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無名の陸上新人大会「瞬間ハレイション」

カンタくん、鬼になってー

保育園で迎えを待つ時間、僕らは園庭でよく鬼ごっこをした。
迎えの遅いメンバーはいつも決まっていて、僕以外みんな女子。

いいよー

気前よく鬼になり、キャーキャー逃げる女子たちの後ろを追いかけ回していたら、先生がクスクス笑っている。

せんせーもやる?

先生は僕の問いを最後まで聞かず走り出した。
慌てて僕も続いて園庭を抜け出すとモノクロの広い砂浜。一つに束ねた長い髪を揺らして走る一人の女が向こうにいる。
先生、じゃないのか。じゃあ誰?
立ちすくむと、うす紅の頬が誘った。

つかまえて……

リズミカルに波打つ長い髪が、縦に揺れて手招きする。千里浜のどこまでも真っ直ぐ続く砂浜を、僕はもう一度駆け出した。
笑い声までスローモーション、陸上部(リクブ)の僕がそのスピードに追いつけないのはなぜ。湿った砂浜に裸足がめり込み、思わず手を伸ばす。

待って……もう少しなのに、あと少し……もう少し……

「おい、カンタ。寝てんじゃねーよ。緊張しろ」

デカい木村のデカい声で目を覚まし、テントの外に這い出てみる。

雨?

ついさっきまで明るく照らされていたはずなのに、競技場が翳っている。音もなく降る霧雨のせいで、モノクロの夢の続きみたいな気もした。
志水市中学校新人陸上競技大会、二日目。ここは千里浜ではなく、市営陸上競技場だ。

開場前からミーティング、そのあとのテント設営がひと段落し、ついうとうとしてしまっていた。朝5時起きなんて慣れてないし、昨夜もなかなか眠れなかったんだ。

「ちゃんと緊張してるよ」

朝ごはん用の包みを開き、おにぎりにかぶりつく。トラック脇の芝生からまばらな客席を見上げた。ブルっと震えたのは武者震いじゃない。きっと、霧雨のせいだ。

「カンタ、今日は泣くなよ」

通り過ぎる高山の、ふざけた口元を睨む。

うっぜー。
水筒の水をゴクリと流し込むと、高山と真逆の客席へ軽くホップしながら向かった。
僕だって昨日の110mH(ハードル)は初めて決勝まで進んだんだよ。

予選は自己ベスト、しかもタイムは1、2年合わせて5位で通過。
決勝でまた自己ベスト出せば絶対、いけるって。
女子の決勝が終わってハードルの高さがガシャンガシャンと二目盛高く上げられたら、男の番。否が応でも気合いが入った。
    
むしろ入り過ぎて決勝1台目のハードルにスパイクを引っ掛け、いきなり転倒。助走し直しやっと全部飛び越えた孤独なゴールで、悔しくて悔しくて涙が噴き出したあの気持ちを、誰にも茶化されたくはない。

そもそも大会はまだ終わってない。フィールドが賑やかになってきた。高跳びと砲丸が始まりそうだ。
ふと転倒で捻った右足首が、何か言いたげに疼いた。

今日の出番は4×100mリレーの予選だ。 走順は中田先輩、堀、僕、そして藤堂先輩。

メンツに2年と僕ら1年が混じっているのは、人数が足りてないからだ。競技場に一番近い学校なのに、サッカーに偏って、陸上部員は少ない。
昨日1500を走り切った堀が声をかけてきた。

「アップするぞ」

眼鏡の堀は小学校からの友達で、ラーメンの話題になる度に、
ラーメン? つけ麺?
と古いギャグで詰め寄り、僕の口から
僕イケメン
と言わせようと企むひどくふざけた男だが、今だけは眼鏡がひどく真面目に見える。

「先輩たちは? 今日くらい4人揃って練習するのがいいんじゃねーの?」

いくらリレーが本命じゃなくたってさ。特に中田先輩なんて俊足で実はすごい人だと思っているけど、練習サボってばっかりだ。
あっちからは当の中田先輩と藤堂先輩がバトンをかざして悠々と歩いてきた。

