見出し画像

ユングの娘 偽装の心理3

             偽装の心理3

鳴海は鑑識課を出ると、刑事一課へと足を向けた。
自分のデスクの上に置いてある赤いダウンジャケットを掴むと、
真代橋警察署の表玄関へ向かう。

外に出ると、冷たい風が針のように顔を刺した。
陽はまだ高く、ビルの合間から覗く空は
澄んだブルーに染められ、季節が冬でなければ
小春日和といってもいい天候だ。
だが、実際にはそれに反比例するように、
日増しに寒さが厳しくなっているように感じられた。
東京の冬は早い。
十二月も半ばにさしかかれば、それも当然のことだろう。

鳴海はダウンジャケットを羽織り、幹線道路に出た。

「鳴海さん、どこへ行くんです?」
鳴海の背中に、河井の声が飛んできた。

「行く所は決まってるだろ」
そう答えながら、鳴海は道行く車を目で追っている。
彼は1台のタクシーを見とめると、右手を大きく振った。
タクシーは左のウインカーを点滅させながら、
鳴海と河井の前に停車した。
タクシーの後部ドアが開く。
鳴海は一度だけ河井の方を振り返って言った。

 「現場だ。早く乗れ」
鳴海に促され、河井もタクシーの後部シートに滑り込んだ。

「神田北乗物町の市来ビルまで」
鳴海が言うと、タクシーの運転手は型どおりの返事をして、
アクセルを踏んだ。車内の暖房のおかげで一息ついた鳴海は、
紙袋から再び衣澤康祐の日記を取り出した。
日付けは一番新しい、彼が死亡する前日のものだ。
そこには、次のように書いてあった。

『十二月一日 首都出版の週刊キャピタル編集部の
  担当者から連絡があった。なんと、俺の作品が、
  来年発行される新春号に掲載されるとのこと。
  担当編集者からは、今回は読み切りだが、
  これで読者の人気が取れれば、
  連載も視野にいれていると言ってもらえた。
  6年間の努力が、やっと報われる・・・。
  遅いデビューだったが、これでやっと、
  俺も漫画家の仲間入りだ。
  これからも、もっと面白い作品が
  描けるように、頑張っていこうと思う。
  そして何より、この吉報を今まで応援してくれた、
  百合加ゆりかに感謝したい・・・』

 鳴海はそこまで読むと顔を上げて、
顎あごの無精ぶしょうひげを擦りながら思わず唸った。
ますますわからなくなった。
この内容からすると、衣澤康祐は漫画家として
デビューすることが決まっていたようだ。
やっと手に入れた希望を捨てて、自殺などするだろうか?

そしてもう一つ、百合加という名も気になる。
彼女は衣澤にとって、特別な存在だったことが伺えた。
この女性と交際していたのかもしれない。
とすれば、現場にあった女性のものと思われる
毛髪のひとつは説明がつく。

「どうしたんですか?鳴海さん、難しい顔して」
 隣にいる河井聡史が、訊いてきた。

「この事件、わからないことが多すぎる」
鳴海は流れる車窓の外に流れるビル街や、
雑踏に目をやりながら答えた。

「鳴海さんにも、手に余る事件ってあるんですね」

「簡単に解決できる事件なんてあるものか」
鳴海は車外の景色から、視線を離さないまま呟いた。
河井は鳴海の方に向き直ると、彼の顔を覗き込むようにして言った。

「そこで僕から提案があるんですけど、いいですか?」

「何だ?」

「鳴海さん、ユングの娘って聞いたことありますよね?」
河井の口調からは、当然知っているだろうというような色が滲んでいた。

「ユング?何だそりゃ」
そこで鳴海は初めて河井の方へ顔を向けた。

「え?知らないんですか?」
河井は少し驚いた様子だった。

「ほら、半年前にあった連続婦女暴行殺人事件ってあったでしょ?
  あの犯人、なかなか自供しなかったんですが、
  ユングの娘が、自供まで追い詰めたんです。
  それにその前に神田駅周辺であった、
  通り魔殺人事件の犯人も彼女が
  プロファイリングで割り出したんです」

