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今年はどのような「世界」でしたか?~「ことなる世界」で、意味と生きるということ~

2023年もあと、2日で終わりますね。

みなさまにとって、今年1年はどのような「世界」だったでしょうか?

という、ちょっと変わった問いかけから、今回の記事を始めてみます。
(タイムリーに読んでいないよ!という方は「あなたにとって、いま生きているのはどんな「世界」ですか?」という問いかけを念頭に読んでみてください。)

この「世界」という言葉、もちろん世の中や地球単位での「ただ1つの場所」を示すのが普通です。

しかしここでは、私たち一人ひとりが現実に生きているであろう「それぞれの私の世界」というものを考えてみたいのです。

客観的に見れば、私たちは共通の場としての世界で暮らしています。

一方で主観的に見れば、一人ひとりが暮らしている「それぞれの私の世界」は違います。

1つの教室、オフィス、街や公園という場において同じ時間を過ごすとしても、そこで何を考え、感じ、行動するかは、当然人それぞれです。

そんな風に、世界は1つなはずなのに、人の数だけ「それぞれの私の世界」があるように感じる。

そうした世界の在り方を、「ことなる世界」と名づけてみました。

この「ことなる」には、大きく3つの区別が想定されています。

それぞれを漢字で書くと

①異なる/個となる

②事なる

③言なる

となり、少し分かりやすくなるかもしれません。

今回は、この「ことなる世界」という言葉を手掛かりに、2023年の集大成として、みなさんと「生きること」そのものについて、考えてみたいと思います。

この記事が、2023年を振り返り2024年を生きていくにあたり、少しでも役に立てば嬉しいです。

それでは、さっそく進めていきましょう。


①異なる世界/個となる世界

さきほど、人の数だけ「それぞれの私の世界」がある、と言いました。

これは別の言い方をすると「それぞれの私が、異なる世界に生きている」とも言えます。

これは人間だけでなく、動植物や、人によっては無生物にまで広げて考えることもできるかもしれません。

私たちは同じ「世界」という場にありながら、見聞きすることや思うこと、あるは在ることにおいては「それぞれ異なる」ことが自然な在り方です。

そうであればこそ、私たちは「個となる」ことができ、一人の、他の人や存在とは違う「自分という存在」として自分を認識することができます。

もしも、自分とまったく同じように行動し、感情を覚えるクローンのような存在があるとしたら、そのとき私は「個となる」ことができません。

もう少し厳密に言うと「私」だけは「私のクローン」と「異なる」ことを認識できると思いますが、他の人にはそれができません。

その場合、ある集団において「私」と「私のクローン」は「個となる」ことができず、区別のない存在として扱われてしまうでしょう。
(あるいは、名前をつけたり番号を振ったり服装を変えたりして、なんとか「異なる」存在にしようとするかもしれません。)

つまり、私が一人の、独立した存在として生きていくためには、他の存在と「異なる」ことを頼みに「個となる」という手続きが必要なのです。

これが、「世界」の中で、「世界」と関わりながら「それぞれの私の世界」において生きることであり、自分という存在の根底にあるものだと言えるでしょう。

しかし、ここで少し立ち止まって考えてみたいことがあります。

ある存在が他の存在と「異なる」というはたらきについては、おそらく日常的な事実として、簡単に了解できるものだと思います。

先ほどのクローンのような極端な例を考えない限り、普通に考えて、ある存在と別の存在が「異なる」ことは至極当然です。

というよりも「ある存在と別の存在」という風に区別をして考えている時点で、そこに「異なる」何かを見出していると言えるでしょう。

ですが、そこから「個となる」、つまり「異なった存在として存在感を持つ」ことは、そのままでつながっているでしょうか?

例えば、部屋の隅にころがっているホコリや、あるいは宇宙のどこかで輝いている星も、「異なる」存在に違いありません。

しかし、それが「個となる」存在であるか、例えば「私」という存在を中心に考えた際に、「私」にとって「個」として何かを訴えかけ、影響を与えるような存在であるか?というと、疑問が湧いてきます。

つまり、私が世界に対して「個となる」には「異なる」というはたらきだけがあれば良かったのですが、他の存在が私に対して「個となる」ためには、別のはたらきが必要である、と言えそうです。

そして、この別のはたらきこそが、2つ目の読み方である「事なる」であるということを、引き続き見ていこうと思います。

②事なる世界

最初に断っておきますと、「こと」という読み方は同じですが「異」と「事」は語源としては違うものであるようです。

また、「事なる」を辞書で見てみると、以下のように説明されています。

事が成就する。また、事が無事に済む。
その時になる。事が始まる。

デジタル大辞泉(小学館)(goo辞書)

