無縁仏を恐れる心理

墓参りに熱心な人ほど、自分が無縁仏になることを怖れる。

「墓があるから参拝する」は、裏を返せば「墓のない祖先は割とどうでも良い」ということ。名も知らぬ遠祖に対する想像力・尊崇の念が欠けている、とも言える。
つまり心のどこかで「無名・無縁であること」を軽蔑・差別しているから、同じく自身が無縁仏になることを怖れるのだ。

文字が彫られた石への固執は、宗教に洗脳されている自覚がない証拠でもある。
現世で既に孤独感・寂寥感を拭えず承認欲求が充足されていないので、墓という「死後の自分の生きた証・存在価値を示すせめてもの象徴」が欲しいと感じる人もいるだろう。

だが生命は、身体が使い物にならなくなればいずれ土や風に還るのが自然。一部は、また別の生命を形成・維持する為に使われる。その意味でも、我々は誰一人無縁な存在ではあり得ない。

個人的には、葬式も墓も不要だ。既に遺書にも認めてある。自分の遺骨が粉々にされトイレに流されても全く気にならない。地球そのものが巨大共同墓石なのだから。

人々が既成の宗教観から解放され柔軟に考えられるようになれば、各課題も解決するだろう。戦没者や災害被災者の遺骨を探しに行く必要もなくなる。

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