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倫理揺るがす「人工脳」:脳オルガノイドとガストルロイド・生命科学の限界線どこに

生命科学技術は驚くべきスピードで展開している。今回はその最前線を紹介して、人間の生命に食い込むテクノロジーをどのように考えればいいのかを探ってみたい。

発生生物学者のM・ランカスターらのグループは人間の皮膚の細胞から人間の脳を作成し、2013年、英科学誌ネイチャーに論文を発表した。この脳のサイズはかなり小さく「脳オルガノイド」と呼ばれる。妊娠9週の胎児の脳に匹敵する脳が、すでに数百個作成された。シャーレの液体の中でクラゲのように揺れる脳の姿は衝撃的である。

まず人間の皮膚細胞を幹細胞化して、その胚を発育させ、途中で飢餓状態にさせると、脳細胞以外は死滅する。残った脳細胞を3か月育てると、皮質・海馬・小脳が形成され、脳の電気的な活動が現れはじめる。この人工脳は思考活動を行っていないと彼らは考えている。なぜなら、まだ脳神経が外部と接続されていないので、情報を処理する能力がないからだ。

彼らの目的は意識を持つ脳を作ることではない。生きた人間の脳を使って成長過程を詳しく調べたり、病気の原因を解明したりしようというのである。彼らは人工脳の遺伝子のいくつかをチンパンジーの遺伝子に置き換えて、チンパンジーと人間のハイブリッド脳を作成した。遺伝子のふるまいを観察することで、人間の脳の特殊性を調べることができる。人間の自閉症の人工脳を作る研究もおこなわれた。

現在、脳オルガノイドの研究は世界中で進んでいる。この人工脳を外部の機械と接続したらどうなるかというのは、誰しもが考えることだろう。これ以上進んではいけないラインがここに存在しているように思える。

今年6月には、これを反転させたような興味深い研究がネイチャーに掲載された。発生生物学者N・モリスとM・アリアスらのグループは、人間のES細胞の塊を育て、三胚葉の段階まで進んだ人間の初期胚のような存在を作り出した。この存在には頭と尾部を貫く軸があり、人間の身体の基本的な青写真が形成されている(臓器は未形成)。この存在は「ガストルロイド」と呼ばれる。

不思議なことに、ガストルロイドには、将来人間の脳を形成するはずの細胞が当初から欠けている。したがって、ガストルロイドを用いた研究には、人間の胚のような倫理的問題は生じないと彼らは言う。

体外で作成された人間の胚(受精卵)を14日を越えて生存させることは禁止されているが、ガストルロイドは人間の胚ではなく、人間のES細胞の塊を育てた存在にすぎないから、14日ルールは適用されない可能性がある。彼らは、ガストルロイドは人間の胚の成長を研究するモデルになり得ると考えている。

脳を欠いた人間の初期胚のような存在が人工的に生み出されたことの意味は大きい。将来、ガストルロイドをさらに大きく成長させることができるようになれば、倫理的問題を気にせずに、いろいろな実験に使える可能性があると私は想像する。たとえば、脳オルガノイドとガストルロイドの結合実験などである。ここにも、これ以上進んではいけないラインがあるように思われる。

研究者たちの目的は、胚の成長メカニズムや病気の原因を解明することである。ではいったい何が問題なのか。それは次の三つ、すなわち、(1)脳オルガノイドのように、人間が人間の細胞を用いて意識ある存在を作り出す一歩手前まで来ていること、(2)ガストルロイドやハイブリッド脳のように、人間の細胞を用いて人間ではない生命存在を作り出したこと、(3)侵襲度の高い生体実験のように見えてしまうこと、である。

しかし科学の側に立ってみれば、倫理規則にのっとった研究を、単なる感情で拒否するほうに問題があるということになるだろう。生命の尊さが棄損されているように見えたとしても、それは科学の進歩についていけない感情がそう思わせているにすぎないのだ、と。すなわち試されているのは、感情をかき乱される一般市民の側であるというわけだ。だが感情や安心感は倫理の基盤の一つであり、けっして無視することはできない。科学の発展に限界線を引くぎりぎりの議論がいま求められている。 (終わり)

* 共同通信配信で2020年9月に地方紙に掲載された記事。

* 生命科学の先端はここまで進んだ。脳オルガノイドがシャーレの中でクラゲのように浮かぶ動画を、以下のBBC記事の「How to grow a mini brain in a petri dish」の動画で見ることができる。一見の価値があるのでぜひ見てほしい。オルガノイドを用いる研究はすでに生命科学の通常の研究手法になっている。ただし、人間の脳オルガノイドやガストルロイドをどこまで作成していいのか、研究材料にしていいのかという倫理的問題はまだきちんと議論されていない。今後の大きな問題となるであろう。記事を書くにあたって、日本語原稿を英訳してガストルロイドの研究者モリス氏にチェックしてもらった。そのときに新聞掲載された美しいガストルロイドの画像をいただいた。着色された画像はひたすら美しかった。

BBC「We’re growing brains outside of the body」
https://www.bbc.com/future/article/20161004-were-developing-brains-outside-of-the-body


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