらくっ付いて。でも指の隙間からちゃっかりグロいものを見ている。

「こわくないですか?」
「今、話しかけるな。墨の袋が破れたらめんどくさいことになる」

袋は小さいけど、あの容赦なくお歯黒にしちゃう墨は、破くとあちこちに被害が及ぶそうだ。

「よし。あとは、肝と足を切り離す」

内臓を足にくっつけてる火星人みたいな生命体。イカの大きな耳って何だったの。帽子なの。

「目玉も取らなきゃ。やる?」
「えー」
「目玉潰したら飛び散るぞ?」
「きゃー、やだやだやんない」

仕方ないなあ、と初めから分かりきってる私の答を笑う。
水を張ったボウルの中に、ぽちゃん…ぽちゃんと二つ、イカの目玉が沈んだ。

「ここがクチバシ。あとで炙って食わせてやるよ。さて、下ごしらえ完成だ。どうする?ここまできたらスーパーで買うのと変わんないからもう怖くないだろ?」
「最後までお願いします」

面倒そうに一瞥をくれたけど、分かってるよ。本当は自分で最後まで作りたいくせに。

「何食べたい? 今ならイカスミのパスタもできるよ」
「塩辛じゃないんですか?」

塩辛になる肝は、塩を馴染ませて一晩かけて水分を取るのだそうだ。おつまみはお預けになった。

今夜のご馳走は、新鮮なイカのお刺身。
あと、ミョウガを刻んで添えた。まだまだミョウガはたくさんある。

「イカ刺しだけなら買って食べてもあんま変わらないか。むしろ手間かかる」
「そんなことないですよ? おいしい」
「だな。やっぱ旨い。明日は塩辛だ。すり鉢くらいあんだろ?」

頷きながら、今夜も泊まるのかなとぼんやり考えていた。すると目の前に炙ったクチバシがやってきた。

私は笑って首を横に振る。一つの個体に一つだけの小さいクチは今、彼の口の中でコリコリと音を立てている。

楽しいことが続くほどに、終わりが虚しくなるのを知っている。小さなダメージで済むように、楽しい時間も短い方がほっとするのに。

時々欲を封印するようなストイックごっこにハマる。

肉食やめよう、3ヶ月くらい…「くらい」ってアバウトな信念だけど、やめた時期があった。せいぜい肉と魚と卵くらいを。

思想のない即席ベジタリアンだから、細かいとこ気にしない。
家では肉なし。外食で野菜炒めに肉入ってたら肉を極力よける。それだけ。

でもでも、大発見した。

宮沢賢治の「雨ニモマケズ」で、1日4合の玄米を食べるクダリ、そこ、質素じゃないなあ、ヤケに食べっぷりいいじゃんってしっくりこなかったけど、自分が肉を抜いたら分かる。

身体がタンパク質を補おうとするのか、ごはんを食べる量がじわじわ増えていく。
なんとこの私でも1食で1合2合がぺろりだなんて。

だから宮沢賢治の1日4合は、農作業する彼にとって充分質素なのだ。働く為の重みなのだ。

飛脚は握り飯と沢庵だけで駆け回っていたらしい。
それを見た南蛮人が飛脚に肉を食べさせたらヘタれたのだとか。

お米は日本人の基本だね。

戦時中の、ごはんに芋とか大根とか混ぜていた時代のその空腹感と惨めさは、なおの事だ。

感謝してちゃんと食べよう。

・・・・・

お母さんが言っていた。

給食で好き嫌いする子は、お友だち関係でも好き嫌いが多いらしい。

だから母は、食べず嫌いで残す前にまず一口だけ食べてみて? と促すそうだ。
30年もよそのお宅の子どもたちを見つめてきた目は、さぞいろんな角度から観察できることだろう。

私なら大丈夫、好き嫌い言わない良い子だ。イカだって、スルメだって嫌いじゃない。納豆だけは……ごめんなさい。

確かに生きていると、いろんな出会いがあったなあ。苦手と思っていても、噛めば噛むほど味の出る人もいる。お世話になった人もたくさん。

中でも恩師のクライブ先生には、本当に可愛がってもらってたと思う。
先生が教えてくれるいろんな世界は雲の上を覗くようで、無知な私にはまぶしかった。

小さな劇団で、音響の経験をさせてもらえたこともある。
でもロックやジャズとは勝手の違う舞台音楽の編曲に早速行き詰まり、一向に作業が進まない。
呆れた先生は、これでも聴いて参考にすれば?と、映画ニューシネマパラダイスのサントラ盤を置いて、誰もいない夜中の研究室に私を1人残し、本当に先に帰ってしまった。

やばい、見捨てられる。
役立たずと思われたくなくて、縋るようにそのCDを聴きまくり、やがて神さま降臨、頭にオーケストラサウンドの色や形を描くことに成功し、一晩かけて木管サウンドを丸パクしたという、あー、著作権協会から封筒が届かなくて本当によかった。

