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#044 金木犀

わたしは自分が生まれた季節が好きだ
特にこの季節に香る金木犀という花が好きだ

キャビンクルーとして毎日に追われ 体も精神も疲弊しきったある年の9月
わたしは会社を辞めた
自分の夢に自ら終止符を打った年のことだ

会社を辞めてから数日 26度目の誕生日を翌日に控えた日
その日の朝はベーカリーに勤める友人がお裾分けしてくれたパンを温めて食べた
インスタントのコーヒーも淹れて

クルー時代にはあまり持つことのできない時間だった

さほど広くもない一人暮らしの部屋には香ばしいパンとコーヒーの香りが広がる 

その日はとある場所に行くと決めていた 25年を自分なりに生きぬいてきた そんな自分を労うために 自分一人で自分だけのために時間を使うことにした

最寄駅から普段よく利用する電車に乗って揺られ 数駅行ったところで普段は乗らない電車に乗り換えた

その電車は都心から北へと向かい わたしが辿り着いたのは初めて降り立つ街だった

駅を出ると団地の景色が広がる 駅からのプロムナードを進むとどうやらそこが目的地のようだった


<金木犀 スポット 東京> 
あらかじめ検索して調べていた場所 ここは東京練馬区の光が丘公園である


公園の敷地をゆっくりと散策しているとあることに気づく
あの香りがどこからも漂ってこないのだ

これはもしや

遅かった

金木犀の最盛期はあらかた決まってはいるものの 時期が早まることもあり 自分の誕生日の頃まで届かない年も多い
その年も例に漏れず この日25歳の締めくくりにあの香りを堪能することは叶わなかった


目的を失ってあたりを見回すと公園にはたくさんの人がいる
レジャーの秋 を満喫する人々で溢れかえっているのだ

サッカーをしたり スケボーに乗ったり ストライダーにまたがる子供たちもいる
それを楽しげにみている親たちの笑顔もまた そこには溢れている

みんな幸せそうだ

金木犀を諦めたわたしは その幸せそうな光景の全体を感じたくなり それらを見渡すことができそうなところを探した 広場の階段になっているところがちょうど良さそうであった

そこに腰掛けてカバンからティファニーブルーの手帳を取り出した
毎年買っている高橋の手帳だ ページをめくりまだ何も書かれていないノート欄を開く

ペンを取り出しこの情景のことや今日の自分の感情を書き残していく

わたしはわたしのためにここへきて わたしのためにこの場所に座っている そしてわたしのために今を書きとっている


求めた香りはなくとも ここに自分を大切にできる空間を感じられた
それは エッグタルトが食べたくて出かけたマカオや バラの香りを求めて目指したブルガリア 世界遺産の旧市街に焦がれて飛んだエストニアなど 過去の一人旅で得た空間と同じである

目的は達成できたり できなかったり それでも自分のためだけに目指したその空間では 必ず自分を幸せにする何かがあった

夢を手放して 今度こそ一人きりになった自分 それなのに清々しい気持ちでいた

好きな仕事を辞めてやったぞ わたしはこれだけじゃないんだぞ これからもっと自分を色々な世界へ連れ出していくんだぞって そう決めた秋のこと


あれから10年近い年月が経った

あの頃の自分が思うほど遠くへはきていないように感じる
本当はもっともっと遠くへ 自分が想像できないような自分になっていたかったはずだ いつまでも大人になりきれないでいるような自分だけど あの頃の自分と比べてみると 自分を大切にできる空間を知っているということは ある意味で大人になったと言えるかもしれない


誕生日を過ぎた頃 庭であの香りを見つけた 少しの間あの香りに身を寄せる そうしてわたしは大切な空間をじっくりと堪能した


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