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『シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇』は、ありったけの愛を感じさせてくれた。

『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を初日に観ました。
 何を言ってもネタバレになるし、自分の心からドロドロと流れ出るあれこれをぶちまけるのは木の虚の中だけにしておこうと、日記的にまとめておいたり、友達とクローズドなところで話したりしていたのですが、それでも巨大感情が溢れてくるのが『エヴァ』のすごいところ。

 もうネット上にはテキストでも動画でも『シン・』の感想がたくさん出てきていますね。25年間続いた作品で年月の重みを感じる。視聴者のATフィールドをぶち抜いて槍を刺してくるアニメだし、庵野秀明のぶちまける気持ちがなぜか自分の心とシンクロしてしまって感情を刺激してくるのです。

 どんな感想を言っても、そこに観た人の感情や人生観のようなもの、『エヴァ』とどう向き合ってきたかがにじみ出てきてしまう。

「“自分は”エヴァを観てこんなことを感じたんだ」というナラティブを引き出してくる。恐ろしい作品ですよ、ほんと。

 僕自身は2006年あたりに初めてTV版である『新世紀エヴァンゲリオン』に触れて、そこから旧劇場版『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を観て、新劇場版は公開に合わせて映画館へ行っていた……という感じの付き合い。年代的にTV版リアルタイムではないけれど、それでも15年の月日。ちょうど、新劇場版:破からQで流れた時間と同じくらい……そう考えると実生活ともリンクする部分がありました。

 ではここからはネタバレありになっていきます。
 まずは『シンエヴァ』を観てください。『エヴァ』に触れた自分とそこから湧き上がってくるナラティブこそが大事なので、まずはまっさらな気持ちで観てほしいです。「シンエヴァを観て俺はこう感じたんだよ」と吐露するまでが作品ですよ。

 映画館で画面を見ながら何度も思っていたのは、「自分はエヴァの最後を観ているんだな。いろいろあったけど、生きてきたんだな」ということ。いろんな出会いと別れ、失敗を繰り返しながら、時にはどんより落ち込んでいても、周りの人たちの助けでなんとか日々を乗り越えてきていました。そんな現実の月日の流れを感じざるを得なかったです。

 旧劇は虚構と現実を繋ぐアンビリカルケーブルを断線させようとする突き放し感がありましたが、『シンエヴァ』は「虚構(アニメ)」と「現実(ジブン)」の架け橋になっていました。

 余談ですけど『シンエヴァ』を観てから、改めて『おおきなカブ(株)』を観たら、しみじみとしてしまった。庵野監督も畑に行ってカブを育ててたのかな。


「全てに決着をつける」物語

 予告で繰り返し言われていたとおり、『シン・』は「全てに決着をつける」物語でした。

 そもそも思い返してみれば、『エヴァ』新劇場版は“リビルド”です。描くことは『新世紀エヴァンゲリオン』の繰り返しだったのですよ。

 庵野監督にとっては三度目の正直。最初のやり直しである旧劇場版『シト新生』から『Air/まごころを、君に』で、一度は決着をつけていたのですけど、たどり着いた終劇は「気持ち悪い」でしたからね。人類がLCLで溶け合って、魂の混ざり合った単一の存在として自他境界がない世界になっていくのを、シンジが拒絶して、絶望なんだか最後につかみ取った希望なのかわからんエンディングになってしまっていました。

 あの旧劇で起こしたインパクトに、庵野監督は落とし前をつけにいった。そして、庵野監督がもうエヴァに乗らなくて済むようにするために、「さようなら、全てのエヴァンゲリオン」と、あえて強調して言った。終わらせる意志を強く強く感じていました。

 旧劇場版は「甘き死」が来て、「tumbring down」して絶望へと転がり落ちていったのが、『シン・』では「タンバリン」で元気に歩いて、真実一路の希望に向かっていったのだと思います。アバン1から希望を示していたんだ。


魂の救済

 Aパート、第3村でのシーンは最初こそ「一体、何を見せられているんだ……」と困惑していました。でも、これまでの『エヴァ』にあった、ハードなSF的な世界観からは一転した、“ニアサー”という大災害を生き延びた普通の人々の生活が、十分な時間を割いて描かれるのは必至、必然だったのかな、と(たしか、そういう構想があったと、どこかに書いてあった)。

 そして、Qでの断絶とカヲルの死による急性ストレスで失語症になっていたシンジの快復に必要な時間であり、アヤナミレイ(仮称)の心の形成を描く時間でした。どうしようもなく愛おしくなる時間。シンジを気遣うのは、すでに14年の月日を重ねて大人になったかつての級友たちというのも良いし、つらい。心も身体も子供のままのシンジと、すでに大人になり、人々のために働き、結婚したり子供がいたりするかつての友人。ここは同窓会か何かか? やめてくれ。『:序』から14年経ってるぞとか言わないで。

 大災害に遭ったあとでも、なんとか日々を生きている人々の営みの、なにげない日々のやりとりの中で、“言葉”の意味をヒカリから教えてもらうレイのそっくりさん。彼女が自分の名前を考えていくような、自我を芽生えさせていく描写もとてもよかった。「私はあなたの人形じゃない」という拒絶的な自我の芽生えじゃないのもいい。

 一方のシンジの「なんでみんなこんなに優しいんだ」と悲痛に叫ぶシーンも、拒絶ではないコミュニケーションの体験として沁みますね。ケンスケのとっていたほどよい距離感の接し方も、安全基地の作り方としてよかったんだろうな。