先生はいろんな人を紹介してくれた。
ロシア人ピアニストのアランを囲んだホームディナーに招待してもらった時は、みんな英語で談笑。会話レベルがThis is a penの私は無口になる。

気を使ったのか、アランが突然ギョウザとシュウマイの違いは何だ、みたいな質問を振ってきて、慌てた私は

「ギョウザとシュウマイはブラザーだ! たぶんシュウマイが弟だ!」

とヘンテコな英語で叫んでいた。
そしたらアランなんて

「オー、ミンナ聞イタカ? コイツjoke言ッテルヨ」

と大笑いだ。

先生に、シャンパンとコース料理をご馳走して戴いたこともある。
とある帰り道の海沿いの素敵なレストランの、海風の通り抜けるオープンな景色はいいけれど、テーブルマナーなんて分かんない。私みたいな小娘が行ける店じゃないのに、ニコニコとひとつひとつ教えてくれて。
緊張してフォークを床に落としてギャルソンがにっこり取り替えてくれたのも、気が引けて仕方なかった。

青カビの生えたチーズの味を教えてくれたのも先生だ。
ほんの少しだけ舌が痺れる。恐るおそる歯で押し潰すと広がる甘み、それはミルクから醸成された長い時間を偲ばせる香りで、私はワインの味もまだよく分かってない歳だった。

マイフェアレディのミュージカルばりの毎日に、すっかり浮かれて舞い上がっていたのだ。

普通に生活していたら決して手の届かなかったものを、田舎者の私にレクチャーしてくれる。
それはそれは本当におとぎ話みたいで。

先生がニューヨークに行った時はもちろん貯金をはたいて追っかけた。

R.I.Pと名乗る、マンハッタンのコンドミニアムに住んでるアーティストを交えてみんなで賑やかにでっかいピザ食べて

ドレスコードあるから、なーんて5番街で服買ってくれて、オペラ、ミュージカル、ライブハウス、いっぱいあちこち連れて行ってもらって

セントラルパークで甘いアイスクリームを手にベンチに腰掛けようとしたら、陽気なおばちゃんが

「オー、アナタタチ、ソコ、ペンキヌリタテッテ貼ってアルワヨ」

そしたら本当に張り紙があるじゃない? 二人で目を合わせてケラケラ笑って

エピソードが次から次へと溢れてくる。
もう楽しくて楽しくて
舞い上がって
ハイソサエティーの仲間入りができたと完全に勘違いしてしまった私は

間違ってしまった。

「僕の家庭を壊そうと思えばできたのに、そうしなかったことに感謝している」

白々しい言葉と

「体調悪いみたい、大丈夫?」

何も知らないチャーミングな奥さまのピュアな気遣いと

私の部屋に置かれた30万円の大金が入った紙袋

身分違いの恋とかって
今の若い子も憧れるのかな

ずっと私は良い子のはずだった。

良い子?どこが?

全身麻酔かけられて、気を失うまで手のひらグーパーして生きてる感覚にしがみつきながらも、涙が零れる感覚はあった。

それが「ごめんね」ではなく、自分自身に対してなものだから

これほど無様なことがあるのかと

あぶくのように消えて無くなった楽しい日々と同じように

らせんに延びる食物連鎖のクサリにしがみつく手を、ゆっくりパーに開いて

……ああ、またちょっとしたきっかけで、いつもの流れが始まるのだ。

生きる価値もない人間だよね
食べちゃいけない
だって食べる価値ないもん
だから要らない

ニワトリの小さな卵をためらったところで、何の懺悔にもならないというのに。

「またトリップしてるだろ。箸が止まってる。まだ刺身、残ってるよ」
「あ、ごめんなさい、お腹いっぱいに」
「イカって実は嫌いだった?」
「嫌いじゃないです」
「『『嫌いじゃない』は『好き』ってことにならないよ」
「え?」
「塩辛は? 好き? 嫌い?」

でも同情ひきたいわけじゃないから、がんばって食べる。

「嫌いじゃないですよ」

生きてる以上は食べなきゃだし、
前に拒食で周りに迷惑かけたので。

同じものを同じ感覚で食べられる人と、
分け合って、
おいしいねって、
明日も食べたいねって、

私の望みは至ってシンプルで。
だけどとても難しい。

翌朝、私より先に起きた彼が、既に出来上がったイカの塩辛を小鉢二つに盛っているところだ。台所もすっかり片付いてすり鉢とすりこぎも伏せられている。

「久しぶりに作ったけど、やっぱ旨い」
「あー、つまみ食いしましたね」
「共犯。ほら」

私の口に放り込まれた。

「うわー、イカの味がすごい濃厚」
「どう? 好き? 嫌い? 『嫌いじゃない』はもう禁止」
「そんな。厳しくないですか?」
「じゃあ酒、買ってくる」
「朝から飲むんですか」
「どっちか言わせないと気が済まない。それにお前」
「はい……」
「本当に旨いもん、まだ食ったことないんだよ。」

彼は財布を掴み、ドアの手前でニヤリと笑った。

「教えてやっから、待ってろ」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?