知識:感情∽愛:対話

「知識と感情」の関係は「愛と対話」に相似する。

知は愛の一形態であり感情が高ぶれば(それが恋であれトラブルであれ)コミュニケーションも多くなるので似通うのは自明だが、その関係は「知識があるほど怒りが増す」「愛があるほど会話が増える」等と言えるほど単純なものではない。
「横軸に知識量、縦軸に怒りの強度」或いは「横軸に愛の深さ、縦軸に会話の頻度」を取ると、基本的にはどちらも正規分布のように中央が盛り上がった山型になる。

以下、その詳細説明。


「知識と怒り」
例えば、とある事象に対して無知の時、人は全く怒りを感じない。事態が明らかになるにつれ怒りを覚え、知れば知るほど怒りが増し、最も中途半端な知識の時、怒りはピークに達する。
更に知識が増え理解が進むと、「起こるべくして起こった」と悟り物事の本質や有効な打開策も見えてくるので、徐々に怒りは収まってくる。最終的には、神視点(犯罪なら加害者当人目線を含む)で事の経緯・次第を俯瞰できるようになる(全知)ので、全く怒りを感じなくなる。
つまり、怒りは無知(厳密には半知)の表れ。同じ事は、喜びや驚きなど他の感情にも言える。熱しやすく冷めやすいタイプの人はピークが左下に、熱しにくく冷めにくい人は右上に来る。

一方。

「愛(寛容・親密・理解)と対話」
愛が最も中途半端な時、情報の共有化が促進され議論も白熱する。愛が減じれば意思疎通は少なくなるが、愛が深まる場合も、阿吽の呼吸で通じ合うコンビや老熟した夫婦のように、やはりコミュニケーションが最小限になる。
人見知りだと赤の他人には挨拶も交わさないが、愛がある人は見知らぬ相手にもフレンドリーに接する。前者の分布のピークは平均より右に寄り、後者は左寄りになる。
「相手をもっと知りたい欲求があるうちは恋(分布の左半分)、それが相手を守りたいに転じれば愛(右半分)」とも言える。つまり厳密には「無関心は恋の対義語」。所謂「愛の対義語は無関心」は、正規分布の左半分に限った話である。

なお横軸が「心身の健康度」、縦軸が「執着・欲求の強さ」でも同じく正規分布状になるが、この論拠詳細はいつかまたそのうち🙄

以下、弊サイトより抜粋。

世界・外界はそれを見る者の心・内界を映す鏡。世相言葉服装風紀の乱れや善悪正邪清濁美醜利害優劣はそう感じる本人の自己投影。
感情の強さは知識量増に伴い正規分布を描く。無知全知は0。最も中途半端な理解度の時、人は最も強く憤怒悲嘆恐怖苦悩感動歓喜。

感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。
執着するほど感情も強まる。新たな体験に必要なのは新たな知見。諸問題解決に、学校では教えない感情自己責任論をご活用下さい。

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