れいわ新選組は、本気で政権を目指すのか~綱領から政党を覗いてみた
小論では、れいわ新選組による政権奪取の可能性を展望します。れいわ新選組が嫌いな人、山本太郎代表が嫌いな人、政権なんてとれっこないと考えている人が読んでも得ることはありません。また、小論は筆者の政治的立場を示すものでもありません。
山本代表に高まる総理待望論
れいわ支持者の間で、山本太郎代表に対する総理待望論が高まっています。ツイッターに「#山本太郎こそ総理大臣に」というハッシュタグをつけたツイートが目立つようになりました。
毎日新聞が2023年7月22、23日に実施した世論調査では、「入閣してほしい人」の5位に山本氏の名前があります。他は自民党議員ばかりです。一般有権者にも山本氏待望論が広がりつつあるようです。
しかし、現時点で、れいわ新選組に本気で政権を狙う気構えがあるのか、かなり疑わしいと思います。小論では、なぜそう感じるのか、何が必要で、何が足りないのかを、論じたいと思います。
体系なき理念、国家像、政策
第一の疑問は、れいわが体系的な理念、国家像や政策を示していないことです。これは歴史の浅いれいわにとっては致命的なミスです。
新しい党を作るということは、他党と違った独自の理念を掲げ、その理念に基づいた国家を目指すということにほかなりません。ところが、過去の連載でも示してきたように、れいわの綱領には、意味のあることはほぼ何も書いてありません。全文は後半に掲載します。
個別にみていきましょう。れいわの綱領には、まず、外交・安保に関する記述がありません。他党と比較すると以下のようになります。
綱領に記述がなく、組織運営のノウハウもなく、知識人のブレーンもいない、たった一人のカリスマに率いられた政党が、厳しさを増す日本の外交・安全保障環境にどう対処できるのか、不安は尽きません。
現状認識についての記述もありません。他党と比較すると以下のようになります。●は日本に対する現状認識、〇は世界に対する現状認識です。
自分たちがどんな党なのか(▽で示しています)、誰のための党なのか(▼で示しています)という自己認識・自己定義に関しても、れいわの綱領はほとんど何も言ってません。
あえて言えば、「国民」という言葉が入ってないところが特徴ですが、そこにどんな含意があるのか、ないのか、判然としません。(例えば「国民」の単語を使っていない社民党は、外国籍の党員を認めています。れいわは入党手続きを定めた組織規則を公開してないので、外国籍の入党を認めているのか不明です)。
税財政・経済政策についても、体系が不明な個別政策の寄せ集めです。資本主義を支持しているのかさえ、判然としません。
この(無)内容では、有権者はれいわについて判断を下すことができません。判断材料を与えずに政権を任せて欲しいと主張するのは不誠実ですから、政権への本気度が疑われるのです。
これは筆者の印象に過ぎませんが、れいわ支持者の中で綱領をきちんと読んでいる人はほとんどいません。他党の綱領と読み比べた人はもっと少ない。ほとんどは山本代表の演説に共感しているのです。書き言葉でなく、話し言葉の力に惹かれているのです。
中には、綱領には書いてなくても、政策集や公約集には書いてあると主張する支持者もいます。しかし、綱領と政策集や公約集とでは重みが全く違います。
政党は、政治理念や基本政策を共有する同志が集まり、その実現を目指す結社です。そして、共有するべき政治理念や基本政策の指針が綱領にほかなりません。だから、綱領とはその党にとって、国でいえば憲法に相当する最も大切な基本文書なのです。
これに比べ、政策集や公約集は、選挙の度に作り替えるような、その時々の方針に過ぎません。綱領が憲法なら、政策集や公約集は「骨太の方針」くらいのものです。
まともな綱領を持たない政党は、まともな憲法を持たない国家と同じです。綱領を持たずに政権を取った民主党が、どれだけ迷走したかは、過去に述べた通りです。民主党が政権奪取時に綱領を持たなかったことを、有権者は思い返すべきでしょう。
ルールブック不要の「山本私党」説
問われるべきは、れいわの綱領がなぜここまで無内容なのかでしょう。
一つの仮説としては、れいわが山本太郎代表の「私党」であるというものです。一人のカリスマ的指導者が、一人の考えで党を率いていくのであれば、綱領はむしろ邪魔になります。「俺がルールブックだ」の方が、やりやすいのです。
