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28年目の脳に思うこと

最近、思考が目的もなく広がって行き収集がつかなくなって困ることが多い。
特に素面で迎える22時以降は、あらゆる思考が、道玄坂上から渋谷の交差点までスケートボードで疾走するように加速していく。急に止まれないので結局何かにぶつかるようにして思考が強制終了する。「ぶつかる」の例が酒である。

お酒を飲めば思考はある程度ぼんやりとしてくれる。
昨日の夜もそんな感じだった。
素面だと考え込み過ぎてしまうのが目に見えているから酒を飲んでしまう。

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もうちょっと上手いこと調整してくれよと思う。
眠っている間は自分が犯罪者になる夢や、地球の果てまで逃げる続ける夢を見たりするし、落ち着かない。

でもまぁ、同じ脳というハードをずっと使っているのだから仕方ないかなぁと思う。よくよく考えれば、これほど複雑で繊細な感覚を捉えることができる脳というものの寿命が肉体と同じように90年くらい持つのは凄いと思う。

僕は28歳で、脳も当然28歳だ。
昔のことも昨日の事も去年のことも覚えている。過去のことを覚えているあまり、未来のことを思い出すような感覚(デジャブ的なやつ)も頻繁に起きる。だからバグも仕方ないのかなぁと思う。

部屋を見渡してみても28年も使い続けているものはない。
このパソコンは4年前にヨドバシカメラで買ったものだし、
木の机は中学生の時に買ってもらったものだ。

一番長く使っているものといえば、このお茶碗である。
僕の一番古い記憶の中にある。
初めて白ごはんをたべたお茶碗だと思う。
少し欠けてしまったが、やすりで整えて使っている。

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しかし、お茶碗は脳ほど繊細な機能はない。
お茶碗は待機時間が圧倒的に長く、ただそこに存在しているだけでよく、タスクは熱々の米を受け止める。の一点である。

脳ももしかしたら、とても複雑で高度なものであるように見えて、実はただ敏感なだけで、何も考えていないような気がする。そうでないとこのバグの量や不自然なくらい長い耐用期間に納得できない。

そう思うことにしよう。
脳はただ敏感なだけのやつで、機能としてはお茶碗が米を受け止めることしか出来ないように、「ただ敏感に反応しまくる」が脳に出来ることなのだと思おう。

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