このうち2の説明については後ほど取り上げますが、ここでは「事なる」という言葉を

物が事になる、事として私の世界に立ち現れる

といった、特殊な表現として使ってみたいと思います。

まず、「物が事になるということがどういうことか?」から考えを進めます。

先ほど見たように、私の世界において、部屋の隅のホコリや宇宙で輝く星といった「物」が「個」として存在感を持つためには、ただ「異なる」というはたらきだけでは不十分でした。

そこには、何らかの形でその「物」が、私の世界に関わってくる=立ち現れてくるという動きが必要であり、それこそが「物が事になる」ということ、つまり「事なる」というはたらきを示しています。

例えば掃除を始めたとき、初めてホコリは私にとって「関わりがある物」として、「掃除する事」の対象として立ち現れてきます。

あるいは宇宙の星を眺め、その美しさに心奪われるとき、初めてその星は「感動する事」として、私の世界に関わりを持ちます。

このように、「この世界」には「異なる」はたらきにより区別される「物」は無数にありますが、その中で「それぞれの私の世界」において立ち現れてくるものだけが「事」であり、そのはたらきが「事なる」こと、と言えるのです。

こうした考え方をもとにすると、「事なる」というはたらきがないものは、「それぞれの私の世界」には存在しない、という風にも言えます。

この方向性には、先ほどの「事なる」という言葉の説明の2番目「その時になる。事が始まる。」が手掛かりになります。

結論を先取りすれば、「事なる」というはたらきがあって初めて、「それぞれの私の世界」において「物」は「事」になり、「時間」という属性を持つ、ということが考えられるのです。

ここは少し、普通の時間の捉え方と違うので、補足が必要かと思います。

基本的に、私たちは時間というものを過去ー現在ー未来という、特定の方向に向かって均一に流れるものだ、と認識しています。

これがどうやら違うらしいぞ、ということは現代物理学などでも語られていますが、ここではその詳細は省きます。

ここで重要なのは、こうした一般的な時間の理解は「ただ1つの場所としての世界」において成り立つものだ、ということです。

その昔、教科書で『ゾウの時間 ネズミの時間』という本の文章を読みましたが、生物学においても、生き物のサイズや質量において時間の感覚や捉え方が違うのではないか、という主張が行われています。

ですが、これは「種族間で時間の流れが違う」という主張で、ゾウ同士とか、ネズミ同士での時間の感じ方までは特に触れていなかったように思います。

この観点からすると、人間において生物学的な時間はそこまで大きな個体差がないと思いますし、「ただ1つの場所としての世界」で共同生活を行う上では、そのように時間というものに対する共通理解があった方が、何かと便利です。

しかし、心理学的な時間、つまり「それぞれの私の世界」においては、時間は均一に流れるものではないというのも、実感として十分理解できるものかと思います。
(楽しく遊ぶ時間は短く、つまらない作業は長い、というあれです)

これはつまり、「物」の時間と「事」の時間、「ただ1つの場所としての世界」における時間と、「それぞれの私の世界」における時間が違う、ということを表している、と考えられます。

そして、その背後にあるはたらきが「事なる」こと、その時になり、時がそこから始まっていくという、「私の世界において物が事になる」という出来事と重なって生じる現象である、と主張してみたいのです。

これまでの例で言えば、私が宇宙のある星を見て感動することで初めて「物」であった星が「事」になり、そこから私とその星の「時間」が始まる、ということ。

こうした出会いを日々繰り返し、「物」が「事」になっていくことによって「それぞれの私の世界」における「時間」が進んでいく、ということ。

こうした「事なる」はたらきこそが、ただ「異なる」存在である他者を、私にとって「個となる」存在として位置づけるのだ、ということが、ここまでの道筋で見えてきたことです。

それでは、この「事なる」はたらきを通った「私」は、何を始めるのでしょうか?

