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本気で生きているか

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人生の在り方について問うています。なぜ、人は生きるのか。何のために生まれてきたのか。なぜ、この時代にいるのか。みんなの素直な思いを共有して下さい。
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2022年9月の記事一覧

「動いている世界」と「動かされている世界」

「動いている世界」と「動かされている世界」。物事は、必ずこの二面を持っている。従って、物事をどちらか一方のみを基準として捉えて判断すると、痛い手落ちが伴う。これは人間にとって、極めて重要な観点。「動いている世界」は、目に見える。「動かされている世界」は、目に見えない。人間は、目に見えているものだけが全てだと勘違いしている。これが物事を一拍ずらして見てしまう原因。ピントが合っていないのだから、出る結果もピントはずれのものになる(人間界ではピンとが合っているように見えているだろう

私利、私欲、私情

「私利・私欲・私情」。人間、これによって没落する。但し、この欲がないと生きられぬのも人間。始めは、この私利、私欲、私情が優先され、見栄っ張りにふるまう。これ若気の至り。しかし、長く続くことは決してない。即ち、うちに失敗、大こけする。これでいい。しかし、ここからが大事。なぜ、失敗したのか猛省し、大いなる気付きを得、行動を変えられるか。失敗には原因がある。因果応報の世界。やったらやられるの世。もし失敗して、命を失うようなことがあれば、それ相応のことをしてきたということになる。事が

そればかりを考えている日常であれば、全てを一からやり直した方がいい。

信ずれば救われる、たくさんのお布施をすれば願いを聞き入ってくれる、祈れば極楽浄土に行ける…。このような話は迷信。一切ない。付いていれば誰かが何とかしてくれる…そう、国や政府、勤めている会社、地位や権力のありそうな人、声の大きな人、力が強くて助けてくれそうな人、お金を持っていそうな人、人気のありそうな人、血のつながった人…これらにすがっても何も起こらない。寧ろ、自分の気力と貴重な機会を吸い取られるだけ。苦労や困難から逃げ、何か楽で安易な救済方法はないものか…そればかりを考えてい

人生、信頼がものを云う

「信頼」とは何か?人間社会では、「信じて頼りとすること。信用して任せること」という意に解釈されている。“信”を見るならば、真実で偽りのないこととされる。また、友情に厚く、人を欺かないこと、誠実なことともある。更に云えば、真理を信じ悟ることにより、心が清らかに澄みわたるという意でもある。一方、“頼”とは、「よる」、「たよる」「たのむ」「たのもしい」「得る」「よい(善)」「さいわい(幸)」となる。従って、「信頼」の本来なる意、実相ではどう解釈するか。それは、真理を信じ悟ることによ

だから一向に前に進まない。

人間は皆、重き荷物を荷車に乗せ、坂道を登っている。大きな荷車もあれば、小さなものもある。その荷物もそれぞれの事情によって重いもの軽いもの大きなもの小さなものを積んでいる。荷物は、意図したもの、意図していないもの、厄介なものもあれば、宝だと思い込んでいるものもある。そして長く積み重ねてきてしまった悪事や罪もその中に含まれている。人間それぞれが思い思いに荷車に荷物を積み込んでいる(または持たされている)。人生は、その荷物を運ぶことが目的ではない。正しい目的地に無事に到達することを

なぜ、この世に生まれたのか?

なぜ、この世に生まれたのか?それは己が未完成だから。即ち、人として未熟であるが故に、“間”に生きることで、人生のやり直しをさせられている。建て前としては、自ら手を挙げて、人生修行の道を選び、生まれてきていることになっているが、真実は否。あまりにも酷く魂にこびり付いている積年の垢を、此の世で落とし清めることを強いられている(大概が、反省が足りず、やり直しの機会すら与えられないであの世に留まらせられている)。ここで重要なことは、“良心”の存在。良心とは、善悪を弁え区別し、正しく行

勝手に決めて、勝手に変えて、簡単には止めれないもの

やっと抱いた、見つけた人生の“志”(こころざし)。心に決めたこと。“志”とは、心が、人生の目的に向かって動くこと。立てた信念。それは、この実相において、自分だけのものではないということを推して知るべし。即ち、己で勝手に決めて、勝手に変えて、簡単には止めれないものだということ。従って、勝手に自己流で答えを出すことも出来ない。それほど、人生の“志”とは、神聖で偉大で大事なもの。己が志を成し遂げるか否かで、全宇宙の進化向上に影響が及ぶ。「そんな厳しいこと言ったら、何にもチャレンジな

