RAIN SONG


 気の良い悪友とその日暮らしをするのは悪くなかった。
 金が無くなれば、街にいるその辺のガキ、サラリーマンをカツアゲし、酔っ払って道端で寝ているオッサンから置き引きするなんて当たり前。
 クラブで気に入った女を、ラブホに連れ込んで一夜を過ごすなんてざらにある。
 自分達のルールは、

 ・奪う、殴る、犯《や》る
 ・ナチュラルハイで楽しむから薬物は禁止。
 ・犯罪行為をしている訳だから、顔バレしない様にバンダナは必須。

 と、こんなもんでいたってシンプル。
 薬物に手を出して、人生終わったヤツは沢山見てきた。そんなヤツが薬物欲しさに、金を貸してくれとせがんできた事もある。
 こんな風に人生は詰みたくない。オレのやってる事もかなりクソだが、ナチュラルにクソの方が断然カッコいいと思った。

 いつも二、三人で行動している。
 これ以上群れるのもダセえと思った。
 だから基本的に群れても二、三人。
 このほうが行動しやすい。色々やるんだったらコストが低い方が回りが効くんじゃねぇかって。
 実際行動しやすいし。
 特に置き引きは一番いい。分担で事を運ぶ。

 一人目はバッグを盗む。
 二人目は待機している場所からバッグを受け取り逃げる。
 三人目は、所定された人気の無い路地裏にて待機。二人目から受け取り、ここで先回りしていた一人目と合流する。
 要は流れ作業みたいなものだ。
 
 んで、三人で均等に分ける。
 そしてまた、獲物を探す。
 これを二、三回繰り返せば良い金になるし、盗んだ高額そうな物はネットオークションで売るか、質屋に売り飛ばす。ブランド物だったら、もしかすると良い値を出す事もあるし。
 でも一番足がつかないのはネットオークションで、商談成立すれば後は指定の口座に振り込んでもらい、物は丁寧《ていねい》に送る。その工程の前に盗品のチェックをしなければならない。傷が無いか、汚れてないか。メンドくさいって言っちゃメンドくさいんだが。
 足がつかない様に何個か口座も作った。いつでも閉ざせるように。

 悪さをするにもまるで職人の様に、頭を使い、知恵を働かさなくちゃいけない。だったら普通に働いている方がいいんじゃないか?と、思うが楽して金稼《かねかせ》ぐのも普通に働くも一緒だ。ただ、金額が違うだけ。今やっているほうが断然稼げる、ということだ。
 バレたら即逮捕。
 それでもこのやり方は刺激的で楽しかったりする。
 金が減ることが極力少なくて済む。
 逆に増える。
 多分、オレが一番この生活スタイルを楽しんでいるかもしれない。

 それに街はオレ達の庭の様なもんだ。無茶しなくて済むし、過ごしやすく悪さもしやすい。このやり方で捕まった事もない。
 とても良い環境だ。これが長く続くとオレは思っていた。


「よう、ミネタ。昨日はあれから何してたんだよ?」
 ゴンがいつもの時間の集合場所である駅から近い公園に現れた。大あくびしている。いつもこいつは夜遊びの度が過ぎている。クスリに手を出してなきゃいいが。
「金があったから女、クラブで引っかけてヤリまくった。久々だから燃えちゃってさぁ、もうドーパミン出まくりだぜ!」
 ミネタは自慢げに言う。最近、オレも女としていない。まぁ、その場のノリとかもあるだろうが。
「ヒデ、お前は?」
 さっき合流したばかりのオレにいつもの様に、ルーティンの如《ごと》く聞いてくるゴン。
「お前が期待してるほど、のことなんかねぇよ。フツーに帰って寝た。んで、今さっきここに来たばかり」
「んだよー、つまんねぇな。オレはスゲえの引っかけたぜ」
 ほっとけ、つまんねえは余計だ。そういう日だってある。ゴンは続ける。
「オレも女引っかけて朝までヤリまくったんだけどさぁ、女がシャワー行ってる間にカバンの中、物色したのよ。そしたら何が出てきたと思う?」
 まさか。
 オレは気づいた。
「学生証、女子高生。JKだよ、まさかのジェーケー。通《どお》りで二十一っていう割には幼く見えたんだよなぁ」
「マジかよ、いいなぁ」
 ミネタは煙草に火をつけ、話の内容に羨ましがる。
「だろ?一応さ、連絡先も交換してないし足はつかねぇって思ってはいるんだけどさ」
 いつものたわいも無い話。
 これがオレ達の日常だ。
 今日みたいに女の話だったり、武勇伝的な話だったり、金の話だったりそんなことばかりだ。
 時々夢を語ることもあるが、正直オレにはサッパリ。
 二人は酒の肴にし、漠然とした夢を語り、勝手に盛り上がりオレも同庁はするが、いざ考えてみると思い浮かばない。何になりたい訳でもない。今のこの生活スタイルで十分に満足しているはずなんだが、実際問題本当に良いのかといえば嘘になる。やはり何処《どこ》かで見切りを付けなければいけない日が来るはず。しかしこの生活に馴染《なじ》むと思考回路も鈍る。甘い物があればそれを追いかける。オレは獣と一緒だ
 夢を語れるヤツは本当にスゲーと思う。
 オレには何もないから。心からそう思う。

 しかし俺達は、社会から見たら犯罪予備軍の様な位置にいる。いや、もう犯罪者か。それでもいいと思う。夢なんてないし、その日暮らしが一番しょうに合う。
 くだらない話をしながら夜が段々と近づいてくる。
 クラブに行ったが今日は目星の付く女がいない。
 まぁ、平日って事もあるだろうから仕方がない。かといって今日はあまり呑みたい気分でもない。金には困っていないから今日は早々に帰ろうかと思った。
 クラブを出て、三人で裏に停めてあるワゴンに乗った。
 今日は収穫なしだったせいか、俺達は沈黙が続いた。
 が、ミネタが口火を切った。

「久々に・・・拉致《らち》って犯《や》る?」
 犯す、強姦《レイプ》する事。三人で回すのだから輪姦《りんかん》になるのか。
 過去に何度か、女を拉致って輪姦したことはある。
 それでも警察に捕まった事なんてない。散々女を脅し、拘束して、ヤリまくったら、目隠しさせ、その辺の公園に解放する。
 人通りの少ない、大体夜中の三時、四時あたりを目安にして。
「いいねぇ、最近やってないもんな」
 ゴンは乗り気だ。オレはどっちでも良かった。どちらにせよこの車はオレのだし、犯るんならオレの車だろう。
「んじゃあ、探しますか?」
 オレはハンドルを握った。
 
「おい、あれなんてどうだ?」
 ターゲットはすぐに見つかった。十代後半から二十代前半といったところか。来ている服もギャル系ではなく、どちらかというとカジュアルな方だ。目鼻立ちが整っていて、可愛い部類に入る。髪は黒髪ロング。スタイルも服の上からでも良くわかるほどの良さ。
 ちなみにこの辺は人通りが極めて少ない。拉致するには今しかなかった。
 オレを含め、全員顔バレしない様にバンダナを装着した。
 ゆっくりと車で女に横付けしていく。
 車のドアが開いて、女に躍《おど》りかかった

 とりあえずは成功。
 オレは人気の無い所にへ車を走らせる。バックミラー越しにゴンは女を羽交(はが)い絞めにしミネタは暴れない様に足をロープで拘束《こうそく》している。
 ゴンは女の口を押さえているが、女の悲鳴が漏れてくる。
「いいからじっとしてろ!そうでないと殺すぞ!」
「暴れんなって!どーせすぐに終わるんだからよ!」
 後部座席《こうぶざせき》から漏れてくる男の欲望。
 そして餌食《えじき》となってしまった女の恐怖。ひしひしと伝わってくる。これがいつものパターンだ。
 しばらく走らせて、街からだいぶ離れた。
 少し山道になってきて、この中腹《ちゅうふく》にある駐車場を目指した。
 
 駐車場に車を停める。
 オレは後部座席を見た。
 女は拘束されている。口にはガムテープ、目元は涙で無残だ。
 ゴンは女のカバンを物色し始める。ミネタはいやらしい顔をしながら、女の臀部を名で回している。
 
「おい、コイツ、お嬢様だぞ。女子大だからきっとチャンジョーだぜ!」
 学生証をオレに投げ渡すゴン。
 確かに、女子大学四年。女子大っていうだけでお嬢様っていうのもなんだかおかしいが。
 名前は、蓮池さくら。
 写真が印刷されている。やはり可愛い部類に入る顔立ち。
 今は涙でボロボロではあるが、整っている顔ではあると思う。
「どーする?順番」
 ミネタは急かす様に俺達に聞く。
「じゃんけんでいいんじゃね?」
 ゴンは何でもいいから早く犯りたいっていう感じだ。
 オレは拘束されている女に目が行きがちであった。
 それはとても妙な感覚だった。何かを見透かされているというか、脅(おび)えているのに透明感のあるその目。オレの心の中では違和感が踊り狂っている。
「オレは」
 口火を切る。
 注目する二人。
「オレは今日、パス」
 二人は目が点になっている。
 ミネタはオレの顔を覗き込む。
「シラけた事言うなって。フツーに楽しもうぜ。いつものことなんだからよ」
 ミネタは肩を叩く。
「それとも何か?こんな上物なのに勃《た》たねえのか?」
 必要以上に煽《あお》ってくるが関係なかった。何故か本当に乗り気になれなかった。
「悪い、本当に気分じゃねぇんだ。車、降りてるから勝手にやってくれ」
 ドアを開け、車から降りた。
 閉める瞬間に、ミネタとゴンがオレに向かって何か言っている声、そして女の叫びに似た声が聞こえた。
 女の声が耳にこびりつく。ドアを閉めた。
 バンダナを外し、懐《ふところ》からタバコを取り出し咥える。
 中の二人は目の前の獲物を楽しむため、もう興味は女に向かっていた。
 少しでも距離が取れる様に、車から離れた所にあるベンチまで行き腰かけた。
 あの女の目、何とも言えない衝動。今までこんな事はなかった。好き勝手にオレだってやってきたし、拉致った女を犯った事だってある。
 でも今回は違う。何かが違う。自分でもわからない。
 もしかして逃げているのか?
 あの女の目から?
 そんなはずはない、いつもやっていたことだ。何を今更。
 咥えたタバコに火を付けようとすると、手が震えているのに気付いた。
 何だ?そんなことあるはずないのに。
 車に目をやる。
 車はギシギシと上下に動いている。
 事は始まっていた。
 その光景を見て、胸が熱く締め付けられる感じがした。
 