それでは、最後の「言なる」という言葉について、見ていきましょう。

③言なる世界

「事」と「異」は語源が違うと言いましたが、「事」と「言」は同じ語源のようで、古事記のような時代にまで遡る場合、使われ方としても重なることが多かったようです。

すなわち、「コト」 は、ほとんどの場合は、以前に何らかの「事」があり、それを語る「言」が、その「事実」 に内容的に完璧に一致するべきである、という意味を含んでいる。しかし、その関連性は本稿の主要な論点ではないので、ここでは、コトが二義語であり、その中には「言」と「事」 という意味が共存しており、その間には一種の関連性がある、というおおざっぱな定義をしておきたい。

イグナシオ・キロス
「上代における「事」という漢字と「コト」という倭語との間の 意味的な隔たりをめぐって」
https://www.kokugakuin.ac.jp/assets/uploads/2017/02/000074489.pdf

ですが、「言なる」という言葉自体は当然一般的ではなく、私が勝手に作った言葉ですので、ここでは「言なる」を

事が言葉で表現されること

として考えてみたいと思います。

上記引用にもある通り、私たちが何かを「言」として語るのは、その対象となる「事」があるからです。

さて、ここまでの議論を踏まえた場合、「事」というのは

「異なる」存在としての「物」が、
「事なる」というはたらきにおいて、
「それぞれの私の世界」に立ち現れてきた結果、
私と関係を持つに至った「個となる」存在

という(だいぶ込み入った)形で表現できます。

そして、この「個となる」存在である「事」が、「それぞれの私の世界」から「ただ1つの場所としての世界」に言葉で表現されることが「言なる」というはたらきを示しているのです。

ここで注意が必要なのは「それぞれの私の世界」から「ただ1つの場所としての世界」へ、という流れかと思います。

そもそも、「物」は「ただ1つの場所としての世界」にありました。

それが「事なる」というはたらきを経て「それぞれの私の世界」において存在し始めるのですが、このとき、私はその世界をただ生きることも、原理的には可能です。

黙々と掃除をして疲れ、星の美しさを胸に秘め、ただ生きる。

ですが、人は往々にして、その疲れや美しさを誰かと共有したり、自分より適切に認識したいと思うものです。

その場合に行われる言葉としての表現、つまり「言なる」というはたらきに乗せることは、その「事」であった出来事を自分だけの世界から、改めて「ただ1つの場所としての世界」に投げ返すことに他なりません。

これは、言葉以外の表現と比較すると、ある程度理解がしやすくなるかと思います。

当然、疲れや美しさといったものを表現するのは、言葉以外でも可能です。

例えば子どもたちを見てみれば、自作のダンスを延々と踊り続けているものです。

しかし、そのダンスの表現は言葉を介さないからこそ、つまり構造や型を越えているからこそ、あくまでも「それぞれの私の世界」に留まるものであり、それを見ている人に伝わる表現にはなりえません。
(「何か嫌なのかな?」と思って見ていた踊りが、実は「楽しさを表現していた」ということも、子どもと触れ合っているとしばしば起こります)

一方で、大人が行うダンス、それがバレエであれ、ヒップホップであれ、そうした型があるものは、ある程度見ている人にもその動きを通じて表現したいものが伝わります。

それはまさに「バレエ」や「ヒップホップ」という言葉によって、その動きの背後にある思想や構造がある程度表現されているからで、決して「ダンスの動きそのもの」から伝わっているわけではありません。

一度も「バレエ」という言葉を見聞きしたこともなく、その何たるかを知らない人が見たとしても、その「バレエ」は「物」です。

それが「事」になり、「それぞれの私の世界」で優れた身体動作として感動を生み出すことはあっても、それが「バレエ」として伝わることはありません。

「バレエ」として伝わるためには、まさに「言なる」はたらきによって、言葉として伝わる必要があるのです。

さて、便宜上「1つの場所としての世界」から「それぞれの私の世界」への伝わり方として話が進んでしまいましたが、本来は逆の方向性の説明をしていたのでした。

ですが、ここまでくると、その説明もだいぶ容易になったように思います。

「バレエ」の話を引き継げば、そうして「それぞれの私の世界」で生まれた感動を何とか相手に伝えたいと思い、表現するときに、その感動は「1つの場所としての世界」に言葉として投げ返され、ここに「言なる」はたらきがあるのです。

改めて一般的に言い換えれば、「事なる」はたらきにより「それぞれの私の世界」に秘められていた「事」は、「言なる」はたらきによって言葉として「1つの場所としての世界」において表現され、他者との共通理解が可能な事象になるのです。

ここまでくると「異なる/個となる」「事なる」「言なる」という3つの「ことなる」という言葉が、「1つの場所としての世界」と「それぞれの私の世界」において、以下の関係にあることが分かります。

①1つの場所としての世界ー異なる物が存在する
②それぞれの私の世界  ー事なるはたらきにより、物が事として個となる
③1つの場所としての世界ー言なるはたらきにより、事が言として表現される