「先輩、他の学校はバトンパス練習してますよ?」
「やりたいやつがやればいいんじゃね?」

そんなもんかな、とバッグを開きスパイクの巾着袋を取り出した。

既に履き替えている他校のチームが、ペンギンみたいにペタペタ前を横切っていく。スパイクのピンがアスファルトで折れないように、爪先を浮かせて歩くんだ。足を挿しこみ紐をキューっと引き締め甲に合わせて結べば、僕もペンギン。走る以外の機能まるでなしの窮屈なアイテム。

「スパイク見せてねー」

このスパイクを見に、やってきたのは審判員。確認してもらおうと脱ぎかけたらゆるゆるっと言う。

「履いたままでいいよー」

面倒なのはお互いさま。だったら遠慮なく、と言われた通り中田先輩、堀、僕、藤堂先輩が順に足を持ち上げ靴底を見せる。

「あれ? このピンダメだ。君、失格」

えー?
全然緩くない宣告に僕らはそれぞれ顔を見合わせ、ゆっくりと視線を藤堂先輩に集める。
7mmと8mmのわずかな長さ違いを瞬時に見抜く審判員にも驚きだが、初心者じゃあるまいし2年にもなってそんな凡ミスをする藤堂先輩が、信じられなかった。
先輩は頭をかきながら、母ちゃんに怒られるな、と脱いだスパイクをバッグに押し込み、とっとと帰ってしまった。

「リレーは、棄権?…ってことっすか?」

今日は一日見学だけかと、残された僕らはヘラヘラ笑い、士気を急降下させていく。グラウンド0まで墜落寸前に顧問が連れてきたのは、午後からのレース、3000m競歩という、よりによって短距離100mから程遠い種目にエントリーしている細川だ。気のいい細川はニコニコしている。本人、意外と嬉しそうなのが救いだ。

「参加することに意義がある」

走順は変更。中田先輩、堀、細川、そしてアンカー僕の即席チームは、顧問が上手いこと言い訳を用意してくれたおかげで怖いもの無しとなり、これがなんとギリ決勝に残ってしまっていた。ラ…ラッキー?

霧雨は続き、観客席にはちらほらと傘が開き始めていた。

細川の3000ウォークが終盤。先頭の選手にラスト一周の鐘が鳴る。
入部早々競歩特有のフォームを掴んだ細川は、レースも出だし好調だったが、試合慣れした2年生選手にぬるり、ぬるりと抜かされる。
短距離走者の怒涛の疾走感とは対照的。追い越される瞬間が、ぬるりと撫でられているようにしか見えてこない。
細川、頼む、もういいから走ってくれ、と言いたくなるほど競歩には忍耐が必要だ。もちろんそんなことすれば一発で失格、僕向きじゃないんだなと腕を組んでウンウン頷く。

力を出し切った細川は5位でゴールに倒れ込んだ。二年に混じって大健闘じゃないか。観客席で弁当をかきこみながら堀と目で会話した。

「で、リレーの決勝このあとだぞ? 細川には酷じゃね?」
「ありゃ足ガクガクだ。無理だろな」

その隙にヒマな木村が僕の冷却スプレーをかしゃかしゃ振っている。

「勝手に使うなよ」
「いいや、カンタの唐揚げが捻挫している」
「は? ふざけんな、唐揚げが捻挫するか」

大事な弁当にスプレー噴射されるのを必死で阻止していると、帰ったはずの藤堂先輩がちゃっかり戻ってきた。
モノクロの空にかざしたツルツル真っ赤なスパイクが、雨に濡れてさらに艶を増す。眩しくて僕らは思わず拍手した。

トラック脇の芝生にバッグを置く。決勝前の緊張感をリレーメンバー4人で雑談してやり過ごしていた。引退した3年の先輩が来てたぞ、とか、明誠のイバンはバケモンだ、とか、大越が砲丸ぶっつけ本番で入賞、とか。
その時アナウンスが耳に入った。