 タバコを何本吸ったかわからない。フードを被り、ただ車のその光景を見ていた。
 ドアが開き、ゴンとミネタが満足そうに出てくる。そしてオレに近づいて来た。
「いやー、最高だったぜ。上玉だよ、上玉」
「本当だよな、久々に気持ちよかったわー。当たり引いたよな」
 二人は口々に犯った感想を言う。そしてオレに本当にお前、犯らないのか?って聞いてきた。その後の女が気になった。ゴンとミネタを無視して、車の後部座席に向かいドアを開いた。
 セックスした後の独特の匂いが鼻に突き刺さる。
 女は泣きながら服を着ようとしていたが、オレの姿を見るなり硬直した。
 相変わらず好き勝手にやっているおかげで、使用済みの避妊具があちらこちらに散乱している。
 オレはドアを閉めて、ゴンとミネタのところに向かった。
「おい、ちょっとここで休憩していてくれ」
「あ?何でよ?」
「あの女、捨ててくる。すぐに迎えに来る」
「こんな場所でかよ」
「おいおい、冗談キツイぜ」
「すぐだから。待っててくれ」
 二人は文句を言っていたが、何とか鎮めて待ってもらうことにした。
 オレはバンダナをして車に向かった。

 山道をを降りてすぐにある駅。
 もう電車はない。バックミラー越しに女を見る。服はもう着ている。
「降りろ」
 オレは振り向かずにサイドブレーキを入れる。女は無言だった。
「朝一《あさいち》には電車が来るはずだ。今日遭ったことは忘れろとは言えない。けど・・・・」
 言葉に詰まった。何て言えばいい?全然頭が回らない。何なんだ、本当に。
 オレらしくない夜だ。
 何とか振り絞った言葉が、
「悪かったな・・・」
 だった。
 バックミラー越しにに気付いた、女がオレの方を見ていることに。
 顔を伏せる。いくらバンダナをしているとはいえ条件反射だった。居ても立っても居られず、車から降りて後部座席のドアを開け、女を引きずり下ろした。
 そしてこう伝える。
「ナンバープレートなんか見んなよ。後ろ向いて三十数えろ。いいか?見なけりゃいいだけの話だ。こっちはお前を見ながら車に乗る。それ以降もお前が見ていないか確認しながら発進するから。わかったか?」
 女は素直に後ろを向き、震える声で数え始めた。
 オレはすぐさま車に乗り、その場を後にした。


 それからというもの、何かがオレの中でおかしくなった。今まで自分が自由気ままに過ごしてきた事を後悔し始めた。今までやってきた自分の行(おこな)い全て、後ろめたさを感じるようになった。
 ゴンとミネタ共に、疎遠になり始めた。いや、自分から距離を置いたというのが正しいのかもしれない。車もあの夜の女を思い出してしまうから売っぱらってしまった。夜の街に出ることが当たり前だったのにそれもなくなった。
 明らかにオレは、何かから逃げている。
 
 とりあえず売っぱらった車のはした金と、置き引きやカツアゲで手に入れた金、ネットオークションで手に入れた金などを使って別の街に引っ越すことにした。
 何とかギリギリ足りた。
 そしていくつかあった口座も全部閉じて新しく一つだけに作り直した。理由なんて何でも良かった。ただ何かが変わって環境を変えないといけないと思った。
長かった髪も切り、アルバイトを探し、力仕事でも何でもやり始めた。

それから一年経った。

オレは小さな塗装屋の社員になっていた給料も特別良い方ではないが、汗水流して働き、とにかくがむしゃらに働いた。自分でも知らない間にタバコをやめていた。
充実した毎日と言ったら嘘になるが、今までの荒(すさ)んだ生活に比べれば、それなりの生活スタイルが築けたとも思う。
面倒見のいい親方と、その職場仲間にも恵(めぐ)まれていた。
 よく飲みにも誘われ、働いた後の一杯は格別だった。
 
 しかし、どんなに浴びる様に飲み、職場仲間と楽しんで部屋に帰ってくると、オレは必ずあの衝動に駆られていく。あの夜の出来事が。それだけではなく、今まで自分が犯してきた罪が、波の様に押し寄せてくる。時々うなされて飛び起きる事もある。身体中脂汗(あぶらあせ)、
相当うなされていたに違いない。オレはその度に後悔し自分を悔やんだ。
 あの夜、ゴンとミネタを引きずり下ろしてでもあの女を助ける事が出来たはずなのに。何故出来なかった?悔やみきれないほど、心が潰されそうになっていく。
 何も出来なかった、何もしなかった己(おのれ)自身を呪った。
 所詮(しょせん)お前はその程度の、群れなければ何も出来ない男なんだと。心の中で誰かがそうやってオレに呪詛を吐く。
 オレは一生背負っていかなければならない。自分の過ちを。この苦しみは当たり前のことなんだと思う様にしたツケが回ってきたんだと。
 そして新しい朝が来たらまたいつもの様に現場に向かう。働いている時が唯一(ゆいいつ)忘れる事が出来る。これも逃げている証拠なのかもしれない。でも働かなければ、飯も食えない。だからがむしゃらに働く。
 そんな毎日が続いたある日のことだった。
 
 
「ヒデ坊! 今日はこのぐらいで上がろうや!」
「へーい!」
 この日はお客さんの事務所の外装(がいそう)塗装(とそう)の現場で、親方と一緒に作業をしていた。
 親方の掛け声で梯子から降り、後片付けをしている時に親方が今日、ウチに来ないか?と突然言ってきた。一旦会社に戻り、作業着から私服に着替えてたわいも無い話をしながら、親方と軽ワゴンに乗った。
 ちなみに職場仲間、社長含め誰の家にも行ったことはない。招待されたことはあったが、極力断っている。興味がない訳ではないし、せっかくの誘いなのも分かっているが、そこは上手く波風立てない様に断っていた。
 しかし親方の場合は断れなかった。いつもお世話になっているしオレ自身が尊敬しているからかもしれない。作業も親方から学び、一端(いっぱし)とまではいかないがちゃんと育ててくれたのはこの人だから。真摯(しんし)な職人魂の様なものを、身近に感じていたから断れなかったのかもしれない。
 ここに来て初めて、オレみたいなヤツを見放さないで、一人の人間としてみてくれた。社長や職場仲間に恩義(おんぎ)がない訳ではないが、親方だけは特別だった。
 
