考えることについて
考えることについて考えるということをされたことがあるでしょうか?
考えるという行為自体、多くの方が普段あまり意識せずに自然とされていることかと思います。
と、唐突にはじめてしまいましたが、初めまして、私は"こう"と申します。
この「こう」という名前、漢字では「考」と書くことから自己紹介がてら、初回のテーマを"考える"とさせて頂きました。
中々名前には珍しい漢字のようで、今日までの38年で同じ漢字の名前の人には1度も会ったことはありません。
ちなみに私の祖父は孝平で、父は孝一です。
二人とも親孝行の"孝"です。私だけ急に部位が一部変わったのは、姓名の総画占いからのようです。
脱線しましたが、経緯はさておきまして、そういう名前だからか、私は考えることが結構好きです。
それに関する本も結構読んできましたので、それらをベースに私なりの考えをまとめます。
さて、冒頭の問いかけ。
考えるということについてですが、少し切り口を変えてみます。
考えるための手段、として何があるか。
私が今ぱっと思い付くのは、下記の通りです。
・要素の分解
・ 〃 の分類
・ 〃 の連想
・ 〃 の飛躍
・取捨選択とまとめ
漢字で書きましたが、からくりを述べますとこれらはビジネスで良くある手法です。
例えば、A商品の売上が伸び悩んでいて伸ばさないといけないとき、どういったプロセスで取り組むか。
まず、
原因を列挙→似た意見をまとめる→そこからロジカルシンキング→ラテラルシンキング→仮説→検証
横文字を漢字に直しただけです(^^;
ですが、これは立派な考える行為であると思います。
さて、このままでは本の変形模写になるので、もう少し自分なりの色を出していきたく思うのですが、さきほどの列挙で敢えて目立つように書いた"要素"という言葉。
私はこれが非常に大事と思います。
考えるための手法は、現在いろいろと挙げられていますが、いざ試そうとした際、一番かなめになるのは、この要素をいくつ出せるかに掛かっている。
例えば売上の伸び悩む要素を考えたとき
①商品が悪い
②商品の価格が高い
③営業のスキルが低い
④市場が下がってる
⑤広告が弱い
のような要素が出た場合、下手をすると、間違った仮説にいきつく可能性もあります。
(もちろん、間違えた仮説でも、結果を正しく分析し改善し時間を投入すれば、最終的には正しいゴールには行き着ける可能性もあるのですが…)
上記の要素の問題は、深掘りです。
なぜ? と問い掛けると、まだ別の項目が出る内容や
本当にそう? と問い掛けると、検証が必要な内容が見られます。
前者は①~③がそうです。
(例えば、①ならなぜ商品がわるいのか?を考えると、なぜ商品が悪いと感じるのか?→他社ではこういう機能がある※→では商品がわるいのではなく「機能が不足している」のですねなど)
後者は③~⑤がそれに当たります。
(例で挙げた※部分も、下記の検証が必要な内容です。"本当にその機能があるから売れているのか")
さて、ここまで来ると"考える"について、少し見えてきた感があります。
私なりの考えですが、考えるとは「ある物事を色々な方法を使って深掘りしていくこと」だと思います。
色々な方法は人それぞれですが、深掘りがポイントです。
理由を挙げたり、信憑性を確かめたり。
そして、結果を元にまた磨いていく。
まぁ、それら個々は考えるという名称以外(フレームワークとか)で呼ばれるかと思いますが、総じて考えるとしたいと思います。
ここまで長々とお付き合い頂き、誠にありがとうございます。
初回から取りとめのないことを書いてしまいましたが、これからもこのような感じでいろいろな体験や物事について私なりの考えを雑多に書いていこうかなと思いますので、よろしければよろしくお願いします。
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