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【掌編小説】成瀬

私は田園都市線の駒沢大学駅の近くで一人暮らしをしている。
家は狭いけど近所に駒沢公園があり、住宅街は静かで落ち着いている。
渋谷や目黒にすぐに行けて、最悪歩いて帰って来れる。

付き合って1年半くらい経つ彼は中野に住んでいて、全然別な仕事をしているがその気になれば平日でも会いに行ける。
ふざけてダイチャリで環七をひたすら走って彼の家まで行ったこともある。
途中、下北沢で餃子を買ってそれを自転車のかごに入れて、彼の家に着いたら彼が冷やしてくれたビールを飲む。
そういうコンビネーション、ベランダから見えた夕方の青黒い空、中央線の音、それだけで十分だった。

でも、彼が「そろそろ一緒に住む?」みたいなことを言った。
なにそれ。と私は思った。
「え~住みたいの~?」とふざけて誤魔化そうとしたら
「いや、そうだよ」と逆にふて腐れたような声が返ってきて、なんだかつまらない気持ちになった。

その日はそこで話は終わったが、それ以来彼はスーモの物件をスマホで私に見せてくる。
「これとかよくない?」
「へ~広いし安いし、駅近いね、どこ?」
「成瀬」
「なるせ?」
「うん」
そこが最適だと信じているような言い方だった。
「えっえっえっ、なんで成瀬?」
「渋谷とか横浜も近いし、町田もとなりだよ」
――いや近くないよ。町田なんか乗り換えでしか使わないよ。
「私たち働いてるんだし、そこまで離れなくていいんじゃない? 中野と駒沢の間とって代々木八幡とかにしよう」と私はまたふざけたことを言って誤魔化したが、割と本心だった。

成瀬にはなにもない。
横浜線の電車からしか見たことしかないが、あの街は私のいたい場所ではない。降りなくても分かる。成瀬は結婚した夫婦が住む街であって、これから同棲するけど結婚するかどうかはまだ分からないカップルが住む街ではない。
この違いを彼は理解していないのだとするとちょっと苦しい。
彼は仕事柄移動が多く、あまり遠さにストレスを感じないようなのだが、問題はそこではない。でも、そこを私が説明するのは違う気がする。

今までの楽しさは距離の偶然が重なって生まれていただけなのだとしたら、良かった偶然から望ましい必然に近づけない私たちはどうすればいいのだろう。こうやって、なんでもかんでも言葉にしたくない。私は気の合う人と一緒にいたいのだから、改まった説明や話し合いはしたくない。

毎朝、元気な小学生の「おはようございます!」が聞こえてきそうな街には住みたくない。
私はお酒が好きで普段は明るいから人間全般が好きだと思っているのかもしれないがそんなことはない。子供は苦手だし、ニューエラを被ってママチャリに乗るような母親には一生なりたくない。私には無理だ。本当に。

私は私がそんな状態だと気付いていない彼との未来をまだ想像できない。
でもそんな彼を嫌いかというとそうではない。住む場所を考えてくれていた。

彼が成瀬だと言ったのは、そこに彼の求めている何かがあるからかもしれない。私だって知らないことがたくさんあるのだから、一度くらい降りてみようか。


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