 
「さぁ、上がってくれ」
 親方の家は一軒家である事は前に聞いたことがある。
 しかし初めて外観(がいかん)を見たが、かなり立派な作りで豪邸とまではいかないが、本当に家なのか? と思ってしまうぐらいだ。
 確か財産分与で殆ど借金で消えてった中、家だけ残ったみたいな話をしていた事がある。普通なら家が先に競売掛けられそうな気もするが、家の所有物が高価な物ばかりだったそうで、それでチャラになったらしい。そうすると親方の父親は資産家だったかもしれない。税金が高くて困ると言っていたのはこの事だったのか。しかしますます親方のことが不思議に思う。資産家も子息であれば何で塗装屋なんてやっているのか?
 いや、詮索(せんさく)は止(よ)そう。オレだって訳ありの人間だ。失礼に値する。
「さぁさぁ、遠慮なんていらねぇから入ってくれ」
「お邪魔します」
 中に入ると木造でも日本家屋に似ている造りかもしれないと思った。
 そこまでオレは詳しくないから、只々(ただただ)スゴいと思うしかない。
 そして和室に通された。
 ここで疑問が生まれた。確か親方には離婚歴があり、現在はこの広い御自宅に一人住まいのはずだ。その割にはここまで来るまでに、隅々(すみずみ)までキレイに掃除が行き渡っていた。再婚相手の話も聞いてはいないし、明らかに職人男が一人で掃除している姿も想像がつかない。さぁ、楽にしてくれと促(うなが)され、そのまま座布団の上に座る。畳も埃がなく、キレイだ。
 おかしい。
「どら、ビールで乾杯するか。おーい!」
 やっぱり。誰か良い人を見つけたんだ。どうしてオレなのかわからないが、誰かに紹介したくてたまらないのか?
 親方は面倒見が良くて気さくな人だが、一方でシャイな一面もある。職場仲間に言えない事の一つや二つあるかもしれない。
 じゃあ何でオレ一人を呼んだんだ?
 でもそんなことを気にしても仕方がない。その親方が誰かに紹介なんて、意外に隅(すみ)に置けないな、なんて思っていた。
 襖(ふすま)が開いた瞬間、オレはその人が誰であるかすぐに分かってしまった。
 オレは知っている。あの夜を最後に、オレは足を洗った。それでも毎晩苦しんでいる。あの愚行(ぐこう)を働いてしまったその相手。
「持ってきたよ、何でいつもただいまって言ってくれないのよ」
「悪い悪い、さくら。一人が長かったし、つい癖でな」
 さくら。そうだ。さくらっていう名前だった。いや、でも親方の苗字は蓮池じゃないはず。
「紹介するよ、ウチの一人娘。さくらっていうんだ。別れた女房が半年前に亡くなってな。一人暮らしも良いと思ったんだが、一人娘だから心配でよ。今ウチで一緒に暮らしているんだ」
「蓮池さくらです。父がいつもお世話になっています」
 これは何だ、ツケなのか? やはりオレにはもう、普通の生活をするなって事なのか? それでも働いて自分の愚行を贖罪(しょくざい)する日々。足りないということなのか?いや、きっと足りないのだ。だから今こうして目の前に、あの時の彼女がいるのだ。
 さくらさんと目が合う。オレは慌てて顔を伏せた。
「おい、どーした?」
 親方の声にハッと我に返り、構え直し、自然な装いを繕(つくろ)った
「いえ、その、一人暮らしと聞いていたもんでびっくりしてしまって…………」
「言ってなかったもんな、まさかそんなに驚くとは思わなかったよ」
 親方は笑いながらさくらさんからビールの入ったグラスを受け取る。どうぞ、とオレにもグラスが渡される。
「とりあえず、お疲れさん」
 軽く乾杯した。
 オレは緊張(きんちょう)なのか分からない何とも言えない衝動に、ビールを一気に飲み干した。意外にも喉がカラカラだった。
「おぉ、いいねぇ。いい飲みっぷりだ」
 親方は飲み干したグラスにビールを注いでくれる。
「すみません」
「いやいや、久々にウチに人を呼んだからよ、嬉しくてしょうがねぇんだ」
 そんな風な会話をしているうちに、さくらさんが夕飯を運んできてくれた。
 驚いた事に見事な腕前としか言いようがない料理。
 オレは馬鹿だから料理がこんなに綺麗に作れるなんて思ってもみなかった。まるでプロだ。
 味も格別だった。天ぷら、刺身、サラダに米の炊き具合。何もかも美味しかった。
 久々に味わう誰かの手料理。一体何年ぶりだろうか。お口に合うといいんですが、と言っていたが謙遜(けんそん)も謙遜、こんなに美味しいとは。
「うまそうに食ってくれて、さくらも嬉しいだろ?」
「やめてよ、お父さん」
 そうだ、あまりにも料理が美味しいから完全に忘れてしまっていた。そもそもオレは何でここにいるんだ?まさかオレの事を知っている?そんな訳ない。顔が割れているはずがない。もし知っていたらただじゃ済まされない。ここで半殺しにされてもおかしくはない。
「なぁ、ヒデ坊」
 唐突にきた。何を言われるんだ?何かを知っているのか?自分でも分かる、顔が強張(こわば)っている事に。
 落ち着け。そんなはずないはずだ。
 飲み込んだ食事を戻しそうなぐらい胃が圧迫される感覚。
 オレは気分を落ち着かせ、はい、と答えるしか出来なかった。
 しかし親方は意外な事を、驚(おどろ)く事を口にする。
「オメェが来てもう一年ぐらいになる。最初は不安だったが今じゃ、きちっと卒なく仕事もこなし、職人として頑張っているのが伝わってくる。他の連中と比べるのは好きじゃないが、仕事に対して真摯に取り組んでいる姿勢にオレは若いなりにやっている方だと思っている。社長も言っていたぜ、ほかの連中とはちょっと違う、今時珍しい人材だってな」
 オレはそんなことないですと頭(こうべ)を垂れた。
「でな、その事は置いといてだ。オメェの仕事ぶりを見てオレは気に入ったんだ。だからな、まぁ、なんというか…………オメェが一人前になる為にはもっと箔(はく)を付けねぇといけねぇ」
 途中から何だか歯切れが悪くなってきている。そんな簡単に酔いが回る人でもない。
 かといって親方の顔を見ると少し赤ら顔になっている。
「つまり……ウチの娘なんてどうだい?」
 頭が一瞬、真っ白になった。何を言っているんだ?この状況は何だ?
 そう思った瞬間、襖(ふすま)が開きさくらさんがビールを持ってきてくれていた。が、どうやら聞いてしまったらしい。顔を赤くして親方に詰め寄る。
「ちょっと、お父さん!いきなり何を言っているのよ!」
「いやぁ、オレはさくらが心配でよぉ。付き合っている男の影すらねぇじゃねぇか。だからヒデ坊は真面目だし、良い奴だからさくらに良いんじゃねぇかって」
「何を言ってるのよ、ヒデさんだって困ってるじゃないの!」
 オレは呆然としてしまった。そして一気にどん底に突き落とされる。
 こんあことがあっていいのか?
 さくらさんは品がある。
 オレはいつも後悔している。
自分の犯した罪を。自分の馬鹿さ加減に。
取り返しのつかない事に気付いて、足を洗って出直す覚悟(かくご)でやってきたが、過去はオレを許してはくれない。ずっと付きまとっている。
 そしてさくらさん。あなたを襲ったのはオレ達なんです。許されるはずの無い行為(こうい)をあなたにしてしまったんです。オレにはそんな資格…………。
「ごめんなさいね、突然父が変なことを言って」
 さくらさんがオレの顔を覗き込んだ。その時何もかもが分かった。オレが何故後悔し、悔やんで、毎日の様にうなされているのかを。
 あの時、オレは彼女に一目(ひとめ)惚(ぼ)れしていたんだ。なのに周りの空気に踊(おど)らされ、何も出来る事が出来なかった。そんな自分自身が許せなかったんだ。オレはあの現場から逃げた。            
 助ける事も出来たはずなのにその勇気すらなかったんだ。
 そして今、一目惚れしてしまった女性が目の前にいる。
 さくらさんの目。この目を見てオレはすべてを後悔し始めたんだ。
 だとしたら尚更(なおさら)オレは自分が許せない。大きな傷を負わせてしまったさくらさんに、一体今更(いまさら)何が出来るんだ。
「あの、おれは…………」
 振り絞る様にやっと出た言葉。オレは自分で何を言おうとしているのか?それすら分からなくなってきてしまった。
「すみません、ご馳走様でした。帰ります」
 オレは立ち上がってその場を去った。
 背中から親方やさくらさんの声が聞こえたが関係なかった。
 結局また同じ過ちを繰り返すだけだった。
 ここにオレが居(い)てはいけない、居ちゃいけないんだ。

 翌日、会社を休んだ。ここで働き始めて初の有給消化。
 親方に顔を合わせ辛かった。せっかく良くしてもらってお世話になったというのに。逃げる事しか出来ないのか。布団に包まって寝ようとしても中々(なかなか)眠れなかった。
 昨夜の出来事で気付いてしまった事に頭がいっぱいになり、自分でももどかしくて仕方がなかった。本当に何やっているんだろう。オレの脳裏にはさくらさんの顔と、あの夜のあの目が重なって見えて辛くなってしまう。取り返しのつかない事を再確認し、そして襲ってくる過去の過ち。完全に睡眠不足だ。そりゃそうだろう、お前はそれだけの事をしてきたのだから。お前は一生そうやって生きていくしかない。心の中で誰かに後ろ指を指される。これはオレなのか?
 もう訳が分からなくなってきた。
 目覚まし時計に目をやる。夕方にそろそろなる時間帯だ。窓からは夕陽が傾き始めている。
 
 玄関のチャイムが鳴った。誰かが来たのか? 今は誰とも会いたくない。無視を続けるが、またチャイムが鳴る。仕方なくオレは布団から起き上がり、玄関に向かった。どうせ宅配かなんかだろう。
 ドアを開けたらそこにはさくらさんがいた。えっ、何で? どういう事だ?
「父から住所を聞いて。昨夜は本当に失礼しました。あの、これ良かったら…………」
 菓子折りを手渡す。その瞬間オレの心が動揺に変わった。しかしここでまた同じ事を繰り返す様ではいけない。せっかく訪ねてきてくれたんだ。逃げる訳にはいかない状況だった。
「いえ、こっちこそ突然帰ってしまって……本当にすみませんでした。親方は?」
「心配してました。私もあれから叱ったんですけどね。今朝になってヒデさんに顔合わせ辛いとか言って。本当にそういうところが父のダメなところというか」
 彼女の屈託のない笑顔。オレの心が少しずつ綻んでいく様な気がした。
「明日、会社で待っているからその時にちゃんと謝るなんて言ってました。勝手ですよね、本当に」
「あの……少し、お話しませんか?」
 自分でも驚いてしまう台詞(せりふ)やっと出た言葉がそれだった。さくらさんは少し考えた様子に見えたが、ハイと答えてくれた。外のどこかの喫茶店で会話しようかと思ったが、オレの部屋でも構わないと言う。
 正直うろたえた。意外と大胆な性格なのか? 一人暮らしの男性の部屋に入るなんて勇気がいるはず。とにかく少しだけ待ってくれとオレは慌てて部屋に戻り、目に付くものだけを片付けて彼女を招き入れた。
「汚くてすみません。適当なところに座ってて下さい」
 オレはキッチンに向かいお茶を用意した。その様子を見てなのか、いえ、お構いなくと聞こえた。
「私が突然お邪魔しただけですから」
 そう言うけれど、こっちはそうは済まされない。使ってないコップを取り出し、申し訳ないが冷蔵庫にあるペットボトルの麦茶を注いだ。こんな事なら日本茶くらい常に用意しておくべきだった。
「すみません、緑茶がなかったものでこんなものしか」
「いえ、全然お気になさらず。本当に」
 しばらくの沈黙。オレは自分の自己紹介をしていなかった事に気付いた。
「あ、ちゃんとした挨拶していませんでしたね。オレ、下川ヒデっていいます。会社に入ってもう一年ぐらいになります」
緊張で喉がカラカラだ。
自分で差し出した麦茶を一気に飲み干した。
「それじゃ私も改めて。蓮池さくらといいます。建設会社の総務をしています。よろしく」
 やはり声といい所作といい、何もかも品がある。そして何よりも笑顔が可愛い。
 オレとは雲泥の差だ。彼女の心の中に暗い影を落としているに違いない。その張本人が目の前にいる。残酷にも彼女はそれに気づいていない。オレはなんて声をかければいいのか。何を言えば正解なのか。
「日が落ちるのも早くなってきましたね」
「あ、そうですね、はい」
 再びの沈黙。招き入れてこの体たらく。自分でもおかしいくらいだ。
「昨夜の…………」
「はい?」
「昨夜の事、本当にすみませんでした。ウチの父が変なことを言ってしまって」
「いや、別に……気にしてないですよ」
 本当は驚いて腰を抜かしそうになったが。
「多分父は責任を感じているんだと思います。離婚して母と私で暮らしていましたが、私が少しの間引きこもりになってしまって」
 引きこもり?あのオレ達が襲った夜だ。それで彼女は…………、クソ、自分のクズっぷりに反吐が出る。
「その時に母は父に相談していたと聞いています。それで父が私の部屋まで来てくれたんですが、合わず終いでした。そんな事をしているうちに母が病気で倒れ、あっという間になくなってしまい私は後悔しました。心配かけたまま天国へと旅立ってしまったことに。何も出来ずにただ心配かけるだけかけて。父は何も出来ずに母の様子にも気付けず、責任を感じるようになってしまって。だから今、籍は母方のままで父と同居しているんです。父はこれが母に対しての罪滅ぼしだって」
 オレは聞き入っていた。大なり小なり人は傷を負っていることに気付かされた。
 オレは施設育ちだ。
 父親母親の愛なんて知らない。知っているのは悪知恵。そうやって今まで過ごしてきた。世間を恨んだ事もある。オレはつま弾きの人間。必要とされない。
しかしあの夜の出来事で何かが変わった。そして今までの行い、後悔の念、自責の念、様々な思考がオレの頭の中で混雑(こんざつ)する。答えなんてなかった。
 ただ分かっていることは、オレの過去の過ちで、心に傷を持ち続ける人がいるということだ。
 親方はさくらさんや奥さんに対して、さくらさんはオレ達が負わせた傷、そして母親に対して。
 身勝手かもしれない。だが苦しんでいるのはオレだけじゃないと思うと、凍結されていた心の底の何かが少しずつ溶けていく気がした。
「そんなことが……」
 気が付くとか細い声で呟いていた。
 その呟きに気付いたのか、さくらさんはいけない、私ったら。これじゃ気分が暗くなってしまいますよね、って笑顔を見せる。オレは彼女の目を見た。笑顔を見せるその瞳にやはりオレに似た暗い影が濁って見える気がした。
「だからその……なんていうか…………昨夜の父の言ったことは忘れてください。酔って言い出した事だと思うんで」
 しかしオレは自分でも思いがけない事を口にした。
「忘れられませんよ。そんな・・・意識してしまいますよ」
 何を言っているんだ。無意識に出た言葉だった。そんな資格なんてないのに。どの面(つら)下(さ)げてそんなことを口にしているんだ。
 お互いに黙ってしまう。苦しい。オレの意思とは勝手に馬鹿みたいに台詞が出てきて。何度も言い聞かせる。
 お前にその資格はない。
 ふざけた事ばかり考えているんじゃねぇぞ、自分のしてきた事を思い出せ。取り返しの付かない、とてつもない事をしてきているんだ。陽(ひ)に当たりながら真っ当な人生を送れると思ったら大間違いだ。悔やめ。悔やみ続けろ。少しずつ溶け始めていた心をまた凍結していこうとする。
そう、それでいいんだ。お前はそれだけの事をしてきたのだから。
「あの…………」
 オレは口火を切る。
「昨夜の夕飯、ご馳走様でした。本当に美味しかったです」
 何とかその場を取り繕(つくろ)うとする。
「いえ、そんな……大したおもてなしはしていませんよ」
「久々だったんです。手料理を食べるのが。本当に美味しかった」
 正直な気持ちは伝えた。
それなのに、覚悟を決めたはずなのに、未練がましいオレがいる。
「それじゃ、大した店は知らないけど、次はオレにご馳走させてもらえませんか?」
 本当にオレは馬鹿だ。心に反してぬけぬけと言葉が出てくる。これはオレの本心なのだろうか? だとしたらこれほど哀れで可哀相(かわいそう)な男はいるだろうか?つくづくそう思ってしまう。
「私……男の人と二人で食事に行った事がなくて…………でも、ヒデさんとだったら楽しいかも」
 思わぬ返事に心が踊った。さくらさんの顔を見るとオレに向かって微笑み返してくれた。
 それからお互いに連絡先を交換して、彼女はお父さんが待っているから、と言って帰っていった。少しの間心ここに在らずだった。自分はさくらさんと連絡先を交換した事実に正直戸惑いを隠せなかった。オレの心がそうさせているのか、しばらくスマートフォンに表示されている彼女の連絡先を見続けていた。

