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ユングの娘 偽装の心理 最終話

            最終話

帝應大学に着くと、鳴海は構内の駐車場に車を停めた。
夜の寒空にダウンジャケットの襟を立てながら、
氷山遊のいる第一研究棟へと入った。

鳴海は研究室に行く前に、
男子用トイレに向かった。洗面所で顔を洗う。
氷山遊に自分が泣いていたことを、
悟られたくなかったからだ。
ユングの娘は、些細なことでも見落とさない。
特に相手の心理状態を読むことに関しては、
常人のそれをはるかに凌駕していることを、
これまで共に行動してきて理解しているつもりだ。

鳴海は、正面にある鏡を覗き込みながら、両目を確認した。
少し充血しているが、仕事疲れだと見えないことも無い。
ハンカチで顔と手を拭くと、研究室へと足を運んだ。

氷山遊の研究室のドアをノックすると、
中からどうぞという返事が帰って来た。
鳴海はノブを回して、部屋の中に入った。

氷山遊は大きなデスクの上で、
ノートパソコンをタイピングしていた。
そのデスクには他に夥しい量の書類と、
山積みのマカデミアナッツチョコの入った、
小さな籐製の籠があった。
それともう一つ、気になる物があった。
それは河合が手にしていた、
リボンの付いたピンク色の小さな紙袋だった。

あいつの言っていた『高値の華』って、
もしかしてユングの娘のことだったのか?
よりによって彼女に好意を寄せるとは・・・。

鳴海は思わず苦い笑みをこぼしそうになった。

「それはウチの河合が持ってきたものか?」
鳴海はピンク色の紙袋を指差して言った。

氷山遊はタイピングしていた手を止めず、静かに答えた。

「ええ。夕方来て、
  クリスマスプレゼントだって言って置いてから、
  そそくさと帰って行ったわ」
鳴海は、呆れたように苦笑した。

確かに氷山遊は美人だし、
そのミステリアスな雰囲気も
魅力的に感じるかもしれない。
だが、もし交際できたとしても、
甚大な精神的プレッシャーを負うことは間違いない。
デートしても、気が休まることはないだろう。
何しろ彼女は、他人の深層心理を見通す、
天才心理学者———ユングの娘なのだ。
その彼女を前にしては、
小さな嘘一つつけない緊張感を伴うことは
容易に想像できる。
そんな男女関係が、長続きするとはとても思えない。

「鳴海さん、そんなことを訊きに来たの?」

「いや、そうじゃない。
  今回の捜査に協力してくれたことに、
  ちゃんと礼を言ってなかったなと思ってね」

氷山遊はタッチパッドをなぞり、
クリックボタンを操作してファイルを保存すると
白衣を翻し立ち上がった。
ハイヒールがリノリウムの床を叩き、
彼女はデスク前に来ると体重を預けるようにして、
鳴海の正面を向いた。

「牧野善治は逮捕されたんでしょ?河合君から聞いたわ」

「ああ、前原百合加さんが被害にあった直後に
  行った婦人科病院から、彼女のカルテを入手した。
  それには暴行を受けた証拠が書かれていた。
  動かぬ証拠だ。強姦致傷罪は重罪だ。
  最低でも懲役十年以上、または無期懲役さえありうる。
  オレたちも、その裏づけに『週刊キャピタル』の編集者、
  西川を重要参考人として引っ張って締め上げた。
  西川は吐いたよ。牧野は今回だけではなく、
  以前にも似たようなことをやっていたと。
  いわば常習犯だ。裁判員裁判で、
  まず、執行猶予はつかないだろう。
  あのクソ野郎はム所行きだ。
  それに、それを隠蔽していた西川も、
  ただでは済まないだろう」
鳴海はそこまで言うと、慌てて口をつぐんだ。

「すまん。女性の前で、汚い言葉を使って。
  仕事の途中なんだろ。邪魔したな」

鳴海が辞去しようと背中を見せた時、氷山遊が口を開いた。

「今回の件、お礼を言うのは私の方だわ」
鳴海は怪訝な表情で振り返った。氷山遊は言葉を続けた。

「鳴海さんと初めて会った時に言ったこと覚えてます?
  私、今『犯罪心理学に置ける無意識下にある悪の意識と
  道徳的知的障害についての考察』という論文を書いてるの。
  海外での症例はいくつか手に入ったんだけど、
  私自身、実際の例をまだ見てなかったのよ。
  だから、衣澤康祐さんの症例は、とても参考になったわ」

