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「地に足をつける」という事

・はじめに


自分の人生において、目下大事にしていることは「地に足をつける」ということです。この歳にしてこの言葉あり。まさに、いい歳だから「地に足つけて」生きていこう、というあるある思考なのかもしれませんが、自分の中の「地に足をつける」というのはしっかりした収入とか、健康を気にするとかそいういう意味ではないのです。(それもすごい大事)

本来は「着実に進める」という意味がありますが、自分の言葉で、より具体的に言えば、「自分の理想の状態と今の自分の距離感をしっかり見つめ続けて、焦らず無理せず少しずつ行動する」ということだと思っています。当たり前のことのように感じますが、この「自分の理想の状態と今の自分の距離感をしっかり見つめ続ける」ということはなかなかどうして、自分にとっては困難かつ複雑なことなのです。


本日は2つの「理想の自分」と今の自分との距離について、まとまりきらない思いをつらつら書いてみます。("How to"でも、"~すべき~つのこと"でも、"7ルール"的なことでもなく、本当につらつらと思いを書いただけの取り留めのない記事です。)


・自分が作り上げる理想の自分との距離


自分が作り上げる自分の理想像に苦しむということは、生きていればそこそこある現象なのかなと思います。理想の自分なんてのはいつ生まれたのでしょうか。

まだ幼い頃の自分には理想の自分など存在していなくて、その瞬間その瞬間がとにかく大切だったように思います。(将来の夢などを授業で書かされましたが、あくまで外部的な要請で書いていることなのでなんのリアリティもなかった気がします)


小学校高学年から中学にかけて(いわゆる思春期)を過ぎたあたりから、他者の視線を自分の中に取り入れ、社会を意識するようになって初めて、(内在化した他者の視線による)自分が思う自分の理想像のようなものが生まれ始めたのでしょう。自分は中学時代バスケットボール部だったのですが、こういう風な技を決めたらかっこいいだろうとか、試合では勝った方がいいとか、そういうところから始まり、高校に入りバンドを始めた頃も、こういう曲やったらかっこいいだとか、そういった理想を思い描いては実現したりしなかったりという繰り返しでした。(もちろんこれは今振り返ってまとめられた話なので、実際はもっと色々なことを考えていたはずではあります。)


歳を重ねるごとに、この理想の自分と実際の自分の距離が少しずつ開いていくことも感じていました。これには色々な理由があると思います。他者の人生を知る経験や精神的・経済的な自立の必要性などなど、なんやかんや人生のステージを進めば進めるほどに、自分はこうあるべき、何歳までにはこうなっているという考えが大きくなっていくのでした。
理想の自分との距離が離れていくことは、ある程度の距離感まではいいモチベーションになるのですが、距離を見失うほど離れてしまうと憂鬱な気持ちになります。

自分も含め、自分の周りには大学を卒業後3~4年ごろに自分の仕事や人生について悩み始める人が多かった気がします。これはおそらく、学校という短期目標の繰り返しフェーズから、いきなり長期的な視点を持つ必要が出てきたことで、理想の自分と実際の自分の距離が加速度的に離れていくのに対し、3~4年の取り組みでは理想を達成することも、ましてや距離を測ることさえもできずに立ち尽くしている状態だったのではと思います。


一度そうなってしまうと、今までのやり方ではうまく生きることができず、なんとかせねばと思うわけです。転職してみる、趣味を始めてみる、結婚してみる、色々な事をしてみて短期目標の繰り返しフェーズを自ら作ることで前にすすむ方法もあれば、そもそも理想なんて必要ないと諦念をもって悟りを開こうとする方法もあります。自分はとりあえず、遠く離れてしまった自分との距離を測ることから始めました。それは割と辛い作業で、現実の自分の圧倒的不足を認めることから始まるわけですが、一度全てを認めて距離が測れれば、あとは比較的心穏やかに過ごせるので、そういった時間を設けたことは自分にとって良かったと思ってます。


・他者が作り上げる理想の自分との距離


自分自身が作り上げる理想の自分だけではなく、他者によって作り出される理想の自分というのもいるなぁ、としっかり考え始めたのは最近のことです。バンドを始めて自分の作品を世に出したり、姿が多くの人の前に晒されたり、インタビュー内容などが多くの人に読まれたりするようになると、それすなわち自分の片鱗が他者に入り込み内在化する可能性があるということなのです。自分の発言や見た目の一欠片が他者の中に入り込み、その他者の補完により、自分とは実際は異なる自分像がその人の中に出来上がるのです。この現象により他者が作り上げる自分像と、実際の自分はもちろん距離があるわけで、その距離にも翻弄されると面倒だろうなと思うことが多々あります。


そもそも、この現象は音楽家やアイドルや俳優などに限らず、全ての人に起こっている現象です。人一人を丸々他者が理解することは不可能なので、普段の会話や仕草、態度からその人の中身を自分の中で補完して理解するというのは、人間として普通の営みです。しかし、コミュニケーションする相手と直接話したり何度もあったりする場合は、対話を通して他者に内在化した自分を更新する機会があると思いますが、不特定多数にむけての発信となるとそうもいかないわけです。


世間にはそこを逆手にとったビジネススタイルや表現方法もありますね。発信者は自分のほんの一部や誇張した部分だけを発信して、受け取る側がそれをもとに発信者像を作り上げる。その発信者像はほとんどが受け取る側の補完で作られているため、実像とは距離のある理想像であるが、受け取る側それぞれに対してのオーダーメイドの人格であるが故に共感や尊敬、関心が爆発的に広がるというやり方。スタービジネスやアイドル、インスタ映えもこの一端かと思います。

自分はどうもこのやり方が性に合わないわけです。自分とは程遠い存在が不特定多数の中で自分として存在していると、あるときその自分像との距離感が全くわからなくなって、自分って誰だっけと迷うのではと思ってしまう。

しかし、何かを発信する上で、多少なりとも受け取る側のなかに自分とは少し異なる自分ができるということは避けられないことなのです。

自分と他者の中の自分が一致しないというのは大前提でありながらも、その距離が離れ過ぎないような行動を、自己防衛のためにとっています。ラジオやライブのMCでは飾らず素である瞬間を作ろうとしたり、Vlogで普段を公開したり、noteで自分の考えを発表するとことでバランスをとっているわけです。たとえこれが(前述のオーダーメイド人格商法と真逆の)人気とは程遠いやり方であったとしても、自分の心の健康には替え難いのです。つまるところスターの才能がないのかもしれないですね。

いつか他者が作り上げる理想の自分と実際の自分との距離をも楽しめるようになるのだろうか。

ちょっと脱線しますが、SNSで些細なことでも炎上する可能性を秘めた現代、他者に内在化した発信者像がひねくれたり急変することで起きたであろう事件も色々ある中、何かを発信するにおいて油断はしてはいけないとも思っているわけです。


・まとまらないまとめ

つらつらと今思う事を書き続けてきましたが、本日をもって30歳になったわけでして、不安定な世の中で30年間生きながらえたのは、こういう事をうだうだ考えてきたからなのかもしれないと思っています。
これからも引き続き、うだうだ考えながら、色々なことに挑戦していきたいと思ってますので、よろしくお願いいたします。

愛すべき不特定多数の皆様へ



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