 連絡先を交換してから、二人で食事をする機会が、次第に増えていった。
 食事だけでなく、休みの日に出かけたりもした。遊園地やピクニックだったり。
 そこでさくらさんの行けない所もあった。動物園に行こうかと提案したところ、動物達を見ていると引きこもっていた自分と重なるからと断られた事がある。檻に閉じ込められている動物達と引きこもっていた過去。その事を知った時は心が押し潰されそうになった。
 彼女と過ごす時間は本当に幸せなのに、彼女を家に送り一人になるとオレの背中から過去の亡霊が襲いかかってくる。解放されるはずがない。むしろ苦しくなっていく一方なのに、オレはさくらさんと会っている。
 テキストチャットアプリのメール。お互いに交わしたメールも、いつの間にかたくさんの会話で埋め尽くされている。
 そのやり取りをしているその時だけ、過去の亡霊は現れない。
 オレは最低の人間だ。
 自分の過去を隠し、助けることもせずに見捨てて弄(もてあそ)ばれた彼女とこうやって会っている。
 獣だ。
 悪魔だ。
 今更ながらそんな自分を消したくなる。背負っていく責任。解放されない苦しみ。自分が蒔いた種。どれを取っても許されることはない。
 それでもこれはオレなりの罪滅ぼし。自分都合で反吐(へど)が出るが、これしかなかった。
 ただ一つだけ分かっていて、肯定(こうてい)しなければならない事。
 それはさくらさんの目から決して逃げない事。これだけは心に誓った。
 
 
 オレ達の距離感もすぐに縮まっていった。
 彼女はいつも嬉しそうに思い出だからと、スマートフォンで写真を撮る。それはそれで悪くなかったりする。多分それは少しずつオレ自身が彼女に対して慣れてきたのかもしれない。さくらの目はいつもオレを真っ直ぐ見る。その瞳には徐々に濁(にご)りが消えていった様な気がした。少しでも濁りが消えるなら寄り添っていたいと思った。あの悪夢のような日を彼女が忘れられるというのなら。
 これでいいんだ。何も出来なかったオレ自身のやり方で。
 そしてそれは突然だった。車でドライブしていた時だった。
「こうやって食事や何処(どこ)かへ出かけたりするのも、もう半年ぐらいになるね」
 そう言われてみれば。時間が経つのも早い訳だ。その間にオレ達は自然と敬語を使わなくなった。距離が縮まった証拠でもある。
「そうだね。気が付くとそんな感じだね」
 海沿いを走らせていた。
 近くに駐車場を見つけ、そこに車を停めた。
 そろそろ梅雨入(つゆい)りの季節。気が付けばそんな時期になっていた。天気はどんよりとした曇り空。
「せっかく来てみたけど、こんなじゃなぁ」
 オレはフロント越しに空を見上げる。
「今日はこのまま帰ろう。また一緒に来よう」
 帰ろうとハンドルを握ると、さくらがオレの袖(そで)を掴(つか)んだ。
 突然の事で驚く。彼女の顔を覗き込む。じっと見つめてる瞳。いつもとは違う表情。
「どうしたの?」
 それとなく聞く。沈黙は続く。何かを納得した様でさくらは袖を離した。
「ごめんなさい、少し不安になって……」
「不安?」
 小さく頷(うなず)く。
「ヒデ君が時々、何を考えているのか、わからなくなるの」
「オレが?」
 少し胸が痛んだ。オレには彼女に言えない秘密がある。その事を言っているのか。何か勘付いたのか。息を飲み込む。
「こうして一緒に出かけても、手繋いでくれないでしょ?」
 複雑な感情が沸き起こってくる。
「半年経って、ヒデ君は私の事、どう思っているの?」
 確かに手も繋いでいない。半年も経っているのに。ただ食事に行ったり、こうやってドライブしたり、オレからはこれといったアクションを起こしているかといったら起こしていない。
 いや、そもそもそんな資格なんて無い。
 だが彼女からしてみれば、受け取り様によっては都合の良いお友達、つまり女性として見ていない事と一緒だ。知らない間に彼女を不安にさせていたのか。
 待て。ということはまさか、これは期待しても良いのか。
 こんな夢みたいなことがあっていいのか。
 だが期待してはいけない自分がいる。お前はこれ以上何を欲しがっているんだ。クズに戻りたいのか? そして彼女を苦しめるのがお前がしたい事なのか?
 しかし逃げてはいけない。覚悟を決めなければいけない。そう励ます自分がいるのも事実だ。そうやって心の中でせめぎ合っている。このままじゃいけない。お前の本心は? そう問いかけてくる自分自身。
「オレは…………」
 気持ちを。
 正直な気持ちを。
「オレは、不器用だから上手く言えないけれど、さくらの事を……ただ…………」
「ただ?」
「ただ大事にしたいだけなんだ。それだけなんだ」
 長い沈黙。やっと言えた言葉がその言葉。
 本当に捻(ひね)りもない。
 自分でも情けないぐらいの台詞。
 すると身体中を暖かい温(ぬく)もりが伝わってきた。彼女がオレを優しく抱きしめていた。外は雨が降り出してきた。雨音(あまおと)が鳴り響く車中。突然の事でオレは頭が真っ白になった。何も考えられない。
 昔の記憶。好き勝手にやって女と一夜なんてざらにあったあの頃。その感触とはまた違う。心のわだかまりを吹き飛ばす様な感覚。そして感情。
「さくら…………」
 オレは彼女の耳元で囁いてしまった。さくらの匂い。欲しかったのはこの温もりだったのか。
「ヒデ君、愛おしい。あなたの事が好きでしょうがない」
 女性の方から言わせるなんて。なんて果報者(かほうもの)なのか。
でもその言葉で覚悟が決まった。目を閉じてゆっくりと深呼吸をした。
「言い直させてくれ。オレはさくらの事が好きだ。好きだから、大事にしてあげたいんだ」
 雨で辺りは見えなくなっていた。そして雨音の中で二人引き寄せられる様に、くちづけを交わした。
 オレは本当にさくらの事が好きなんだ。それに気付かせてくれたのはさくら、君だったんだな。ならオレが出来る事、彼女を傷付けたくない。守ってあげたい。いや、全力で守る。
 あの悪夢を忘れる事なんて出来るはずがない。当事者であるオレがどの面下げてものを言っているとも思うが、さくらをあの時から好きになっていた。その事実は曲げられない。
 逃げる事なんて簡単かもしれない。だけど彼女の前では逃げず正直でありたい。さくらを通して知ったことは沢山ある。
 その中で大事なことを教えてくれた。
 
 人を好きになる事。
 
 その責任をさくらは教えてくれた。優しいくちづけを交わし終えると、彼女は恥ずかしそうにオレを見つめて笑ってくれた。

 オレ達は正式に付き合う事になった。日を改めて親方に挨拶にも行った。
 親方はすごく喜んでくれて、さくらの事をよろしくな、とオレの肩を叩いてくれた。そして仕事に対してより一層(いっそう)満身(まんしん)していく。守るものがあると、こうも変われるとは。自分でも信じられないくらいだ。
 悪夢も見なくなってきた。夜中にうなされて起きる事も少なくなってきた。
 これは少しずつであるが罪滅ぼしが出来ている証拠なのか。
 さくらと一緒にいる時は何もかもが許される気がした。彼女の悲しい顔なんて見たくない。常に笑っていてほしい。かけがえのない存在。オレは少しずつ真人間(まにんげん)になれる気がした。
 
