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凡庸な悪

向精神薬を服用し始めて9年近くになる。自立支援医療を申請して4年ほどが過ぎた。服薬が長期になるならもっと前から申請しておけばよかったと思ったりしたが、主治医も「そういえば申請してなかったっけ」とどうでもいいような口ぶりで、実のところ自分もどうでもよかったのだが。

しかしながら、診断名がついて、いよいよ自立支援医療受給者証というものを手にすると、社会的に障害を持った人として規定されているような意識になるのは妙なものだ。

色々な属性が社会から与えられて自分という存在が形成されていくことを改めて知ることとなった。

自分としては属性がなんであろうと「自分」と「自分がとらえる自分」には1ミリのずれもない対自としての存在であったのだが。

何ら変わらないという気持ちがあったからホームページに書いて公開した。PV数などほんの微々たる数で誰も見る人などいないと高を括っていたのだが、ネット社会とは恐ろしいもので、回りに見つける人がいるものだ。(それがネット社会なのだが)

とある人が私のHPで精神疾患の部分を見つけて周りの何人かに「ほら!これ!この人これ!」と、印刷までしてその事実を伝えたらしい。その後、私の言動に対して「ほらね、あの人あれだから」と陰口をささやかれたりする。

この時初めて「差別と偏見」ということを我がこととして経験した。

あ、これか・・・

他者の認識とのずれを感じた。対他としての存在が生じた。他者から認識されるその仕方で己の在り方もまた変わっていく。であれば己を形成するのは自分であるのか、他者であるのか?さながらフルメタルジャケットである。

目を背けたくなるようなおぞましい、人間の根源的な悪というにはほど遠いあまりにも凡庸などこにでもある「悪」である。

「凡庸な悪」とは言わずと知れたハンナ・アーレントの言葉である。

もちろん差別や偏見には長く重く深い歴史があり、それらにより不条理にも苦しめられてきた多くの人々がいたこと、そして今でも苦しみ虐げられている人々がいることに向き合わねばならない。私の陰口など差別の内にも入らない。

ただ、もしかしたら一人一人の心の様相を探れば、実はその根底にあるのは凡庸な悪、あまりの軽さに見過ごされ、しかしほんの微かに快感が生じるような悪なのかもしれない。軽く凡庸な悪ほど蔓延し、微かに感じる快感だからこそ感染力は強い。厄介なことに感染しているという病識は誰も持たない。

凡庸であるがゆえに蔓延する悪は、人の心に深く静かに蓄積しやがて社会のどこかほんの小さな亀裂からある時、マグマのように噴き出す。ホロコーストは言うに及ばず、津久井やまゆり園事件しかり、障害者グループホーム反対運動しかり。

全て私たち一人一人が持つ凡庸な悪の集積が産み出す事象である。


  

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