実際、政敵には容赦なく厳しい態度で臨む山本代表は、差別発言した自党員への処分の甘さや、議員辞職した水道橋博士の後任を5人の落選者にローテーションで回すなどの対応で、ダブルスタンダードや参政権軽視を批判されました。
「山本私党」のまま、れいわが政権を取った場合、政策でも同じことが起きかねません。綱領で基本理念や政策を縛っていない政党は、権力を握ったときに何をしだすかわかりません。内部統制システムがないのです。
熟慮を欠く言いっぱなし文書説
もう一つの仮説は、れいわは綱領を、政権を担うわけがないという前提で作ってしまった、ということです。その証拠に、れいわの綱領には、熟慮を重ねて練りあげられた印象は全くありません。
綱領全文を見てみましょう。
<私たちの使命>は、具体性がなく、勢いで書きなぐった感すらあります。率直に言って、政党の綱領というより、ポエムです。れいわが政権を取ったときにどんな国になるのかを、これを読んで有権者にイメージしろというのは無理です。
綱領に<当面の基本政策>が入ってくることのおかしさは、過去の記事でも述べました。
中身についても、
など意味不明です。あまりにずさんで、政権などまったく視野に入れていないばかりか、有権者を馬鹿にしているとしか思えないのです。
これは政策集にもいえます。
最新のものとなる2022年参院選の政策集の項目だけを抜き書きすると
と、かつての自民党もびっくりの椀飯振舞が並んでいます。
このためらいのない書きっぷりの裏側には、政権を取った時のことを考えていないからこその気楽さがあるのではないでしょうか。無責任な放言と言い換えることができるかもしれません。
結論として、れいわの綱領や政策集を見る限り、政権を取るための気構え、準備ができているとは思えません。
山本代表の「二つの顔」説
もう一つ気になることがあります。
山本代表の発言からうかがえる氏の政治哲学らしきものには、深刻な相克が隠れているのではないかと思うのです。もしそれを綱領に明記するとなると、はっきりと矛盾が明らかになるような二つの哲学です。
まず一つ目です。
山本代表のよく知られたキャッチフレーズに「何があっても心配するな」があります。氏は次のような演説を各所で行っています。
これは通常の福祉国家の概念をはるかに超えています。綱領には「公務員を増やす」ともあります。国家にカネと人材を集中し、大きな政府によって、国民生活に積極的に介入する家父長主義(パターナリズム)的な国家が浮かびます。
これを政治思想に当てはめれば、「国家社会主義」と呼ばれている考えに該当すると思います。
また、家父長主義(パターナリズム)とは、
とあるように、権力者が相手を一方的な保護の対象とみなすふるまいをいいます。
つまり、れいわ新選組が目指すのは、家父長的な国家が、国民を積極的に「保護の対象」とみなす政権です。保護を与えるということは、国民生活に介入することですから、当然、国に強い権力を必要とします。
ところが、一方で山本代表は、権力者が大嫌いなのです。これが二つ目の政治哲学です。
山本代表の国会質疑から引用します。
発言から見て取れるのは、抜きがたい権力不信です。また、国権の最高機関である国会に議席を持つ山本氏じしんが最高権力者であるという、当たり前の事実についての自覚が全く足りないようにも思えてきます。
そもそも、政党は権力の争奪戦のための組織です。自からが政府の支配をめぐる権力ゲームを戦っている立場なのですから、権力者という言葉を否定的な意味で使うのは、自己否定につながります。投票時には有権者に政治権力の一部移譲を求めるわけですから、それは有権者への裏切りでもあります。
「権力(者)嫌い」が目指す集権国家
この「国家社会主義者」と「権力(者)嫌い」の二つの顔は、れいわの議員に分散して受け継がれています。
「国家社会主義者」の顔を引き継ぐのは、地方自治体の首長や議員やその候補です。2023年4月の統一地方選では、れいわから出馬した議員たちが、判で押したかのように「何があっても心配するな」と演説しています。いくつかリンクを貼っておきます。
一方で、「権力(者)嫌い」は、共同代表である大石あきこ氏が継承しています。