 
 週末が楽しみで仕方がない。さくらとデート。彼女がいる。そこにいる。こんなことを言うのもあれだがオレにとってかけがえのない、尊(とうと)い存在なのかもしれない。正直浮かれている自分がいるのも事実だ。
過去の罪は決してなくならないが、少しだけ浮かれたっていいだろう?という自分がいる。
 甘い言葉だ。だけど少しだけでいい。この苦しみから抜け出せるのなら、さくらを一途(いちず)に思うことは許されてもいいはず。
 さくらと正式に付き合い始め、外に出かけることより、オレの部屋で過ごす時間が増えていった。外に出ると何かとお金がかかるからと、毎週週末は彼女が手料理を振舞ってくれる。
「これだけでも意外とお金かからなくていいんだよ、ヒデ君の生活改善にもなるし」
 さくらは一人暮らしのオレをものすごく気遣(きづか)ってくれる。だから一緒に料理をして教えてくれたりする。不器用ながらも少しずつ献立(こんだて)のレパートリーも増えていった。
彼女は教えるのが上手だ。何故そんなに上手なのか聞いてみたら、家庭科の教員免許を取得しているという。
 なるほど、料理が美味しいのはそのためか。しかし聞けば中学高校と料理はしていたらしく、母親が外に出て働いていた為、自ずと得意になっていった。
 だけど無条件にさくらが作るものは美味しい。
 それに刺激され、最近は朝早く起きて自炊をし、彼女が教えてくれた献立をベースに仕事に持っていく弁当を作るようになった。
 さくらの味付けにはほど遠いが。
 下手くそでも少しずつは上達していると思う。何かを作るというのは良い事なのかもしれない。もう彼女には頭が上がらないくらい、だけど自然に幸せを噛み締めていく。
 
 
 ある日の週末。
 さくらがオレの部屋に来る。毎週の事だから当たり前なのだが、今日は何かが違う。いつもより荷物が多い気がした。まさかと思った。
「突然でごめんね、お父さんにはヒデ君の所に泊まるって言ってきた。ダメかな?」
 青天(せいてん)の霹靂(へきれき)。
 そういえば昨日の帰り際に親方が変なことを言っていた。
「順番だけは間違えるなよ」
 ニコっとオレに笑顔を向ける。何を言っているのかさっぱりわからなかったが、まさかこの事を言っていたのか?だけど親方公認でここに来ている訳だし、まして一人娘の外泊(がいはく)に許可を出すだろうか?いや、親方の昨日のあの素振(そぶ)り。了解の上でおそらくさくらはここに来たんだ。
「いや、断る理由ないでしょ」
「じゃあ、決まり」
 さくらといい、親方といい、この親にしてこの娘といったところか。時々大胆な行動を取るさくらにはいつも驚かされてばかりだ。
 
 
 
 夕飯を食べ終えて、オレはいつもの様に洗い物をしていた。洗い物はオレから率先(そっせん)してやっている。いつも美味しいものを食べさせてくれる細(ささ)やかなお礼。
 少しずつ夏が近付いている。
 その証拠にオレの腕は良く日焼けしてる。まだそんなに暑くない。むしろ台所の小窓から吹き込んでくる夜風が気持ちいい。
 洗い物が終わり、彼女の方に目をやる。
 テレビを見ている。
 その横顔がオレには勿体無いぐらいに美しかった。しばらく見惚れているとさくらは視線に気付き、どうしたの?と言ってきた。
 いや、何でもないと彼女の横に座った。バラエティ番組を見て二人で笑う。この時間がとても心地よい。何気ないこの幸せが続いている。その時のオレは油断していたのかもしれない。
 本当の辛さ、苦しみが待っているとも知らずに。
 いきなり雷が鳴った。そういえば今日は夜から雨が降るとニュースでやっていたが、まさかの雷。
 外から少し雨音(あまおと)がし始める。
 そしてまた雷。今度のは大きい。あまりの音の大きさにさくらは小さな悲鳴を上げ、反射的にオレの腕にしがみ付いた。
 雨音が徐々に激しくなる。ゲリラ豪雨(ごうう)か。外が激しく光る。同時にすさまじい音。さくらは雷が苦手だった。
「大丈夫だよ」
 オレは優しく肩を抱く。シャンプーの香りが漂う。外泊用の物を持ってきたんだろう。甘い香りがした。オレはさくらを抱き寄せていた。同時にシャワーを浴びていない自分に気付く。
「オレ、シャワー浴びてないや。ちょっと浴びて…………」
「いいの、このままでいて。ヒデ君の匂い、落ち着く」
 心臓の鼓動が早くなる。さくらは多分、その気で泊まりに来ているんだろう。それは最初から分かっていた。
 だけど、どうだろう。
 オレの不器用さが彼女に伝わらないだろうか。うまく出来ないかもしれない。大事にしたいからなのか、どうにもうまく出来る自信もなかった。
 くちづけをする。甘くて優しいさくらのくちづけ。オレの心を溶かしていく。テレビも明かりも消した。彼女の頬を両手で包み込む。雷の光で映し出される、さくらの瞳。艶(つや)っぽく濡れている。もう一度くちづけをした。さくらはオレを抱きしめる。
 着ている服を脱がしてあげる。オレも脱ぎ、布団に横たわりくちづけを交わしながら、優しく愛撫する。彼女のひとつひとつの吐息が心を浄化(じょうか)していく。さくらの全てがオレを許してくれる。
 そしてさくらと一つになるその時だった。
 突然俺の脳裏(のうり)からあの悪夢が蘇(よみがえ)る。さくらの目を見た。
 そんなはずはない。さっきまでの淡い目がそこにはない。
あの時の助けを乞う様なあの絶望的な目がそこにある。オレの身体の動きがピタリと止まった。
 錯覚(さっかく)だろうか。
 いや、確かにそう見えた。そして瞬(またた)く間に、悪夢はオレを包み込み始めた。

 そうだよ、オレにはそんな資格なんてないんだ。こんな事をしたらあの時と一緒じゃないか。あいつらと一緒なんだ。
 いいか、オレは人の皮を被った獣(けもの)なんだよ。
 気付いてなかったのか?それとも知らないふりでもしていたか?
 笑わせる、己の過ちにまだ目を背けるつもりか。繰り返すか、同じ過ちを。

 誰かが、心の中で叫び訴えている様な気がした。
 頭がガンガンする。目元が強い光を浴びた様に、乱反射している様な気がした。
さくらはオレの異変にすぐに気付いた。
「どうしたの?」
 優しい声。何もかも許してくれる声。それだけでいいじゃないか、それ以上何を望む? またお前は彼女を傷付けるつもりなのか? 頭の中で木霊(こだま)している。
 さくらはオレの頬を優しく撫でてくれる。気付くと溢れんばかりの涙が出てきた。オレはさくらの身体から離れた。拭(ぬぐ)っても拭っても溢れてくる。自分で制御ができないくらいに。さくらに気付かれまいと背中を向けた。
 ダメだ、本当にオレは最低だ。ここまできてまた、彼女を傷付けようとした。そんな自分が許せない。そして涙が止まらない。
 さくらは何も言わず背中に寄り添ってくれる。誤解されてはいけない。普通に。普通に接しなければ。しかし思えば思うほど、涙が溢れてくる。
 

 この涙は何だ?

 後悔か?

 許してほしいのか?

 それとも自分への慰めか?
 感情のコントロールがうまく出来ない。それでも長い沈黙を続ければ、彼女に何か不信感を与えてしまうことには変わりはない。
 誓ったはずだ、彼女を傷付けない、と。
 何かを言わなければ。
「オレは……本当は…………こんな資格なんて、ないんだ……」
 しゃっくり声やっと振り絞った言葉。
 本心だった。
 お前は一生悔(く)やみ続けなければならない。
 それがお前の背負っている罪だ。
 誰かの声。そうだこの声は。
 オレ自身の声だ。
 オレ自身が許していない。その様々な罪に、その様々な過去に。
 今更そんな事に気付くなんて。どれだけ愚かなんだ。ずっと前から時折(ときおり)頭の中に響き渡る声。通り過ぎる声。こんな事にも盲目になっていたなんて。
 情けない。涙は溢れ続ける。
 この涙がオレの過去にしてきた罪そのものなのかもしれない。
「ヒデ君」
 気が付くとさくらは背中越しからオレをだきしめてくれていた。
「何があったのか、私には分からないけど……ヒデ君も同じだったんだね。私と……」
 彼女の手を握る。その温もりだけが確かでありオレを唯一許してくれる。
「私…………引きこもっていたって言ったでしょ……本当はね…………」
オレは我に返り、焦り始める。
 ダメだ、それ以上言っちゃダメだ。
 オレはさくらの声にかぶせる様に言葉を振り絞った。
「さくらの事が好きなんだ。大事にしたいんだ。だけど、そう思えば思うほど……出来ないんだ。うまく言えないけど…………できないんだ」
 さくらの過去は知っている。さくら自身が再び傷付く光景は二度と見たくない。
「ヒデ君にも何かあったんだね。お互い似た者同士だったのかな?」
 彼女の声がオレを包み込む。少しだけ勇気が湧いた。
「さくら、過去に引きこもっていたって言っていたけど、オレにはそんな事は関係ない。今のさくらが好きなんだ。だから誓ったんだ。その過去も含め、守ってやるって。だから傷付けたくないんだ。何があっても」
 本心だ。嘘偽りの無い。
「それじゃあ、こうしない? 私はヒデ君が大好き。だから、その時が来るまでおあずけにしよう? 私はいつでもヒデ君の味方だから」
 オレは彼女に向き直った。すると笑顔を見せて、やっとこっち向いてくれた、と正面から抱きしめてくれた。
 なんてさくらは強いんだ。オレなんか足元にも及ばない。
 だけどそう見せているだけなのかもしれない。だからその分、彼女を守れる強くならなければ。
「だけど、ひとつだけ、私のワガママ聞いてくれる?」
 さくらはオレの耳元で囁(ささや)いてきた。
「その時が来るまでおあずけにするから、お泊りの時はこうやって抱きしめ合って一緒に寝よう。それだけでも私は十分だから」
 オレはさくらの顔を見る。その瞳はしっかりとオレだけを見つめている。
 それからお互いに抱きしめ合い、くちづけしたりして横になった。彼女とこうしているだけでも、頭に響くオレ自身の声は聞こえない。
 お互いの吐息(といき)や温もりが、お互いを癒している様にも思えた。
 この時間が永遠に続いてくれたら、どんなに幸せだろうか。

