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泣く子どもをそっと見守る

わたくし、もやしの自己紹介

わたくし、もやしの勤めるオルタナティブスクールは子どもがやりたいことをやる珍しい学校。3歳から12歳の子どもが毎日通っている。
・自ら考え行動できる人間に育つ
・全ての人が認め合う社会
・大人も子ども共に学び合う
を大切に記事を書いていきます。

海で宝物が流された!

今日は晴天。海に出かけて遊ぶことになった。
1人の男の子が、海に持っていく木を集め出した。
海で浮かぶように、厳選した乾いた木を持って海へ出発。

海についた子ども達は、一斉に海に向かってダイブ!
気持ちよさそうに浮かんでいる。
魚を見たり、水を掛け合ったりしながら遊んでいた。
すると、「あれ!ない!」
木の棒を持ってきた男の子が気づいた。
あたりを見渡すと、木の棒は遥か彼方へ流されていた。

泣きまくる男の子。

男の子「取りに行きたい。」
スタッフ「あんなに遠いし、流されているから今からは取りにいけないよ」
男の子「おとりにいきたい〜」「うえ〜〜〜〜ん」

「ちゃんと持っていなかったのがいけないんでしょ。」
「帰って新しい木を探そう」
「悲しかったね」
そんな言葉はいらない。
ずっと泣く子どものそばにいる。
1人で取りに行こうとする男の子に「1人は危ないよ」と声をかける。
男の子は取りに行くのをやめて、また泣き出す。
ひとしきり泣いたあと、そろそろきっかけが欲しそうだなと感じた私は
「帰りながら、取りに行けそうなら取りに行こうか」と声を掛けると。
急に泣き止み、遊び出した。

帰る頃にはすっかり気持ちは切り替わり、木の棒を取りに行きたいとは話さなかった。

子供が自分のやりたいことができない時に、体全身で表現する。
そこに大人の心が揺さぶられて、思わず色々と言葉をかけてしまう。
子どものいっぱいの気持ちを受け止める器を求められる気がした。

自然の寛大さ

そして、もう一つ気づいたこと。
それは、自然の寛大さ。
あれだけ泣かれても、海だからこそ受け止められた自分がいた。
スーパーで欲しいものを、買ってもらえずに泣いている子どもだったとしたら
果たして、私は受け止められたであろうか。
自分の器が試される。


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