つまり、ここまでの話を一言でまとめると

私たちが生きる世界というものは
「1つの場所としての世界」と「それぞれの私の世界」の2つに区別され、
そこには「異なる」「事なる」「言なる」という3つのはたらきがあり、
物ー事ー言という3つの在り方において表現される

という風に言えるのです。

(ここで「実はこの2つの世界に区別はなく、3つのはたらきも在り方も同じ1つのものの別の側面に過ぎない」という風に言えば仏教的な空やインド的なブラフマンの思想に近づくと思い、こちらの方が自分自身が拠り所にしたい世界観に近くはあるのですが、この辺りは今後より探究と表現力を深めていきたいと思います)

「ことなる世界」で、意味と生きるということ

いかがでしたでしょうか。

果たして、ここまでの話が、タイトルにも掲げている「今年はどのような「世界」でしたか?」という問いに関連するものか、はなはだ疑問ではあるのですが、少なくとも私にとって、2023年の世界は「このようなものであった」と表現することができました。

ここで1つ、新しい言葉を加えたいと思います。

それが「意味」という言葉です。

以下、完全に個人的な話となりますが、ここまでお付き合いくださった方であれば、もう少しだけ読み進めていただけると嬉しいです。

この「意味」という言葉は、ここ数年私自身が追い求め、テーマとして探究している言葉です。

この記事においても、この箇所に至るまで、引用を除いて「意味」という言葉を使わないように意識してきました。

それは「意味」という言葉の意味こそが、まさに問題であり、自分の人生にとって重要だと捉えているからです。
(もっといえば「人生の意味」を自分なりに理解することが、今の探究の1つの目的である、と考えています。)

さて、この「意味」という言葉を加えて最後に何をしたいかというと、ここまで議論してきた「ことなる世界」というものと、「意味」という言葉をつなげてみたいのです。

では、一体どこでそれぞれの話がつながるのか。

これはまだまだ深く考えたい領域ですが、今時点では「事なる」と「言なる」の2つのはたらきにおいて、「意味」が大きく関わっていると考えています。

もう少し具体的に考えてみると、まず2つのはたらきは以下の通りでした。

事なる:物が事になる(「1つの場所としての世界」から「それぞれの私の世界」へ)
言なる:事が言になる(「それぞれの私の世界」から「1つの場所としての世界」へ)

つまり、「事なる」が外から内へ、「言なる」が内から外へ、というはたらきであると考えた場合、この「1つの場所としての世界」と「それぞれの私の世界」の境界を超えるもの、その境界線において、それを通り抜けて結びつけるものが「意味」である、と考えてみたいのです。

まず、物が事になる場合、その物を人は理解し、解釈し、自分の世界に引き入れます。

それは普通の言葉においても「物を何らかの形で意味づける」ことに他なりません。

また、事が言になる場合、それは「言葉を使って表現すること」ですが、それは「事と言を意味を通じて接続すること」とも言えるはずです。

つまり、私たちが生きているというのは、

物を意味によって事にし、
事を意味の世界において言葉にするという、
その限りない繰り返しによって
「それぞれの私の世界」と「1つの場所としての世界」を接続し続ける

という営みに他ならない。

それこそが「意味と生きる」ということなのだ、というのがここまで考えてきたお話の結論です。

もちろん、これは正しいかどうか決着がつくものではありませんし、正解はそれこそ「それぞれの私の世界」の数だけあるはずです。

しかし、このように考えると、菅野隼人という「私の世界」において、なぜこれまで「意味」というものが重要なのか、そこに大事なものがあると感じるのか、ということがクリアになります。

それは、「意味」こそが自分と世界をつなぐものであり、自分と他者を結びつけるものであり、言葉と言葉以外の表現とを区別する基準にもなる、非常に根本的な概念である、と考えてもそこまで無理がない、と思えるからです。

そして、もしこれを最後まで読んでくださった方がいた際に、「その方の世界」においてこの話が何らかの意味を持ち、事となることがあれば、それはとても素晴らしいことだと思います。
(言となるのは求めすぎだと思いますので、せめて事になれば・・・という想いです。)

さて、以上で2023年の集大成として、書きたいことをある程度書き尽くせたと思います。

ここからさらに探究を続けた際に、果たしてどんな世界が拓けてくるのか。

「意味と生きる」ことを実践した際に、一体何が見えてくるのか。

そうしたことにワクワクしながらこれからも生きていきたいと思いますし、そうした活動が誰かの興味深さや面白味につながっていけるよう、2024年も楽しく健やかに過ごしていきたいと思います。

それでは、最後までご覧いただき有難うございます。
良いお年をお迎えくださいませ!

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