 半年の月日が流れた。
 十月に入る前、親方に挨拶へ行った。同棲を始めるためだった。
 親方は結婚を視野に入れているのならばと条件で承諾(しょうだく)してくれた。それはもちろんの上。そんな簡単には言い出せない。さくらは嬉しそうだった。ヒデ君とずっと一緒にいられるんだね、と言ってくれた。勿体無いくらいの言葉。むしろオレからお礼が言いたいくらいだ。こんなオレと一緒にいてくれて感謝している。
 これからは長く一緒の時間が過ごせる。さくらと一緒に過ごせる。それだけで胸がいっぱいになる。


 クリスマスを一緒に過ごし、年末年始は親方の家で過ごす。
 小さいけれど、穏やかな日々。
 いつかのオレとは違う道を進んでいる。それだけでもう、十分だった。
 しかし、相変わらずオレとさくらは、身体を交える事が出来なかった。
さくらと約束した事。
お互いに部屋で体が空いている時には彼女を抱きしめている。テレビを見ている時も、二人で会話する時も、一緒に寝る時も。
さくらの唯一の我儘(わがまま)。それが愛おしかった。だから抱きしめている時は本当に、心の底からさくらを守ってあげたいと思った。
その時だけオレの心の中の獣は牙を閉じ、闇の中へと消えていく。あの悪夢と共に。やがて獣は鎖に繋がれ身動きが取れなくなっていた。さくらと過ごす日々に獣は大人しくなっていった。彼女がオレを癒してくれるから。
だが、そうやってオレは安心しているが、時々夜中に目を覚ますと、さくらがうなされている時がある。
その姿を見る度、オレの中の獣が唸(うな)りだす。
誰がそうした?
人を散々傷付けた代償が目の前にあるぞ。
これがお前の望んだ幸せか?
逃げているだけだろう?
現実から……。

オレは頭(かぶり)を振った。
分かっている。元凶はこのオレだ。素知らぬ顔でさくらと一緒にいる事が間違っていることも。
しかしこの衝動、彼女に惚れてしまった、好きになってしまった、傍にいたくなってしまった、この事実は変わらない。身勝手なのは分かっている。だけど、さくらの存在がオレを贖罪(しょくざい)へと向かわせてくれている。彼女のおかげでオレは変われた。
うなされているさくらを、オレは優しく抱き寄せた。小さく震えるその身体を撫でてあげる。
夢の中であの時の出来事を何度も何度も見続け体験しているのかと思うと切なくなり、自分自身に怒りが込み上げてくる。
もしかすると再び巡り合えたのは、オレ自身に対して、傷を付けたお前が彼女を二度と傷付けず守ってみせろという見えない力が働いたのかもしれない。
だとしたら、もしそうだとしたら。
オレはさくらを守る。彼女を悲しませたり、傷付ける事などしない。もう二度と。あの時の表情を、彼女に作らせる訳にはいかない。

冬が終わり始める二月下旬。息を吐くとまだ少しだけ白い。だけど少しずつ春が近づいている。
いつもの様に会社のロッカーで着替え、休(きゅう)憩室(けいしつ)で朝礼があるまで仕事の準備をしていた。職場仲間とたわいも無い会話。
そうしているうちに、社長が いつもの様に入ってきた。いつもの朝礼、いつもの挨拶、現場(げんば)報告(ほうこく)、今日の現場班決めを行(おこな)う。それでいつもなら終わるはずだった。
社長が今日から新しく仲間が増えると皆(みな)に言い、手招きをした。休(きゅう)憩室(けいしつ)に入ってきた男にオレは驚愕(きょうがく)した。

ミネタ。

なんであいつが。
蘇る悪夢。
さくらを犯した張本人。
髪型が変わり、少し痩せた様だが間違いない。ミネタがそこにいる。
眩暈(めまい)がした。
そして沸き起こる吐き気。
あいつはまだオレに気付いていない。この偶然を呪った。目の前で挨拶している男を呪った。
「新人はいつもベテランに付くのが通例になっているから」
 ミネタは親方の班、つまりオレと一緒に現場に行くことになった。
 被っていたヘルメットを更に深く被る。
 どうする?いや、どうしようもない。
 ネックウォーマーで顔を隠した。

 この日は何事もなく終了し、会社から出ると、
「おい、ヒデだよな?」
と、あいつは待ち構えていた。オレの髪型が短くなっても、顔だけは変える事が出来ない。バレるのも時間の問題だと思ってはいたが、まさか入社した当日にとは思っていなかった。
「久しぶりだな、突然音信(おんしん)不通(ふつう)になったからさ、心配しちゃったよ。こんなとこで働いてるのも偶然だな」
 ニヤニヤとしながらオレに近づく。ミネタの目はあの時のまま。危険の二文字が頭に浮かぶ。
「何か用か?」
「おいおい、いきなりいなくなってそれはねぇんじゃねえの?つれねぇな、腐れ縁の中じゃねぇか、ホントの意味で」
 何も変わっていない。ミネタの笑いは相変わらずだった。
「なぁ、金、貸してくんねぇ? 色々と入用(いりよう)でなくなっちまってさ。昔のよしみでよ」
 そうだ。こいつはいつもそうだった。金をいつもせびる。昔つるんでいた時の金庫番(きんこばん)はオレだった。三人で均等に分けても、いつもミネタは使い込む。そしてオレに貸してくれという。そういう男だ、こいつは。
「昔とは違うんだ、その辺の金融屋(きんゆうや)にでも行けばいい」
 オレはその場を去ろうとした。こんなクズと付き合ってもロクな事にはならない。
「親方だっけか? 聞いたぜ、その娘さんと一緒に暮らしてるんだって? ヒデも隅に置けねぇな」
 オレはミネタを睨んだ。
「何が言いたい?」
 おそらく親方のことだから、話してしまったのだろう。だからといって親方を責めたくはない。目の前にいるこのクズに問題があるのだから。
「いいよなぁ、毎晩ヤリまくりだろ?うらやましいなぁ」
 こいつ……。
「オレもヤッちゃおうかなぁ? つーか、昔みたいに輪姦(まわ)そうぜ」
 オレは反射的にミネタの襟(えり)を掴み上げた。ふざけるな。いきなり現れて、いきなり人の女をヤラせろだ? どこまで馬鹿にしているんだ、こいつは。
「手ぇ出したら、殺すぞ?」
 オレは凄んだ。本気だった。
「なに熱くなってんだよ? え? 昔は当たり前の様に女なんか転がしてたじゃねぇか。違うか?今更変われる訳ねぇだろ、オレ達は」
 その言葉を言われると、胸が痛かった。掴んだ襟(えり)を離してしまう。確かにこいつの言う事も一理ある。どこまでいったって犯してきた罪は付き纏(まと)ってくる。そして自分自身が腐り始める事に気が付く。気が付けば同じことを繰り返している。底辺は何処までいっても底辺。変われる事なんて出来るはずがない。
 だがオレは昔とは違う。
 ミネタの様に何も考えずに、変わることを諦める生き方をやめたんだ。
 そのためにどれだけ自問自答(じもんじとう)を繰り返し、自分自身が犯した罪に今でも苦しんでいるのか、こいつには分かるはずもない。
「そういやさ、ゴン、どーなったか。気にならねぇ?」
 ゴン。久々に聞いた名前。
 もう一人の悪友。
「アイツはもうダメだよ。あれから違法ドラッグにハマってキメセクばかりしまくってよぉ。そのままシャブに手を出して今じゃ何処にいるかわからねぇ」
 
あのバカ。
一番女に飢えていた。
女を性処理の道具にしか考えていないクズ。
オレの知らないところでそうなっているとは。
ゴン、お前はやっぱりクズだよ。何も成長しなかったんだな。
そして今目の前にいるヤツもまたクズだ。
「なぁ、空(むな)しいと思わねぇか? オレも足洗おうとして職を転々としたよ。だけど無理。無理なんだよ、所詮(しょせん)オレ達クズはさ。掃き溜めにいて自由気ままに生きるしかねぇんだよ、そう思わねぇか?」
 身勝手な言い訳。
 今のオレにはそうにしか聞こえない。
「勝手に言ってろ。テメエだけだよ、そう思っているのは。オレはオレなりに答えを出している。だから二度とバカな事はしない。もう二度と。だからこれ以上オレに関わるな」
 そう吐き捨て帰ろうとした。
「ここのヤツらが、お前のしてきた事を知ったらどう思うかなぁ?」
 振り返りミネタを無言で睨みつける。
「オレは本気だぜ?その気になればお前を道連れにすることだって出来るんだからなぁ」
 腐っている。
 以前にも増して。
 失う物など無しか。
 オレは昔より弱くなったか?何も出来ない。いつの間にか唇を噛んでいた。
 血の味がする。
 過去はいつだって付き纏(まと)う。
 そしてそれは具現化してオレの目の前に正にいる。
 保身に走るしか手が無い。
「とりあえず秘密にしといてやるよ。その代わり、わかってるよな?」
 畜生。
 ここで金を渡したら、またこいつは要求してくる。何度でも。
 だが選択肢などあるはずが無い。
 オレは財布を取り出し、三万を抜いた。
「おいおい、冗談だろ? シケてんなぁ。そんなんでいいと思ってんの?」
 ミネタはオレから財布を奪うと、残りの金を抜き出し、空の財布を投げてきた。いやらしく笑い、その場を去ろうとするミネタ。耳元で囁いた。
「テメエだけが幸せになれるなんて思うなよ」
 オレの心に再び悪夢が覆(おお)う。
 ミネタ、何故再びオレの前に現れた?
 やはりオレには穏やかな日々を掴むことすら許されないのか。その答えは今現れたばかりだ。
 壊れていく。
 構築(こうちく)した日常が音を立てて崩壊していく。
 そうだ、さくら。ミネタは親方からオレに女がいると聞いている。
オレは慌てて家路に着く。