“下積み”と言われる仕事は、実は

“下積み”と言われる仕事は、実は下積みではない。それは、誰もやりたがらないこと。きついし、その上、無理ばかり要求されるし、小言も言われる。にも拘わらず給料や見入りは低く、地味で、賞賛されることはまずない。しかし、この下積みこそ大事だと腹を括り、事象に真摯に向き合い、その環境から逃げずにこつこつと、今あるべき本分を尽くし、努力と忍耐を積み重ねて生きていれば、それは人生の上で、着実に“上積み”となっていく。反対に、楽して給料が高い仕事は、これ人生の上積みと一切なっていない。寧ろ、

学ぼうとしているか?

人間は、動き、動かし、動かされている世界で生きている。何も自分が勝手にこの世に生まれて、勝手に死んで逝くということが許されない世界に生きている。即ち、“仕組み”が存在するということ。言い換えれば、自然の摂理。秩序と云ってもいい。この超大宇宙に充満している気。これが大法。これを解らずして人間は仕上がることは出来ない。この物事の根元が分れば、自然に生きることが出来る。自然に生きるということは正しく生きるということ。人間、正しく生きることが出来れば、良くなっていく。本来、「人生」と

人生投げ出さない。

何度躓いて転んでも、体制を建て直す。失敗して倒れても、また立ち上がる。ど突かれてもよろけない。梯子をはずされても這い上がる。負けない、逃げない、挫けない。ボロボロになったとしても、無一文になったとしても、誇りだけは捨てない。人生投げ出さない。また立ち上がり、前のめりに進む。これが生きるということ。こうして生きて刻まれた人生は、しなやかで強く美しい。煌びやかで華やかで豊潤なる世界だけが讃えられるものではない。それは人間社会だけのこと。実相は、そこを見ていない。見えないところ、誰

水が濁り始めたら全てが終わる兆候。

大禊祓の時代。「禊(みそぎ)」は身体の穢れの浄化、「祓(はらえ)」は精神の穢れの浄化。穢れとは、忌まわしく思われる不浄な状態。世界、国、社会、人間、土壌、空気、水が、今、汚濁に塗れている。自然の摂理、そして心有る僅かな者が洗い清めても清めても間に合わぬ。これ、大禊祓のほかなく。今、あらゆる罪穢れが、世界中で炙り出されている。己は大丈夫か。「いやあ私なんぞ、一介の庶民だから、小さな罪を犯したところで、咎められることはありゃせんて」。残念ながら、それもこれも禊祓の対象。すべて炙り

“昨日の世界”で自分が仕出かした事への「罪」の償いが含まれている。

今一つ、重要なことがある。それは苦労への人間の解釈。苦労は出来るだけしたくない(子にはさせたくない)。苦労をすることが分っているならば、当然楽な方を選びたい。面倒だ!疲れる!そんなの意味がない!ウザい!恰好悪い!実は、この考え方、意識に、大いなる問題有り。実相には、目には見えない感じ得ない力の働き、影響力がある。苦労は、この実相の働きとして現れている。苦労も様々な意味を有しているが、この中に、“昨日の世界”で自分が仕出かした事への「罪」の償いが含まれている。このことは、本人当

そのことすらも忘れ生きていることの、勿体無さよ。

平等とは何か?「偏りや差別が無く、みな等しいこと」と、ものの辞書ではこうなっている。仏教的視点では「物事のあり方が真理の立場から見ればすべて同一であること」とある。現人間社会ではどうか。「与えられる権利、法の下の平等、社会関係上の概念、差別からの自由、政治思想としての平等主義」が挙げられるか。己はどうか?平等というものをどう見ているか?そもそも、平等という概念が、なぜ存在しているのか。人間社会において、誰かの都合が良くなるために考えられたもの…。「平等平等というけれど、一向に

道理とは何か?

人生の中の疑問、難問。全て道理の中に答えがある。その道理を解いていくのが人生の目的。そう。人生の目的は、道理を悟り、未熟な人間から、人として仕上がっていくこと。「道理って、あれだろ?道徳とか、修身とか、学校で少しやったことがあるな。薄っぺらい教科書だったな。道徳の中身はほとんど覚えてないよ。だって、ほとんど自習の時間だったからな。」「道理というのは、祖父母や両親、先生から教わるものなのかなあ。」「道理っていう参考書は、本屋に売ってたりするの?」「道理って何か大切なことのような