彼女の答えを聞いた鳴海は、顔色を変えた。
と同時に無性に腹が立ってきた。

「参考になっただと?何言ってんだ、あんた。
  人間はモルモットじゃない」
鳴海は激高する感情と同時に、
落胆する気持ちも抑えきれなかった。

氷山遊と最初に会った時の印象は、
決して良いものではなかった。
心理学者といいながら、
人の心を解さない単なる学者としか思えなかった。
だが、彼女と捜査を共にしていく内に、
その気持ちが変わっていった。
氷山遊という心理学者は、
冷徹さを感じさせる第一印象とは違い、
他人の心の痛みに共鳴できる優しさを内包した、
情の厚い人間なのではないか、と感じ始めていた。
そうでなければ、
前原百合加に告訴する勇気を起こさせることなど、
できなかっただろう———と思っていた。

ところがそれは違っていたのかもしれない。
彼女にとって衣澤康祐の事件は、
単なる論文の研究対象に過ぎなかったのか・・・。
どうやら自分は見誤っていたらしい。
長年、刑事という仕事ををやっていて、
まだ人を見る目がないことに、
鳴海は自己嫌悪さえ覚えていた———。

「衣澤康祐さんは、
  無意識から来る暴力を征する術を知らなかった」
鳴海の思考を遮り、
水晶を弾くような氷山遊の声が、室内に響いた。

「牧野善治や『週刊キャピタル』の
  編集者の西川は法的に裁かれても、
  衣澤康祐さんの両親は・・・
  彼を死に追いやったきっかけを与えた
  両親は何の罪悪感も無く、今も平気でいる。
  彼らのような、人の痛みを感じない道徳的知的障害者は、
  世の中に少なからず存在するの。
  そのことを知っていて、研究しているのは、
  世界中の心理学者でもほんの一握りだけというのが現実。
  道徳的知的障害者を法で裁くことも、
  取り締まることもできない。
  だからといって、心無い彼らからの攻撃は
  無意識に植えつけられ蓄積されていく人は必ずいるわ。
  無意識がその許容量を越えると、暴発を起こす。
  その暴発の対象は他人かもしれないし、
  自分自身に対してかもしれない。
  どちらにしろ無防備でいたら、
  心を殺される人たちが、もっと現れるわ」

 心を殺される———か。

鳴海は今まで、そんな考えが浮かんだことも無かった。
警察が動けるのは、金銭的被害、肉体的被害に限られる。
しかし、心を殺されることだってあるのだ。
今回の事件で、鳴海はそれを知った。
勿論、それは警察の立ち入れる領域ではないのも確かだ。
だとすれば、それは今目の前にいる、
彼女のような優秀な心理学者に委ねるしかない。

氷山遊は言葉を続けた。
「今も彼らの悪意にさらされて、
 心を傷つけられている人たちは少なくないと思ってる。
 だから———」

 氷山遊はそこで小さく深呼吸し、
鳴海の目を真剣な眼差しで見つめながら、力強く言った。

 「だから、道徳的知的障害者の悪意から
  守る心療方法はないかと
  研究しているの。私は・・・」

「わかった。オレが誤解していた。すまん」
鳴海は氷山遊の澄んだ瞳を見返して、頭を下げた。
彼の口元は安心したように、ほころんでいた。

彼女は、こう後に言葉を続けようと
していたのではないだろうか?


一人でも多くの心を救いたいから———と。

やはり自分の目に狂いはなかった。
氷山遊は———ユングの娘は、
単に優秀な心理学者ではなかった。
熱く、そして優しさを持った、一人の女性でもあった。

「それじゃ、オレは帰るよ」
ドアノブに手を掛けた鳴海は、
ひとつ気になっていたことを、氷山遊に訊いた。

「ああ、そうだ。河合からのプレゼント。
  そのお返しはしたのか?」

「ええ、あげたわよ。
  マカデミアナッツチョコ一個」

そう答えた氷山遊の表情は、能面のような、
感情の伺えないものに戻っていた。

そこは冷たいんだな・・・。

「メリー・クリスマス」
鳴海は苦笑を浮かべると、
背中越しに氷山遊にそう言って部屋を出た。

外に出ると、夜空には粉雪が舞っていた。
そういえば、初めてユングの娘に会ったのも、
今夜のような雪が降っていたのを、鳴海はふと思い出した。
白い息を吐きながら、赤いダウンジャケットの襟を立てて、
駐車場へと向かった。

氷山遊は研究室の窓越しに、
鳴海徹也の後姿を見つめていた。
彼女はその視線をはずさないまま、
細い指でマカデミアナッツチョコの包み紙を剥いていた。

「メリー・クリスマス」
氷山遊は鳴海徹也の背中に向けて、
静かな声で言うと、チョコを口に含んだ。

 ユングの娘は、優しく微笑んでいた———。


「ユングの娘1 偽装の心理」 END

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