「次のトラック競技、1、2年共通男子400mリレーの決勝開始は7分後となります。選手のみなさんは雨に濡れない場所で待機してください」

屋根の下に逃げるなんて走る前から負けたも同然。事実、見回しても誰一人避難する気配はなく、雨に止んでほしいと願う空気すらなかった。
みんな、スタートだけを待つ。

やがて4人は走順に分かれ、他校と合流。4箇所のスタート地点にそれぞれ誘導されていく。

「カンタ。アンカーは任せろ」

藤堂先輩は僕の肩を叩き、振り向きもせず100m先のスタート地点へ向かった。

霧雨は凄んでいる。じっとしてるとこの重い湿度に潰されそうで、軽くジャンプした。それでも手足が本当に自分のものなのかおぼつかない。
肩を大きく回し腕を伸ばす。両腕を振っては身体に巻きつけたり、僕は僕を確かめるのに躍起となった。いつもは目立つのがあれで、あんまあからさまには動かないんだった。

「ファイトー!」

たまに女子の歓声が観客席から湿ったグランドを突き抜けていく。

これから始まる勝ち目のない勝負。先生、本当に参加することが意義なのか?
新人戦の晴れ舞台は晴れてねーし、雨だし。僕はハードルで派手に転ぶし、藤堂先輩だって。

テイクオーバーゾーンの入り口に立ち、スタートダッシュをイメージして軽く慣らす。
リレーのバトンパスを行う区間、テイクオーバーゾーンは30m。極端な話、力尽きた第一走者のバトンを90m地点でもぎ取って第二走者が110m走るのもゾーン内ならアリだ。
ただしゾーンの外でバトンを渡すと容赦なく失格が待っている。

失格のトラップはあちこちに仕掛けてある。たった一度のフライングでレッド。リレーのスタートでしくじってみろ、チーム全体に迷惑をかける。そういうのが苦手で個人競技の陸上を選んだのに、まさかまさかのチームプレイやらされるなんてな。

アンカーは任せろ、か。
先輩かっけーよ。スパイクのピン、ミスったのも帳消しだ。
    
そのアンカーにバトンを託す僕は8の数字を踏んだ。
一番外側のレーンが好きだ。人に依るだろうけど、僕は走る前から先頭に立てる8レーンが気に入っている。決勝、意外と奇跡が起きるかもしれない。8は無限大だというじゃないか。

1レーン、王子中学校、花田くん、鳥野くん、風谷くん、月地くん

決勝にエントリーした学校と選手の名前が紹介される。アナウンスのたびに、それぞれの学校を応援する歓声が上がる。

2レーン、不動中学校、東くん、西くん、…

どこの学校も女子部員たちが順に声を上げるので、僕も8番目の黄色い歓声をほんの少し期待していた。

8レーン、本丸中学校、

まばらな拍手を補って雨足が強まる。うちの陸上部『リクブ)は女子みんなおとなしいからな。でも応援してくれている。そう思わないと、やってられない。

(第1走者、サボり常習)中田くん
(第2走者、長距離専門)堀くん
(第3走者、無名の新人)カンタくん
(第4走者、キラキラスパイク)藤堂くん

1分でケリがつく、あっけない勝負だ、さあこい。


    

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静まる観客


set


緊張マックス


BANG!

BANG !

ピストルが続けて鳴る。
ただ今のスタートは不正なのか? 誰だよ、まさか…

提示されたのはグリーンカードだった。
びびったー。何なんだよ、やれやれだぜ。

息を吐き無理矢理酸素を吸い込んだ。
頭は真っ白にならない。複雑な話じゃないにしても、いろいろが次々に流れ込んでくる。第2走者のゾーンで明誠のイバンがジャンプしたのが見えた。あのスパイク、バネついてね? 日本人離れしているから特に目立つ。アイツ100m決勝で11秒を叩き出したよ。僕がハードル決勝で転倒し、泣いていたすぐあとのレースで。
堀、頼むからビビるなよ。

    

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再び静まる観客

「よーいどん」という掛け声を、「はっけよーいどん」と小二まで思い込んでいた。


set


あの時みんなの前で「はっけよーい」とからかって、さんざん笑ってくれたよなっ! 堀!
さあこい!