「ユングだの、彼女だの、
  お前、さっきから何言ってるんだ?わかるように説明しろ」
鳴海の無愛想な返事を聞いて、河井聡史は口をポカンと開けた。

「本当に知らないんですね。
  まあ、鳴海さんは真代橋署に着任してまだ二ヶ月だから、
  知らないのもわからないでもないですけど・・・。
  当時、新聞やニュースなんかに取り上げれて、
  結構話題になったんだけどなあ。
  念のために言っておきますけど、
  ユングの娘っていうのはニックネームみたいなものです。
  誰が言い始めたのかは知りませんが、
  彼女を知る人は皆、いつの間にかそう呼んでました」

河井に言われて、鳴海は無意識に記憶を探った。

「あ、思い出した。
  どこかの大学の心理学者が、捜査協力したって話だな」

「そうです。それですよ」
河井の顔に、満面の笑みが浮かんだ。

「鳴海さん、彼女に捜査協力を仰ぎませんか?」
河井は、身を乗り出すようにして言った。

「彼女?女の学者さんか?」

だから、さっきから『彼女』と言ってるのに・・・と
河井聡史は目をぐるりと回転させた。
「ええ、すごく優秀で、
  心理学の分野では天才とまで言われてるんです」

「やけに詳しいんだな」
鳴海はジロリと河井を睨んだ。
すると彼は少しバツが悪い表情を浮かべて、頭を掻いた。

「実を言うと、その心理学者は僕が通ってた大学の大先輩なんです。
  今も大学に残って、準教授をやっています」

「なるほどな。それで河井、
  お前が刑事見習いに抜擢された理由がわかった」
鳴海は口元でニヤリと笑った。

河井は観念したような色を、顔に浮かべながら言った。

「その通りです。僕がその大先輩を捜査本部に紹介して、
  それがきっかけで事件が解決したんです。
  まあ、それも功績だってことで、上層部の目に留まったんでしょう。
  ・・・やっぱりベテラン刑事の目は誤魔化せませんね」

そういうやりとりをしているうちに、
二人を乗せたタクシーは、神田乗物町の事件現場である
古びたマンション———市来ビルに到着した。
鳴海はタクシー料金を支払うと、日記の入った紙袋を手に取り、車を降りた。
その足で、一階にあるラーメン店『龍来軒』の方へ向かった。
その傍らで、河井聡史は鳴海徹也を説得しているような語気で言った。

「鳴海さん、その心理学者に捜査協力を頼みましょうよ。
  プロファイリングとか最先端の技術を使いこなせるんですよ。彼女は」

鳴海は歩速を落とさずに、背後の河井に向けて答えた。

「安易に外部の者に協力を求めるのは、オレの流儀に反する。
  プロなんとかとか、ユングのなんとかいう学者先生を
  信頼していないわけじゃないが、
  まずはどこまで自分の力で真相まで近づけるか試すまでは、
  その手にはのらん」

「プロファイリング、ユングの娘」
河井が背後で、呆れたような口調で訂正した。

暖簾のれんを出しているところを見ると、開店しているようだ。
『龍来軒』の敷地はマンションの一階フロアの内、
三分の二を閉めており残りは店の主人家族が、
住居として使われているようだった。

鳴海は『龍来軒』のアルミの引き戸を開けると、中に入った。
その後を追って河井も続いた。
店内は4人がけのテーブルが3つと、それと平行して、
カウンターがL字型にレイアウトされた、
満員になれば、20人は余裕で収容できるほどの広さがあるだろう 。
その奥は厨房になっているらしい。
今は、作業着服姿の男性が二人、4人がけのテーブルを陣取っていて、
カウンター席ではOLらしき若い女性が、ラーメンをすすっていた。

