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執筆日記㉑ 書く前に決まっている

小説でどのくらいのものを書けるかは、書く前の段階で既に決まっていると最近は思う。

頑張れば100%の力を出し切ったものになるかもしれない。
そうでない場合は100%以下のものが出来上がるだけで、僕の場合はすべて後者のパターンである。


書きながら書き手が成長して100想定していたものが120のものになりました。ということはほぼないと思う。
もし書きながら成長してしまったら、上半身だけマッチョで下半身が貧弱みたいな、小説になり、それはまとまりに欠ける微妙な小説になる。
途中から成長したのなら、成長する前の文章を成長させた状態に書き直さないといけない。
(一曲の歌の中で二番のサビからボーカルが急に上手くなり出しても聞き手は困るよね……いや、最初から録り直せよって。)

スポーツは、試合中の雰囲気や応援、天気など、試合中の予想不能な+アルファの要素は大きく、それで勝敗が変わることもよくある。
小説の場合は全部一人で、制限時間もなく延々とやっているので、スポーツのような+アルファになるものがほぼ存在しない。
あるとすれば、マイナスに働く、集中を削ぐ誘惑や欲求の方が圧倒的に多い。

それに小説はスポーツのように得点を積み重ねるものではなく、
取り上げているテーマをどのくらい深く描けているかが重要になる。

なので、冒頭の文章でスリーポイントゲット! みたいなカウントにはならない。
冒頭(部分的)に優れていても、繋がりが悪ければ読みにくいダメな小説になってしまう。つまり、全体を通して安定していないと意味がないのだ。

そういう意味ではマラソン的というか、音楽でいうとドラムのリズムキープみたいな感じだと思う。

砲丸投げとか走り幅跳びみたいな一回で奇跡起こしたるで的なのは通用しない。

マラソンやドラムみたいに、いつ転ぶか、いつリズムが狂うか分からない危険にさらされながら、毎日書いている感じというか、最後までやり切るにはペース配分も考えないといけないし……。
となると、ダラダラ続けられるペースで、且つ自分がダラダラしたテンションでもしっかり書けるようなテーマしか小説には書けないのだと思う。

つまり、今の等身大の自分は書けない。ということになる。
このコロナの状況下のことなんか尚更書けない。書けても自分の体験が生々しく反映され過ぎて、軽い感じになると思う。



今を小説に注入して身体と魂を削る的なスタイルは昭和時代に流行ったが、僕はそれをやるつもりはない。コンスタントに楽しく、良質なものは作れるはずだと思っている。
その根拠は、こうして今日生きた自分の日常は楽しいものであったし、その日常こそが未来に繋がるストックになるだろう。と思えるからだ。

小説を書きまくってます。応援してくれると嬉しいです。