BANG!


ついにスタートした。
中田先輩から3位で渡ったバトンが、みるみる抜かされていく。圧倒的に速い明誠のイバンがサバンナの風を連れて真っ先に駆け抜けた。大丈夫だ、堀、ここだ! 僕にバトン、持ってこい!

堀がくる。僕もスタートを切る。最下位なのは知っている。むしろ予選通過したのが不思議。練習不足でアンダーパスがおぼつかない。だけど決勝出場メンバーとして恥ずかしくない走りを、僕は!

僕も最後のテイクオーバーゾーンに入っていく。
アンカーの藤堂先輩は加速する。

はいっ

バトンを渡そうと手を伸ばす。
でも藤堂先輩の助走が異様に速く、スピードを緩める気配がない。
先輩届かないよ、ゾーン30mでバトンを渡さないと失格なんだ!

待って、もう少し、あと少し、あと少しで捕まえないと、でも届きそうで届かない、なんだ、このもどかしい既視感は!

捕まえて……

モノクロに煙る霧雨の中を、今朝の夢の長い髪の女がスローモーションで駆けている。やんわり髪を揺らすあの後ろ姿が僕の前で妖しく跳ねる。

誰?……
待って……

濡れた走路は慣れていない。千里浜みたいで足が重い。
すると甘ったるいキンモクセイの匂いが爪先から頭に一瞬で突き抜け、一ときの白日夢が醒めた。

目の前の現実は、雨で貼りついた藤堂先輩のユニフォーム。
負けじと顔が熱くなる。
先輩は振り向かない。
僕はもっと腕を振り、もっと腿を上げ、大地を蹴り、ただ追いつくためだけに走る。走る。走るほどに身体も思考も研ぎ澄まされていく、今できる最高のパフォーマンスで。

僕と藤堂先輩を隔てた薄暗い霧雨のカーテンをバリバリと掻き分け蹴破った瞬間、太陽がズパッと競技場を照らした。

「はいっ!」

右手からバトンが離れたのはゾーン出口、30mギリセーフ。両膝に手をつき肩で息をしながら、先輩のゴールを見届けた。
まさかの7位入賞だとは。
その場で小さくガッツポーズをした。

レース後、バッグの中の冷却スプレーは空っぽだった。どうせ木村だろ? ペンギン歩きの僕はペンギン歩きの堀にグチをこぼす。貼り出された記録を見に行くのだ。
するとまた雨が降り始めた。あーうぜー。足首痛いし。閉会式まで暇だし。

ただ分かったこともある。参加することだけが意義じゃなかった。

なーんて言ってしまうと、キミキミよく分かったね、それこそが達成感なんだよねとか、大人は嬉しそうに語るんだろうか。

そういうの、
なんかつまんねーの。

「カンタ、ラストの30m、特に頑張ってたね」

振り向くと我が陸上部(リクブ)女子の星、奥野。

「見てくれてたんだ」
「そりゃそうでしょ」

ポニーテールのゴムをほどいてぶるぶるんと濡れた黒髪を揺らした。
へえ、こいつ髪、長い。

「やっぱ最高のパフォーマンスを観客に見てもらいたいって思うよな」
「そんなこと言う?」

ユニフォームの奥野はクスッと笑うと器用に結び直した黒髪を揺らし、霧雨の中を駆けていった。
堀がまたまた「ラーメン?」と言い出したのを放置して、僕はぶるっとひとつ武者震いすると、水たまりを避けながらペタペタ追いかけることにした。

捕まえて……

濡れた髪にそう呼ばれた気がしたからだ。



    


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