 このゆったりしたAパートが、過去作とは決定的にシンジの心を変えたのだと思います。それがスッと納得できる作りになっていて、観ている側も救われるような気持ちになりました。


呪縛からの解放

 シンジが決意を固めて初号機に乗ろうとする下りでは、もう涙を抑えることができませんでした。特にミサトの心情。『:Q』では異様にシンジに冷たく当たり、けれど引き金は引けなかったミサト。実は息子を産んで母になっていたミサト。覚醒したエヴァに乗るシンジに「行きなさい!」と言っていたことを、ずっと気にしていたミサト。

 前回までのダイジェスト部分で「行きなさい!」と言った直後に「あなたはもう何もしないで」と繋げているのに笑ってしまったのだけど、ミサトに関してはいろんなコメントでも「行けって言ったな?」みたいに揶揄されているところがあったので、ここでミサトが責任をとって、そして身を呈してまでシンジを守ったのを見て感涙してしまった。

 誰しも感情にまかせて勢いで言ってしまうことはある。それを後になって翻すような言動を取ることもある。一貫性がないと周りから非難されることもある。でも、人間の思考は複雑で、良いとか悪いとか、単純なベクトルの一貫性があるわけじゃない。それはミドリやサクラの言葉からも読み取れることでした。好悪とか善悪とかは別とした、複雑な感情の中で人は判断をしていかないといけない。

 このヴンダー甲板上のシーンはぐっときました。

 そして舞台はマイナス宇宙へ。量子世界に取り込まれた観測者の心理の反射で世界が造られる。ただ、『エヴァ』におけるSF的・神話的な世界観はメタファーでありアナロジーであって、そもそもが庵野秀明の精神世界。

 見えてくるのは「親子関係」をはじめとした対人関係であり、自分の「存在意義」を探すことであり、「幸せってなんだろう」と問うことの表現。

 庵野監督はアニメの表現がコミュニケーションの手段であると言っていました。ここでの表現が観ているファンとの対話だったのだな、と。

 碇ゲンドウというキャラクターは、父親であり司令であり愛する人を亡くした男です。人類全体を巻き込んだ計画に乗じて亡き妻と再会することに執着して、人間もやめちゃうやばい男です。ゲンドウとシンジの対話は、やっぱり必要だった。バチバチにやり合うことも大事だった。やっと対話したよ。ゲンドウほとんどモノローグだったけど。

 そんな父子対決の中で、特撮やアニメの表現まで伝えようとしてくるのが庵野監督のすごいところ。特撮のミニチュアの街を模していたり、アニメのコンテや原画を取り入れたり、モーションキャプチャやバーチャルカメラも出してきたりやりたい放題。虚構と現実の境目を曖昧にしてくる手法は、メタ的で大好きなんです。

息子と向き合うことで、その中に亡き妻を見出して救われたんだよ、やっと。「そこにいたのか、ユイ」と、息子を見る父親。よかった。

 虚構と現実をつなぐ渚で、唯一庵野監督の中から生まれていないマリが、シンジを連れ出すという展開も納得感がありました。『エヴァ』のキャラクターは分裂した自己だと庵野監督は言っていますが、マリだけは異分子なんですよね。ループを続ける渚カヲルではなく、外部から入り込んだ異分子であるマリがシンジを救う。

 もういろいろ言われていますが、『エヴァ』の呪縛に囚われていた庵野監督を救ったのは、外からやってきた安野モヨコだ、というのがいいですよね。『監督不行届』が観たくなっちゃう。

 幸いにも僕は『エヴァ』のキャラクターのカップリングにはとても納得がいったのでした。恋愛描写は少なく、関係性が変化してるなーと、さらっと描くのがうまい。こういうのが好き。

 何はともあれ、エンドロール後の「終劇」の文字を見て、浄化された気持ちになった。よかった。とてもよかった。


そして、ありったけの愛を

『シンエヴァ』のパンフレットを読んでいて思ったのは、全体的には庵野監督の『エヴァ』なのだけど、その中には演じた声優さんたちの気持ちもふんだんに混ざり込んでいるんだな、ということ。

 緒方恵美さんが脚本時の会議に参加しているが象徴的でした。このほか、パンフレット内でのインタビューは濃厚で良かった。林原みぐみさんがおばちゃん役の人たちと和気藹々としているところや、宮村優子さんがゲンドウに怒っているところや、坂本真綾さんの他とは違うキャラの扱いの戸惑い、三石さん山口さんが母親の気持ちになって涙しているところなどなど。全体を通して声優さんたちがLINEでやりとりしてたくだりが最高。

 アニメ制作においても、庵野監督はアニメと実写の作り方をハイブリッドしたやり方をしようとしているのも画期的。絵コンテを作らずにアニメを制作しようって、考えるのもすごいし実行するのもすごい。3Dモデルをつくって、バーチャルカメラでプリヴィズしてたなんて……。

 そういった実験的なことを取り入れて、かつ『エヴァ』の世界の中で多くのクリエイターの表現を取り入れていっていましたね。統一感がないと言ってしまえばそれまでなのですけど、全体を通してアニメ表現への、ありったけの“愛”を感じたのです。

 これからアニメを作っていく世代へ、『エヴァ』が播種していく。これを庵野秀明がやっているのがいい。

 表現することが庵野監督のコミュニケーションで、そのコミュニケーションで人が繋がり、人が育っていく。まさに『希望』を感じられるアニメでした。

『シンエヴァ』を通して、改めて庵野秀明というクリエイターに興味が出てきています。彼の足跡をたどりつつ、未来に撒かれたアニメの種を見ていき、そして次の『シン・ウルトラマン』も楽しみに待とうと思います。




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