カタコト日本語を批判する人の心理
単にユーモアのセンスがないのか、或いは「批判の為の批判」か。いずれにせよ欺瞞的だ。
>「マジョリティーである日本人が、日本語に不自由な外国人を侮辱している」「片言の日本語を面白おかしくネタにするのは外国人差別だ」
そのように解釈する人自身が、内心では「カタコト日本語は侮辱され得る・からかいのネタになる」と思っているからこそ、そう感じているに過ぎない。自己投影による同属嫌悪。
>「公党の代表が、日本政治から疎外されている外国人を模して投票を呼び掛けるというのは、日本で暮らしている外国人の現実や思いに対してあまりにも無関心で配慮に欠けるものであると言わざるをえません」
「日本政治から疎外されている外国人を模した」ものではない。被害妄想。
>「巷(ちまた)で流行している文脈はそうであっても、公人がカタコトのマネをするのはまた違う文脈が生まれるのだ、という指摘は重く受け止めお詫(わ)びいたします」
その文脈を生む原因は解釈する各人の固定観念であり自業自得・自己責任なので、お詫びする必要はない。過剰反応。
自身の偽善に無自覚な反差別主義者も低水準教育の犠牲者。
義務教育で哲学や心理学を教えないから、先見力協調性適応力自制心倫理観論理力EQ各種リテラシー問題解決力等が低くなる。
以下、弊サイトより抜粋。
感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。
肉体的苦痛の原因は加害者でも、精神的苦痛の原因は被害者本人の固定観念にしかない。因果を誤認する限り争いや苦悩は止まない。
どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。
反差別の裏には差別心が潜む。例えば異属性間の収入格差を論うのは「高給者ほど偉い尊い」等の職業差別拝金主義の表れ。
同じ人間なのだから属性の区別比較も必要ない。下駄履かせは逆差別で偽善。追求すべきは結果平等ではなく機会平等。
差別を批判する人ほど差別している5 note.com/kanjoj/n/n1a0fcd14f9b8