「おかえり、私も今帰ったばかり。すぐ夕飯にするね」
 さくらはそこにいた。
 良かった。本当に良かった。
 夕飯の支度をしようとしているさくらを背中から強く抱きしめた。この温もりだけは守らなければならない。
「ヒデ君、どうしたの?」
「ほんの少しだけ……こうしててくれ…………」
 さくらは何も聞かず、オレに向きかえって抱きしめてくれた。
 ミネタから守らなければ。
 彼女を傷付けるヤツは許さない。
 二度と同じ過ちを繰り返してはいけない。
 絶対に。
 さくらはオレが絶対に守る。

 その日を境に、ミネタはオレに事あるごとに金を無心してきた。オレは払うしかなかった。
 セッカク掴んだ穏やかな日々をこんなヤツに蹂躙(じゅうりん)されてたまるか。幸い職場仲間にはオレの過去をバラシてはない様だ。
 そしてあの時の女性、さくらとオレが付き合っている、同棲していることもミネタは知らない。
 ただ親方の娘と付き合っている。
 ミネタにはその様にしか伝わっていない。
 それでもオレは胸を撫で下ろすしかなかった。
 次第にオレの心は再び悪夢に蝕(むしば)まれていく。
また夜中にうなされる様になってしまった。
 フラッシュバック。二人の獣に犯されるさくら。その光景をオレは何も出来ずに、ただ見続けている。彼女の悲鳴。獣の笑い声。オレは耳を塞(ふさ)ぐ。
 しかしそこには耳が無かった。何故か目の前に鏡がある。オレはその鏡を覗き込む。映し出されたオレの姿は獣そのものだった。

「ヒデ君、ヒデ君」
 さくらの声で目を覚ます。
 夢か……。
 酷い脂汗(あぶらあせ)。シャワーを浴びに布団から出る。浴びている最中に背中から、どす黒い何かがオレに覆い被さってくる錯覚に陥(おちい)る。
 我に返り振り返るが何もない。
 もう一人のオレが蘇る錯覚。大人しくしていろ。何度も心の中で叫ぶ。
 シャワーから出ると、心配そうにさくらはバスタオルを持って待っていた。バスタオルで体を拭き、ドライヤーで髪を乾かす。
 その時もさくらは片時も離れない。彼女の心はとても敏感(びんかん)だ。心配だけはさせてはいけない。
 さくらの手を握り、再び布団に潜り込む。彼女は何も聞かない。ただ黙ってオレを抱きしめてくれる。
 オレには守るべきものがある。
 さくらとの穏やかな日々。
 これだけは壊されてはならない。

「よぉ、また金に困ってるんだ」
 ミネタの決まり文句。会社からの帰り道にいつも待ち伏せをし、金を無心してくる。
「いいかげんにしろ。金なんてもう無い」
 そう言ってオレは帰ろうとする。
「バラしてもいいのか? ヒデちゃん」
 こいつはいつからこんなに腐ったヤツになったんだ? 普通に生活しているオレへの当て付けなのか? しかしオレにも限界はある。
「言えるものなら言ってみろ、ミネタ。そこまでの根性があるならな。オレもお前を道連れにすることだって出来るんだぜ? どうする? なぁ?」
 ミネタに凄んでみせた。
 お前は間違っている。
 その間違いに気付けないのなら今すぐオレの前から消えてくれ。
「ほ、本当に言うぞ。いいのか?」
 オレの本気に応えたのか怯(ひる)み始める。
 あともう少しだ。
 こいつはいつもそうだから。
 強いものには巻かれるタイプ。
 ヤバくなればすぐに鞍替(くらが)えする。
 そして相手が本気になれば尻尾を巻いて逃げるヤツだ。
「今までの金はチャラにしてやる。その代わり二度とオレの前に現れるな。今の仕事も辞めろ。どっか他へ行け。でなきゃ、また昔みたいに戻って腐ってろ」
「ふざけやがって。ヒデ、変わったな。あの頃のヒデじゃねぇんだな」
「オレから金を無心している時点で、お前は何も変わってねぇんだよ。ゴンと同じさ。やってる事が違うだけで中身は一緒だ。それに気付けないお前は一生そのままだ」
 オレはさくらを知ったあの日から、真っ当に生きる事を選んだ。後悔しないためにも。その分自分の犯した罪を背負っていかなきゃいけなくても、腐った生き方よりマシだと思った。
 そして再びさくらと出会った。
 罪は重くなり、その分穏やかな日常を手に入れた。
 贖罪のためにも、この内なる獣を隠すための仮面を剥がす訳にはいかない。自分の犯した罪を忘れる事なんて出来ない。それでも変わりたいと思った。そのきっかけをくれたさくらを守るのがオレの罪滅ぼしなのだから。
「クソが。偉そうに。オレとお前は何も違っていないのに。何でヒデだけそんな生き方が出来るんだ。ちきしょう、お前と何が違うっていうんだ」
 うろたえ始めるミネタ。こいつも真っ当になろうとしていたのか。
 だとしてもこいつの目はあの時と同じままだ。何も変わっていない。むしろ陰りが見える。
 昔からそうだった。
 ミネタは逃げてばかりだった。
 面倒なことはいつもオレに投げてくる。
 自分はぬくぬくと楽な方にしか歩いていかない。
 そのくせ粋がることは忘れない。
 一人じゃ何も出来ない、何も決められない。
 それがミネタだった。
 確かに言う通り、オレとミネタに大差はない。クズ同士だ。
 だが、決定的な事がある。
 オレに有ってミネタに無いもの。
 それは逃げないという覚悟。
 逃げてばかりいれば、歩ける道もいずれは無くなってしまう。
 その事をミネタは知らない。いや、分かっていないのかもしれない。
 分からないから面倒臭くなり逃げてしまう。
 ミネタは正にそれだ。
 目の奥の陰りはそのミネタの様を語っているのかもしれない。
 自分で気付くか、気付けないか。それだって大きく左右する。
 どんなに長くても人生は一度きり。変われるチャンスは早い方がいい。
 幸いオレは気付く事が出来た。
「わかったらオレの前からとっとと消えろ」
 冷めた目線でミネタを睨みつけた。負け犬が何も言えずにその場を去っていく。
 そうだ、それでいい。
 変わることが出来ないならそのままだ。

翌日、ミネタは無断欠勤をした。社宅はもぬけの殻だったらしい。
やはり逃げたか。
あいつにはお似合いかもしれない。
ただ、違う場所で人生をやり直せるなら、その場所からもう一度やり直せばいい、なんて気遣ってしまった。
やはりオレは弱くなってしまった。変わるとここまで弱くなるものなんだな。
それでもオレは少し安堵(あんど)した。
仕事が終わり帰ると、そこにはいつもの日常が待っている。
 さくらとの穏やかな日常。
 オレは守れた気がしていた。

 数日後。
「いってらっしゃい」
 さくらは少し風邪気味で、会社を休むことにした。オレは有休を取って、彼女を病院に連れて行こうとしたが、心配しなくても大丈夫だから行ってきて、と言われそのまま会社に向かうことにした。
 さくらは身体が丈夫な方だが、やはり心配であった。
 会社に行く途中スマホで電話を掛けた。電話に出たが何かがおかしい。こする音。何かが割れる音。そしてスピーカーの奥から聞こえる悲鳴。
 オレの脳裏にあの悪夢が蘇る。
 まさか。
 オレは慌ててアパートに戻る。

 玄関のドアは開いていた。そして中から異様な音とさくらの悲鳴。
 部屋の中に飛び込むとミネタがさくらに覆い被さっていた。悪夢は再び現実になった。
 オレはミネタを引き離して殴りつける。馬乗りになって何度も何度も殴りつけた。ミネタの顔がどんどん歪んでいく。
 右足に鈍い痛みが走った。見るとナイフ刺さっている。オレはつい力を抜いてしまった。ミネタはオレを突き飛ばし、ナイフを手に取り起き上がった。
「へへへ……お前を尾行してしばらく様子伺(うかが)ってたんだけどよぉ……まさか、あの女と暮らしてるなんてな」
 痛みで立ち上がる事が出来ない。くそっ。
「ヒデ君!」
 さくらはオレに駆け寄る。衣服が無残にも開(はだ)け、口元に青(あお)痣(あざ)ができている。殴られたのか。くそっ、くそっ!
 ミネタを睨みつける。
 完全に目がイカれている。右へ左へと目が異常な動きをしている。まさか、覚醒剤(かくせいざい)でもキメているのか。
 少なくとも正常な目付きでは無い。
「ヒデ君! だってさ。へへへ……なぁ、アンタ。オレに見覚えがないかい?」
「えっ?」
 ミネタ、それ以上言うな。
「オレはよく覚えているぜぇ……へへへへへ…………アンタ、レイプされたことあるだろう?その時の犯人、オレだよ。ヒヒヒヒ…………」
 ついに秘密がバレてしまった。
 さくらの心の傷をえぐる結果になってしまった。
「ついでだ、そこに横たわっているアンタの愛しのヒデ君。こいつもそうだよ…………アンタには興味がなかったみたいで、参加しなかったけどよぉ」
 終わった。何もかも。
 全てがふいになってしまった。
 さくらにオレの醜い姿がバレてしまった。
「嘘……嘘よ…………」
 さくらは唇を震わせながら頭(かぶり)を振る。
「ホントだって! よく思い出してみろよ! 三人いてよぉ! 一人車から降りた臆病者がいたんだよぉ!ヒデ君がそいつだよ!」
「嘘よぉ!」
 結局…………。
 オレは何も出来なかった。
 あの時と同じように。

 畜生!

 畜生!

 畜生!

