4年が経って、これからについて。

愛知の実家に一カ月弱、居候状態だ。
戻るつもりはある、がしかし戻る気が湧かないし湧くまで戻るつもりは無い。

よく言う充電期間みたいな物だと思う。
“知人”とその“知人”誘われて入った会社が潰れた、ドタバタしてるうちに心の余裕が無くなり、そんな時に友人との関係のトラブルに飛び火して、もう手を付けられない負の連鎖だった。

余裕が無い時の行動は友人や家族など、自分を支えてくれてる人にとっては悩ませてしまうだろうし、傍迷惑な話だと思う。東京を自転車で抜け出して、故郷で休養をする事にしている。

高校卒業後、上京した。当時はコロナウイルスが流行り始めた春で今改めて知った東京よりは”穏やか“だった。

どの街も今よりは人が少なく、渋谷や新宿、銀座を田舎者が街ブラするには丁度良い”ソーシャルディスタンス“だったと思う。

2024年の渋谷や銀座で土日に出歩こうとは思えない。何せ人が多すぎる。

写真の専門学校に通っていた時は、作品制作で街中の写真を撮っていたから渋谷や新宿など人が居る場所に行きカメラを構えていた。当時も友人を撮ったりしていたが、不安障害で電車に乗ると動悸が出る様になって人混みが得意じゃ無くなってからは、友人を撮る様になった。

僕が一番最初に作品を作り始めたのは、片思いみたいな物だったと思ってる。高校時代にカメラを買い写真に出会ってから、創造する事への憧れが叶う手段が写真を撮る事だった。

特定の時代を過ごした人にしか分からないだろうが、SNSを通じて同じ感覚を持った人間と知り合う事が出来た。

当時はインフルエンサーの様な人も居なかったし、金銭的な利益に繋げると言うよりはもっと原始的な情熱を共鳴できる相手を探す為にって感じに近かったと思う。

高校時代、僕は通信制に編入した。
バイトを週4くらいでしてたけど、それでも普通の高校生よりは身動きが取れた事もあって平日休みの社会人や通信制の友人と写真を撮りに色んな所に行った。

一回だけしか会って写真を撮らなかった人も居るし、今でも会ったりする友人もいる。

数えれる限りでも5、60人軽く超えている。
それも全部Twitterの写真が好きなコミニティで出会った人たちだ。

それが今の自分の作品に対する考え方を形成して行ったのだと思う。

僕の写真はあくまで記録だ。何回も会った人ですら次第に忘れてしまう。それでも写真と日記を見返せばその人との記憶を思い返せる。

そしていつか見返して苦しくなるとしても、思い出したい人をその時に見つけたのだ。



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