「真代橋署の者です」
鳴海はスーツの内ポケットから、
警察官バッジを取り出して開いて見せた。河井も同じように習う。

「はあ、刑事さんですか。
  衣澤君のことについては事件当日、他の刑事さんにお話しましたよ」
主人は不機嫌そうに言った。年齢は還暦を過ぎたところか。
頭は禿げ上がっており、時折、天井に吊るされている蛍光灯の
青白い光を照り返していた。
『龍来軒』の主人は肩に架けていた手ぬぐいで、顔をするりと拭い、
それをカウンターに叩きつけるようにして置いた。

「ご主人、お名前は?」
鳴海はメモ帳を片手に訊いた。
そう訊かれた主人の方は、あからさまに呆れたような、
と同時にうんざりした表情で答え始めた。

「刑事の顔が変わるたびに同じ事いわなきゃならない。
  こっちのほうが、まいっちゃうよ」

「オレの名前は、市来吉雄。
  で、奥で洗いものをしてるのが、女房の静江だ」
 市来吉雄が顎をしゃくって指した方向には、
洗い場でどんぶりを洗っている、中年の婦人がいた。
彼女はまだ一度も、鳴海たちの方を見もしなかった。
彼女が第一発見者の市来静江か。
鳴海は名前と、彼女のわずかに覗く横顔を記憶に刻んだ。
今はまだ、その表情から彼女の心情は何も読み取れなかった。

「ご主人、衣澤康祐さんの部屋の合鍵を
  お借りしたいんですが、よろしいですか?」

市来吉雄は仏頂面のまま、
カウンタの下からプラスティックの、
丸く平べったいタグの付いた鍵を取り出した。

「また何か俺達に事情聴取するんだろ?」
市来吉雄は突き放したような口調で訊いてきた。
連日の事情聴取で辟易しているのだろう。
警察官とは何も話したくないような口ぶりだった。
たたきつけた手拭いでカウンターをぞんざいに拭き始める。

「いえ、事情聴取もですが、
  衣澤さんの部屋を見せていただこうと思いまして」
鳴海の言葉使いは、あくまで丁寧だ。

「警察が何度も来るって、衣澤君は自殺じゃないのかい?」
市来吉雄は鋭い眼光をたたえて、
鳴海たちを睨むようにして言った。

「いえ、それはまだなんとも・・・」
鳴海が言葉を濁すと、急に興味が無くなったかのように、
市来吉雄はそっぽを向いて、手をひらひらさせた。
さっさと行けという意味だろう。

『龍来軒』を出ると、
鳴海たちは衣澤康祐の部屋へと続く階段へ向かった。
このマンションはかなり古いせいか、
それともオーナーの市来吉雄がものぐさだからかもしれないが、
防犯カメラの類のものを設置していなかった。
裏口の非常玄関もそうだった。
鑑識の報告書には、非常玄関のノブにも
かなりの数の指紋が見つかったらしいが、
どれもかなり古いものだという。
事件当日に非常玄関を使ったものはいないと思われるが、
もし他殺の可能性を考えるならば、
被疑者は手袋をしていたことも考えられるとあった。

鳴海と河井は衣澤康祐の扉を開けた。
扉は鉄製のかなり古いものだ。
そのせいか、開けるときに金属同士が擦れあうような、軋む音がする。
二人は玄関で靴を脱ぐと、室内に入った。
残されているものは、キッチン周りの小さな冷蔵庫に、
小型の炊飯器、一人分の茶碗や皿がいくつかあるだけだ。

部屋は薄暗かった。
周囲を高層ビルに囲まれたこのマンションは、
たとえ3階であっても、満足な陽光が窓から入ることはないらしい。
通りに面したアルミの窓からは、
微かな光が陽炎のように差し込んでいた。