この人も、自分が国権の最高機関の座にある最高権力者であるという自覚は全くありません。
さて、ここからが問題です。権力(者)嫌いが政権を取って、かつ、国家社会主義的な集権国家を志向したときに、何が起きるのでしょうか。
権力(者)嫌いを優先させて、自らの権力行使に抑制的になるのでしょうか。それとも自分たちはこれまでの権力者とは違うという認識のもとで、強大な権力を思う存分振るおうとするのでしょうか。
もちろん、わかりません。しかし、すでに指摘したように、今でも山本代表と大石共同代表は、自分が権力者であるという自覚にまったく欠けているのですから、後者の蓋然性が高いのは自明でしょう。
とすれば、その時に何が起きるのかも、考えておく必要があるでしょう。
ドイツの”成功例”に学ぶ
歴史を紐解けば、「国家社会主義」を標榜する政党は複数ありました。例えばフランスには1903年に、イギリスでも1916年に「国家社会主義党」が結成されています。いずれも社会主義とナショナリズムを結合させたのが特徴です。日本にも明治期に同様の政党があったようですが、これらの政党は、大きな力を持ちえませんでした。
政権を獲得するに至った成功例はドイツです。
1919年に結成された「国家社会主義ドイツ労働者党」は、国民の圧倒的な支持のもとで、1933年には政権与党となり、1945年まで政権を担当しました。ナチ党と呼ばれることもあります。
れいわ新選組と似ているのは、この党が演説を重視したことです。これについては、党トップの思想が色濃く反映していました。
また、綱領を軽視した点も、れいわ新選組と共通しています。
ナチ党は、1920年には25条からなる綱領を発表しましたが、1926年に綱領に関する議論をするのを禁じてしまったのです。その理由は、
だといいます。内部統制をあえて利かせない仕組みだったのです。
もちろん、国家社会主義ですので、政策も似ています。ナチ党が25条の綱領で目指したのは、格差是正を狙った国家の積極的介入による再配分政策でした。
「サルにマシンガンはいらない」
れいわ新選組が政権を取り、公務員を増やし、国債を増発して、国民全員が「何があっても心配しなくていい」政府を作ろうとしたとき、多くの反対論や疑問点や懸念や批判が巻き起こると思います。
財源を消費税には求めないでしょうから、法人税増税は必至でしょう。産業界は当然、抵抗します。無理に国債を増発すれば、財政への信認が失われ、超円安や高率のインフレに見舞われかねませんし、それより先にマーケットが反応して、金利上昇を招くでしょう。日銀だって抵抗するので、その間隙をつかれ、金融市場が大波乱に見舞われるかもしれません。
これ以外にも、野党の攻撃や官僚の不服従、海外当局への説明、メディアの批判・・・どれ一つとっても、まともな綱領もなく、組織運営のノウハウもなく、知識人のブレーンもいない、たった一人のカリスマに率いられた政党には簡単には超えられないハードルです。
その時に、れいわ新選組がナチ党のような強権的な手法に訴えないためには、まずは組織政党の体を整えることです。カリスマ支配ではなく組織の支配に指導原理を改めるとともに、そうした原理も反映させたまともな綱領をきちんと作り直すことです。
れいわ新選組の設立は2019年4月1日です。そこから国政に議席を確保し、地方選挙にも進出したのは、並大抵の努力ではなかったはずです。
しかし、国政政党は健闘するだけでは意味がありません。政権を目指さない野党に存在価値はありません。批判のための批判しかしない野党を存続させる余裕は、今の日本にはありません。
端的に言って、れいわ新選組は人気先行で、中身が全く追い付いていません。とにかく一日も早くまともな組織政党になる必要があります。
「サルにマシンガンを持たせるようなもの」という言い方があります。準備不足のままに強大な権力を握った政党は、何をしでかすかわからない怖さがあります。
まずはそうした不安を取り除いてほしいのです。その後、本気で政権を取りに行くべきだと思います。
なお、家父長主義とリベラリズムについては過去にも書いていますので、参考に貼っておきます。
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