「さす九」も表現・言論の自由

>一方で、「ネット民からの九州差別が苦しい」という声も上がりました。

一部と全部の区別がつかない者の無知・偏見を真に受けるから、苦しくなる。真に受けなければ良い。「さす沖」「さす北」「さす四」等々も同じ。

>なぜ、その土地に生まれて生活しているだけでここまで言われなければいけないのか。

その土地に生まれて生活しているだけで「自分にも言われている」と拡大解釈するからである。裏を返せば、自らを地域の代表などと自己肥大化している証拠。

以下、引用は小沢一仁弁護士。

>女性だから大学に行かせないというような事例が他の地域と比較して多くあるのであれば、そのような事実に基づく意見論評といえるでしょうし、そのような事実もないのに九州地方を揶揄しているのであれば合理的理由のない地域差別といえる

仮に事実があっても、「一個人・一家庭の慣習・傾向」を「地域全体の慣習・傾向」と見做す時点で既に不合理であり地域差別。事実の有無は、「主張者の偏見度」が表れる程度問題に過ぎない。

>これを地域という観点から論じること自体が問題の本質から目を逸らすことになるのではないかと思います。

ここはその通り。故に、本質に目を向ける為に、より大枠の地域の問題とすれば良い。海外から見れば「さす日」となる。

>その地域で生活している人たちの気分を害することにもつながりかねないので、

気分を害したとしても自業自得。差別的発言自体は表現・言論の自由。論拠詳細は幣サイト。


以下、弊サイトより抜粋。

どんな情報もその取捨対処は受信者の自由。解釈の自由にも責任が伴う。解釈の結果(誤解不快等)の原因は発信者にはない。
未熟な解釈者ほど己の選択結果を表現者に責任転嫁。他者に不自由(規制等)を与えるから自らも不自由(怒り等)を得る。

自由度多様性の高さは精神成熟の証。最大限保障し問題の早期発見等に活用が吉。民度の低い集団ほど不都合な存在を嫌悪排除。
差別用語の規制は「その用語で差別可能」を却って固定化強化。言葉狩り表現狩り臭い物に蓋は問題を長期化させるだけ。

一部個人個性と全部集団属性を同一視する「森を見て木を見ず」やその逆は差別の一大特徴。排除の論理では問題解決しない。
差別ヘイト蔑視は共感力適応力問題解決力の低いコミュ障の内集団バイアス。目的は劣等感情緒不安の払拭。原因は低水準教育。

感情を含むあらゆる体験の根本原因は体験者自身の固定観念自分ルール思い込み先入観。それが変わらない限り似た体験を繰り返す。
執着するほど感情も強まる。新たな体験に必要なのは新たな知見。諸問題解決に、学校では教えない感情自己責任論。

犯罪者予備軍や人格障害者ら心を病んだ不幸者無教養者は皆いわば一次被害者。彼らを救済しないから二次被害が発生。
低水準教育の犠牲者に必要なのは憎しみ(情報遮断・処罰・排除・放置)ではなく愛(情報共有・高水準教育・精神治療・救済)。

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