「また楽しもうぜ、あん時の様によぉ。アンタ、上玉だったもんなぁ。オレのムスコ咥えてひいひいヨガいてたじゃねえか! 咥えて、離さなかったもんなぁ!」
「やめて……」
 やめろ。
「オレももうコーフンが止まらなくてよぉ、二回ぐらいナマでしちまったもんなぁ!」
「やめて、やめて」
 やめろ。
「最後に中に出したときはドーパミンがエグかったぜぇ!」
「いやぁ! やめてぇ!」
 やめろ!
 オレは足の痛みを忘れ立ち上がった。
 もう終わった。
 あの穏やかな日々は霞(かす)んでいった。
 当たり前だ。
 最初から分かっていたんだ。
 高望みしてしまっていたんだ。
 結局、守れなかった。
 再び彼女を…………。
 傷付けてしまった。

 オレの心の中の獣が鎖(くさり)を食い千切る音がした。その瞬間、オレはミネタに躍りかかった。
 そうだ、最初からこうすれば良かったんだ。
 こいつは。
 ミネタは。
 オレだ。
 だからトドメを刺さなくちゃいけない。
 ミネタから簡単にナイフを奪う。やはり覚醒剤をキメている。目の焦点が合っていない。
 かわいそうに。
 そこまで堕ちてしまったなんて。
 かわいそうなミネタ。
 いや、オレだ。
 そのままミネタの首にナイフを深く突き刺す。ミネタは笑っている。
 何笑ってるんだよ。
 オレはナイフを抜き、今度は何度も何度もミネタの胸を突き刺した。
 ミネタは口から血を吐き絶命した。
 これでやっと、オレの魂は報われる。
 ミネタ、お前もだ。
 ひとりでなんか行かせやしない。
 オレも付き合ってやる。
 お前を殺した罪をオレが背負ってやる。
 何もかもだ。

 オレは立ち上がり、そのまま足を引きずりながら玄関へと向かった。
「ヒデ君!」
 さくらが呼び止める。
「嘘だよね? さっき、この人が言ったこと……嘘だよね?」
 無言でポケットからスマホを取り出す。そのまま警察に電話をした。電話を切り、玄関前で腰掛ける。
 さくらにかける言葉なんてあるはずが無い。いや、そんな資格なんてない。
 だけど、最後だ。
 何かを言わなければ。
 再び迷惑をかけ、彼女を傷付け取り返しの付かない事をしているのだから。
 言葉を探せ、選べ。
「……悪かったな…………」
 やっと出せた言葉。
 気の利かない何処にでもあるような台詞(せりふ)。
 それしか、言えなかった。
 気が付くと、外から雨音が聞こえる。
 おかしいな、今日は雨なんて降らないはずなのに。
 さくらは押し黙ったままだった。
 いいんだ。
 それでいい。
 きっと時間が解決してくれる。
 だからオレのことなんて綺麗さっぱり忘れるんだ。
 違う人生をやり直してくれ。
 そして、幸せになってほしい。
 オレのたったひとつの願い。
 
 やがて外からパトカーのサイレンが聞こえてきた。

 一年後。
 オレは長い刑に服している。
今日はひと月に一度の運動日。
刑務官達に監視されながら、服役者達は各々自由にしている。
体操している者。キャッチボールしてる者。ジョギングしている者。
各々が自由に身体を動かしている。
オレはただ芝生の上に座り、日光浴をしながら、もの思いに耽(ふけ)っていた。

 全ての罪を償うために、警察で過去の余罪も自供した。だが被害者の特定が難しく、結局証拠不十分のため不起訴になった。
 そしてゴンが実は医療刑務所で、すでに亡くなっていた事も初めて知った。
 薬物による急性心不全だったらしい。収監(しゅうかん)されてすぐだったそうだ。
 オレが殺したミネタだが、過去の職場でもトラブルを起こしていたらしい。ある職場ではミネタが入社してから、財布や鞄が無くなっていたらしい。被害届も出ていたらしく、捕まるのも時間の問題だった様だ。
 それから幾度の裁判を迎え、傍聴席には必ずさくらを始め、親方、社長、職場仲間達がいた。弁護士からも聞いた。少しでも減刑してほしいと声が上がっていると。
 弁護士を通してそういう事はもうやめてほしいとオレは伝えた。
 少なくとも人を殺した事には間違いないのだから。しっかりと刑に服したい。
 それから全ての面会を断った。早くオレの事を忘れる事が懸命だ。オレに構ってもロクなことがない。
 そして判決を告げられた。
 控訴(こうそ)なんてしなかった。
 刑を告げられ、去り際傍聴席(ぼうちょうせき)の皆にもめもくれずオレはそのまま行くべき場所へと収監された。
 ミネタを殺した事に後悔なんて微塵もない。
ミネタはオレで、オレはミネタだったから。同じだったのだ。自分自身を殺した。だから後悔なんてない。
 もしあるとするなら、さくらが最後の最後に傷付き守ってあげられなかった事。
 だがそんな事は綺麗ごとに過ぎない。
 オレは過去をひた隠し、平然とさくらと一緒に過ごしていたのだから。
 騙していた事には、変わりない。
 だけど、それでも守りたかった。守りたい場所があった。守りたい人がいた。
 それだけは確かな事だった。
 今でも思うことがある。
 これが正しかったのか。
 他の方法は無かったのか。
 もっと早くに自供していれば。
 誰も傷付きはしなかったんじゃないか。
 そもそもオレが存在している事が間違いなんじゃないか。
 自問自答を繰り返す。
 しかし明確な答えなんて見つからない。こうやってオレは自分の犯した罪と永遠に向き合っていかなければならない。
 多分、それが答えなのかもしれない。
 空に目をやる。
 雲一つない青空。
 燕(つばめ)が二羽飛んでいった。
 きっとつがいだろう。
 さくらは、違う人生をちゃんと歩んでいるだろうか。オレの事を早く忘れて、ちゃんとした幸せを手に入れて欲しい。
 オレはいつもそう願っている。

「五百十二番! 面会だ!」
 刑務官が呼ぶ。
 五百十二番、それが今のオレの名前。
 面会? 弁護士の先生か? 何の用だろう。もう裁判が終わって一年ぐらいになる。用も何もないはずだろう。
 とにかくオレは刑務官に連れられ、面会室に向かった。

 面会室に通される。弁護士の先生が立っている。
 だが正面に、窓越しにさくらが座っていた。
 オレは頭が真っ白になった。衝動的に面会室から出ようとする。
「逃げないで」
 さくらの凛としたその声にぴたりと身体が反応した。
「彼女がどうしてもと言うんで、私がお連れした。君は断り続けていたが、彼女も面会させて欲しいとその熱意が凄くてね。根負けした次第だよ。ここからは二人で」
 弁護士の先生はそう言って面会室から出ていった。
 呆然と立ち尽くしているオレを、刑務官が座りなさいと促(うなが)し椅子に座った。
「やっと会えた。少し、痩せたかな?」
 正面切って見つめる事が出来ない。ここで彼女とこうしている事も自分自身が拒絶している。
 何も言えない。
 オレ自身が認めようとしなかった。そんな資格なんてどこにも無いのだから。
 彼女は被害者であり、オレは加害者だ。
 しかも嘘を嘘で塗り固めた極悪人だ。そんな自分が許せるはずが無い。
 しばらくの沈黙。
 口を開いたのはさくらだった。
「お父さん、亡くなったの」
 オレは目を見開いた。
 えっ? 親方が? 何故? オレのせいか?
 もう頭が正常に働いてくれない。
「前々から病気を患っていてね、丁度一週間前に息を引き取ったの。それでね、お父さんからヒデ君にどうしても伝えて欲しい事があるって」
 伝えて欲しい事?
「そのまま真っ直ぐに生きて欲しい。そして罪を償ったら、またちゃんとやり直せるから安心しなさいって。お父さんも社長さんも言っている。これってどういう意味だか分かる?」
 お人好しもいいところだ。こんなオレに。何でそんなに優しくしてくれるんだ。
意味なんて。
意味なんて分かる訳ないじゃないか。
「ヒデ君の誠実さ、謙虚さ、みんな知っている。理解してくれている。どんな過去があったとしても、ヒデ君は必死で自分を変えようとしていた。その結果なんだと思うよ。それにこの私だって……」
 駄目だ。お願いだ。
 オレなんかに振り回されちゃいけない。
 間違っちゃいけない。
 頼む、お願いだ。
「私はあの時、確かに被害者だった。それのせいで引きこもる様な生活にもなってしまった。だから、許せる訳なんて無い」
 そうだ。
 それで良いんだ。
 決して許しちゃいけない。
 オレなんかを許しちゃいけないんだ。
「でも逃がしてくれたあの時の目は今でも忘れられない。その時掛けてくれた言葉も忘れる事なんて出来ない。悪かったなって…………ヒデ君は掛けてくれた謝罪の言葉。おかしいかもしれないけど、あの時から私はヒデ君に惹かれていたのかもしれない」
 それは違う。
 錯覚だ。
 美化し過ぎだ。
 そんな事で人生を棒に振るっちゃいけない。
「こんな出会い方さえしていなければ良かったのにって思う。残酷だよね、こんなのって。どうしたらこうなっちゃうんだろうって何度も考えた。だけど確かな答えだけが私の中にあるの」
 答え?
「すごく大事にしてくれた。守ってくれた。私の事を。それだけは揺るぎの無い確かな事実。だからあの人達を許す事なんて出来ない。でもヒデ君が与えてくれた優しさはそれ以上の温もりがある。もう、自分を責めたりしないで。もっと自分に優しくなって。私はヒデ君を待っているから」
 待ってるだって?
 駄目だ。
 駄目だ駄目だ。
 そんなことで人生を狂わしちゃいけない。
「さくら、オレなんかに構うな。自分を大事にしろ。被害者が加害者に面会なんてどうかしている。さっさと忘れろ」
 そうだ。
 オレ如きに足止め食らう事なんてないんだ。
 だからあえて冷たく、彼女をあしらった。
「絶対そういうと思った。やっぱり優しいね、ヒデ君。それならその優しさに浸け込んじゃうね。ちゃんと私に責任を取って。出てきたら私をちゃんと幸せにして。それがヒデ君の私に対しての罪滅ぼしよ」
 オレは顔を上げ、さくらを見た。
 今まで見たことのない強くしっかりとした目。それでいて優しい瞳。何もかも見透かされている。
 気が付くと頬を涙がつたる。
 さくらの瞳に映る無限の温もり、力強さ。
 そうだ。
 さくらは親方の娘。
 意外なところで大胆な行動を取る事をオレはすっかり忘れていた。
 さくらはオレを見つめて笑顔を見せた。
 この娘には、嘘なんて付けない。
 彼女の瞳がそれを許さない。
 だけど優しさだけは人一倍ある。
「オレにはそんな資格があるのか?」
 彼女は頷く。
「出てきたら、また二人でやり直そう。私は他の人なんて考えられない、ヒデ君だけなの。あなただけしか私を幸せにする事が出来ない。だから待ってるよ」
 心は涙で埋まった。
 そしてその涙は洪水のように瞳から溢れ出していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?