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自罰的な日本の私

日本は自罰的になってはいないだろうか。最近の動向を見てふと思う。
私には、現状の閉塞感や、或いは遣る瀬なさを超えて、かなり過激な運動として、蠢いているように思えるのだ。
蔓延するのは、何とか現状を打開しようとする態度でもなく、自分を虐めるような不可思議なマゾヒズムに近い。

外部要因で否応もなく押しつけられる不快な現実から、何とか目を背けるために「寧ろ自分で壊してしまう」。壊される前に壊してしまう。更に悲しいことに、これは苦し紛れの行為ですらない。逃避すべき先/未来への覚悟もないまま、自己破壊していく行為だからだ。

私たちに今求められるのは、陳腐だが「つまらない未来」を地道に作り上げていくことだ。「不甲斐ない現在」を腐食しながら、何にもならない曖昧な状況を作ることでは無い。
今日本は外圧に負けているのでもなく、諦めているのでもない。中途半端な浮遊感を伴って自己破壊しながら、自由落下している状態だ。そこには「エネルギー」がない。

「自罰的」の対義語は必ずしも「他罰的」ではない。現実は対義語の仕組みを乗り越えて、曖昧にどちらも飲み込んでいける強さを持っている。落下するのではなく少し立ち止まらないか。詰まらない未来を作り、逃げられない未来に覚悟を決めるべきではないか。

(時事的な話であるが、備忘のため記しておく)

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