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メソメソ感情の後処理

SNSの投稿に不躾なコメントがついた。

相手はきっと気軽に傷付けてやろうと無責任な憂さ晴らしのつもりで打ったであろう文章。
SNSとの付き合いは長いが、まったく顔も名前も知らない人物にそのようなことをされたのは初めてだった。

当たり屋のようなものだ、
そう自分に言い聞かせるが心臓が妙にドクドクと鳴って頭の一部が縛り付けられたようにひんやりとしてくる。

相手の思う壺だ、真面目に取り合うだけ無駄だ。
何度もそう思っても思考がそこから離れない。
何よりそのしょうもないハエのようなコメントにシクシクと反応してしまう自分の感情が憎くなってしまう。

そういったときに、目の前で起こった出来事だけでなくもっと段階的にスケールを上げて考察してみる。

ちょうど今は自分のインターネットの利用法方についてメスを入れていた時期であった。
思ったことをとりあえず吐き出して自分の思考を整理するためにSNSをやっていた。しかし無駄に眺めてしまっている時間が長いなと自覚し始めて、利用方法を改めようと思い始めた。

ブラウザで見れるSNSはアプリを消した。
すると暇さえあればとりあえずアプリを開くいう流れ作業がめんどくさくなり、アクセスしにくくなったことにより無駄に眺めることが減った。

ところが今回の件があったSNSはブラウザで観覧できないためアプリで残していたものだった。
他のSNSを眺める時間がこのアプリの利用時間に流れて行っただけで、またもやダラダラと見てしまっていたのだ。

変えたい変えたいと思っても意思の力に勝るのがテクノロジー、それならと思い利用時間の制限を自分で設定した。これでよし。

もっとスケールを上げて考えていく。
すると最終的には、もし俺が地球のレビューをしにやって来た覆面調査中の神様だったらどうすんねんと思えてきた。
こんなやつがいる地球、救いようがないぞ???

どうしようもないやつもいるけど、素晴らしい光を持った人は日常の無名の人の中にもたくさんいるものだ。そうした人たちが見せる何気ないきらめきが、覆面調査中の神様に地球もまだ捨てたもんじゃないかなと思わせてくれる。

手塚治虫の『ワンダースリー』もそんな話だったよなそういや…

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