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「成長」のニュアンス

拙著『かんもくの声』には成長という言葉が頻出するとのご指摘をいただいた。確かに。

成長と聞くと、キリのない上昇志向や変化を強いられる印象があるけれど(たぶん、だからあまりこの言葉を使わない人たちもいる)、『かんもくの声』が言うところの成長はちょっとニュアンスがちがう。今回はそのニュアンスを何とか説明してみる。

人には、人と関わりながら生きるつみかさねのなか、自分でも気付かぬほど自然と磨かれていく部分がある。会話やコミュニケーションや友だちをつくる方法、集団でのふるまいといった(これを、いわゆる社会性と呼んでよいのだろうか)何とか他人とやっていく力のようなもの。しかし、場面緘黙で話せないと、生活/人生から人との関わりが抜け落ちて、あまりにもその部分の成長が留め置かれてしまう。磨きたくても磨けないし、磨けないままに生きていることが大きな負担でもある。

だからこそ、後の自分の変化・成長をめちゃくちゃビビッドに実感する。

成長という言葉では生ぬるいほど、長年止まっていたものが動き出したと、人と関わることができるようになり始めた頃の私は感じていた。前よりほんの少したくさん話せたこと、自分の素を出せたこと。とてもとても時間をかけて、子どもの私の止まっていた部分が成長したんだと思う。人は成長したい本能を持っている。だから、できれば自然のままに、まわりと同じような速度で、成長していたかった。

場面緘黙であっても話せるようになりたいと思っている人は、きっとたくさんいる。社会の側が変化し話さずとも暮らせる環境になったとしても、やっぱり話せるようになりたい気持ちはあるんじゃないだろうか。そして、話せるようになったら今度は徐々に人と関わってみたいと、自然とそう思うだろう。社会に変わるようはたらきかけることと同時に、当事者が関わりたい・変わりたい本能を行動に移すことも大事で、変える(社会)/変わる(個人)の両輪、あるいは相互作用が、生きづらさ軽減には必要と思う。私自身、ある程度動けるようになってはじめて、自分も成長できるのかという驚きがあった。

また、場面緘黙の人たちはとくに集団での体験的な苦労を通じて成長する機会を得られにくい・避けてしまいがちだからこそ、自分自身で見出したスモールステップを自ら設定したり、課したりして、自分の力で成長を得ようとすることもあるし、また現状ではそうせざるを得ない面もある。

いずれにしても、人としての本能や自然な欲求としての成長を私は意識していて、促されるものや強いられるもの、自分以外のもののために目指すというニュアンスではあまり使っていない。

人から「もっと伸びる」「成長したね」と言われると何だか抵抗が湧くけれど、自分で自分の成長を認めたり実感したりするのは快い。自ら成長先の見定めをし、それを信用して動くのも大事な生きる力だ。思わぬ失敗をすることもあるが、傷と引き換えに意外な発見や気付きを得て、意図せず成長できることもある。なくすものもあるかもしれないけれど、できることが増えるのはよろこばしい。

私にとっての成長は、その時々の判断に沿った歩みを振り返ったときに、感じられる。自分で決めて飛び込んだ先の自身の変化を、成長と感じられるようになることが大事なのかもしれない。


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例えば、学校で理不尽な我慢をし続けることは成長にはならないけれど(私はあまりにも学校で理不尽な我慢をし続けてしまった気がするが)、自分で決めて体験したことは成長につながると思う▼


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