鳴海は天井から吊るされている、
今ではあまり見かけなくなった箱型の電灯から
下がっている紐を引いた。
電灯は何度か咳き込むように瞬きながら、
明かりを灯した。
それでもあまり明るく感じないのは気のせいだろうか。

鳴海は膝ひざを折り、その場にしゃがみこんだ。
両手を合わせて拝む形をとった。
彼の背後で、慌てたように河井が同じように習った。

鳴海はまだ生々しく残る、大量の血痕と、
置き去りにされた机や椅子とを順番に、視線を移していった。

この部屋で、衣澤康祐は死んだ。
胸を一突きされて、血の海の中で。
果たして彼を死に追いやったのは、
彼自身なのか、それとも他の何者かなのか?
M7という銃剣は彼の物だったのか?
外部から何者かに持ち込まれたものなのか?
その凶器には本人以外の指紋は無い。
だが、鑑識によれば、衣澤本人が強く握り締めた痕跡は無いという。
これも大きな謎だった。
少なくとも二種類の女性のものと思われる毛髪。
その女性たちはこの事件に関与しているのだろうか?
そして日記———。衣澤は念願の漫画家としてデビューする直前だった。
それなのに、自ら死を選ぶだろうか?
それと日記に書かれていた百合加という名の一人の女性。
この女性は衣澤にとってどんな存在だったのか?
もし、これが他殺で、百合加という人物を含めた、
この二人の女性のどちらかが事件に関与しているとしたら?
鳴海は、この事件には女性が深く関わっているように思えてならなかった。
根拠は無い。またしても刑事の勘だ。
だが、その感覚は揺るぎそうに無かった。今回は特にそうだ。

女、か———。

鳴海にとって、女性というものが一番理解でいない存在だった。
というのも、彼は5年前に妻と離婚していた。
理由はありがちなものだった。
刑事という職業は、時間が不規則にならざるを得ない。
容疑者への尾行や張り込み、取調べなど、
三日ぐらい家に帰らないことは日常茶飯事で、
時には一週間以上も空ける事もあった。
そうなれば自然と、夫婦はすれ違いが多くなる。
長年のそんなストレスが爆発したのか、
一人娘が大学に進学したのをきっかけに、
妻の理沙が別れてくれと言ってきたのだ。
鳴海は理解できなかった。刑事という仕事がどんなものか、
結婚する前に充分説明していたはずだった。
それが何十年も経って、その不平不満を
ぶちまけられるとは思っても見なかったのだ。
妻を説き伏せようとしても無駄だった。
彼女の意思は強く、離婚以外はないと感じた。
結局、妻は娘を連れて鳴海から離れていった———。

この事件に女が深く絡んでいるとしたら、
俺の手には余るかもしれない。
その時不意に、鳴海の脳裏に河井の言っていた、
女性心理学者のことが浮かんだ。
女性であって、しかも心理学者。
過去には凶悪事件の捜査に協力して、事件解決の手助けをしている。
この事件に関わっている女性のことも、何かわかるかもしれない。
そうでなくとも、何か突破口のようなものが見つかるかもしれない。
ただ、彼が大先輩と呼んでいるところを見ると、
その女学者の年齢は自分と同じくらいか、
もしかするとそれ以上とも考えられる。
肩書きも準教授と言っていた。
しかし、女に変わりはない。

女のことは、女に訊け———か。

鳴海はゆっくりと立ち上がった。
そして後ろにいる河井聡史に向き直ると、口を開いた。

「河井、タクシーの中で、お前が言っていた、
  心理学の女学者さんな、何て言ったっけ?」

「ユングの娘のこと・・・ですか?」

「その・・・ユングの娘だ。本名は?」

「氷山遊っていいます」

「氷山遊・・・」
鳴海はその名を繰り返すと、再びアルミ窓の方を向いた。
すっかり長居ながいしたらしい。
窓外から差し込む淡い光は、いつのまにか紅色に変わっていた・・・。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?