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筋の悪い物語解釈とは何か 〜デッサンから考える〜

最近絵画教室に通い始めた。

特に大きな理由がある訳ではなく、デッサンを学んでいる。デッサンをする、というとどうも現実をありのままに模写する、と受け止められがちだけれども、全く違う。デッサンは、『現実を因果に基づき細部に分割し、それを再統合する行為』そのものだ。ある物体は、それ単独で存在し得ず、常に他の物体との相互作用(光源、影、テーブルの反射…)の集積としてしかあり得ない。
従って物体を眼差し、デッサンするには、現実を分割し、因果の糸を解きほぐし、集積した後、全体の統合を図ることが肝要だ。
そんなことを考えながら、授業を受けているとはたと気づいた。
これは解釈全般にも言えることではないかと。

1.  デッサンと解釈
デッサンには「固有色」という概念がある。その物体の持つ固有の色のことであり、デッサンは鉛筆で描く以上、陰影だけでなくこの固有色も黒だけで描かなければならない。例えば、りんごと机をデッサンするとしよう。りんごは赤だし、机は茶色だが、とはいえその色そのものの持つ濃淡の差が存在する。従って、黒単色で『黒色の濃淡』でりんごと机それぞれの固有色(赤、茶色)を描き分けることになる。りんごと机、背景の固有色間での濃淡の度合いは、『りんごと机の濃淡の差』『机と背景の濃淡の差』『背景とりんごの濃淡の差』という三種の比率からなるはずだ。このとき、りんごと机の濃淡の差はあくまで『りんごが机よりどれくらい濃いか(或いは薄いか)』という相対的な比率であることに着目してほしい。ここから分かることは、それぞれの二者間での比率が正しくとも、基調となる色合いが間違っていれば全体として濃すぎて禍々しい代物や、薄すぎるあまり印象に乏しい作品が出来てしまうということだ。
部分での比率があっていようと、それを総合した全体において誤ることはあり得ることなのだ。

翻ってこれを物語の解釈に応用してみよう。
物語においては、部分は場面(或いはもっと細かく見れば文レベル)となり、全体は作品そのものということになる。
先ほどのりんごと机、机と背景、背景とりんご間の比率を見ていく行為は、複数の場面をそれぞれの比較で関連づける行為とパラレルだ。人間の脳味噌では残念ながら、複数の事象を同時に比較できないことから、二場面を関連づけることで精一杯だ。

2.    「筋の悪い物語解釈」を考える
このアナロジーから、筋の悪い物語解釈の型が導けないか、というのが今日の本論だ。なお、解釈論は当人の自由という風潮があるけれども、そんなものは無責任かつ知的怠惰と言わざるを得ない。

先ほどのデッサン法を考えると、りんごと机、背景それぞれの濃淡の比率は合っていても基調となる濃淡が濃すぎたり薄すぎたりすれば、全体に波及してしまう場合があった(部分→全体の誤り)。これは物語解釈に置き換えれば以下のような誤りとなる。

①部分を優先し、全体の統合が疎かになる解釈
これはデッサンの例で言えば、りんごと机の濃淡の比率は合っていても、それが濃すぎたり薄すぎたりするような場合だ。ある特定の場面間の解釈を優先するあまり、それを全体の解釈に強引に結びつけているものだ。いわば、場面の射程範囲を勘違いしている解釈といえるだろう。部分的な場面をどれほど重要視するかは個人の自由ではあるが、行きすぎた特定の場面の特権化は慎むべきだ。

次に、デッサンにおいて、出来上がりを意識するあまり、個々の物体の濃淡の比率が破滅している作品を考えてみよう(全体→部分の誤り)。
これは解釈に敷衍すると以下のような誤りになる。

②全体の統合を重視するあまり、部分の解釈との整合性が損なわれる解釈
これは信奉するイデオロギーに基づいて『あれもこれもこの解釈を裏付けている!』とさながら証拠集めをしている解釈だ。自分の想像の域を出ない、ある意味「決め打ち」の解釈と言える。そもそもここまで信奉するイデオロギーがあるのなら、別に物語解釈に織り込む必要はなく、しっかりと主張すればいい話だと筆者は思う。

以上のような筋の悪い解釈を防ぐにはどうすればいいのか?
次回はここから考えていくことにしよう。

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