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ユングの娘 偽装の心理21

             偽装の心理21

 鳴海は前原百合加の衝撃的な告白に、
一瞬呼吸を詰まらせた。
鳴海の隣りでメモをとっていた河合も、
唖然とした表情を刻んだ顔を上げた。

「その犯人を特定できますか?」
鳴海は静かに訊いた。
前原百合加は声を震わせながら、その名を言った。

「漫画家の牧野善治です」

「牧野っていったら、たしか・・・」
そう言った河合聡史は、驚きを隠せない顔だ。
しかし、鳴海はそれほど驚いてはいなかった。
あの男ならやりかねない
———と直感的に思ったからだ。

牧野善治の仕事場へ、
事情を訊きに尋ねた時のことが、
鳴海徹也の脳裏に断続的な残像を伴って浮かんだ。

同席していた氷山遊を
性的対象としてしか見ていないような、
牧野善治の爬虫類のような双眸。
それは醜悪で淫猥な欲望をたたえた、
生臭さを内包していた。
同性の鳴海でさえ、不快感を禁じえなかったことが
記憶に呼び起こされた。

「それはいつのことですか?」
鳴海の問いに、百合加は短く呼吸をして答えた。

「十一月二十八日のことです。
  その日の夕方、牧野から急ぎの仕事があるから、
  来てくれと連絡がありました。
  私が仕事場へ行ってみると、
  そこには他のアシスタントの姿はありませんでした。
  牧野と私の二人きりです。
  それに、牧野は仕事をしているようにも
  見えませんでした。
  私を別室のソファに座らせると、
  いきなり飛び掛って来たんです。
  私は何が起こったのかわけもわからず・・・」
彼女はそこまで言うと、嗚咽を漏らした。

別室とは、鳴海たちが事情を
訊きに行った際に通された、
アニメキャラのフィギュアらしいものが
整然と並んでいた、あの部屋だろう。
その部屋には、鳴海たちが腰掛けた、
何かのシミが滲んでいる、
薄汚い革張りのソファがあった。
あのソファが、牧野善治が
前原百合加に乱暴をはたらいた現場
だったのだろう。
鳴海は記憶を辿っているうちに、
自身の体と意識に、
怒りと同時に不快感と悪寒が走るのを覚えた。

「おつらいでしょうが、お話してください。
  ゆっくりでいいんです」

鳴海の優しさを含んだ言葉に、
百合加は答えるように小さくうなづいた。

「私は抵抗しました。必死で・・・。
  でも牧野は私を何度も殴りつけてきました。
  私は意識を失いました。
  それからしばらく経って気づいた時には、
  もう遅かったんです。
  自分自身に起こったことが、
  すぐにわかりました———」

「あの、くそったれ」
そう言ったのは、河合だった。
怒りで奥歯を噛み締めているのが、
頬の筋肉が強張っていることからも見て取れた。

百合加は話を続けた。

「私は逃げ帰るようにして、
  牧野の仕事場を出ました。
  その後は、何を考えながら、どうやって帰ったのか、
  今も覚えてません。自宅のアパートに帰ると、
  康ちゃんから電話がありました。
  私の様子が変だと気づいたのか、
  彼は私の部屋までやって来ました。
  私は自分自身に起きた、
  悪夢のような出来事を知られたくなくて・・・
  私の姿を見られたくなくて、
  彼を部屋に入れるのを拒みました。
  でも康ちゃんは玄関から去ろうとはしませんでした。
  私は康ちゃんに隠し事はできないと思い、
  彼を部屋に入れました。
  彼は私の腫れ上がった顔を見て、
  何があったのか訊いてきました。
  私は最初、口を固く閉ざしていました。
  でも、康ちゃんは、
  わけを聞くまで帰らないと言うんです。
  彼の根気に負けて、私はすべてを話しました。
  今思えば・・・後悔しています。
  あの時、私が康ちゃんに、
  牧野のことを話さなければ、
  康ちゃんは死ぬことはなかったんです・・・。
  すべて私のせいなんです」

前原百合加はそこまで言うと、
 とめどなく涙を溢れさせた。
彼女の両手に握られた、氷山遊から渡されたハンカチに、
大粒の涙が染み込んでいく。

鳴海は彼女が少しでも落ち着くのを待ってから、
確認するように訊いた。

「あなたの身に起こったことを知った衣澤康祐さんは、
  どうされましたか?」

百合加は涙を拭くと、
鳴海の顔へ視線を向け直して答えた。

「事情を知った康ちゃんは、
  すぐに牧野の携帯に電話しました。
  でも牧野は康ちゃんの電話を
  着信拒否にしていたんです。
  牧野は康ちゃんと私が
  付き合っていることを知っていましたから、
  警戒したんだろうと思います。
  康ちゃんは直接、牧野の仕事場に向かいました。
  でも、留守だったそうです。
  牧野の自宅マンションは別にありましたが、
  その住所までは知らなかったんです。
  その翌日、康ちゃんは
  牧野の仕事場へ向かいました。
  怒りに任せて、怒鳴り込んだそうですが、
  その場にいた数人のアシスタントの人たちに、
  取り押さえられて放り出されたそうです。
  私の元へ帰って来た康ちゃんは、泣いていて、
  もうボロボロに見えました。
  それでいながら、康ちゃんは私を気遣って、
  病院へ連れていってくれました。
  顔の傷は勿論ですが、
  その他にもあるかもしれないからって・・・」

鳴海はうなづいた。
衣澤康祐が、彼女がそんな目に合わされて、
激しく動揺していたことは容易に察しがつく。
そういった極めて不安定な心理状態でいながらも、
彼は前原百合加のことを本当に心配していたのだ。
おそらく彼は、
前原百合加を婦人科に連れて行ったのだろう。
強姦されたとあれば、単なる怪我だけでは済まない。

「すぐに告訴するお気持ちはなかったんですか?
  衣澤康祐さんは告訴することを薦めなかったんでしょうか?」
鳴海は慎重に、百合加へ言葉を向けた。

強姦罪は親告罪だ。
被害者が告訴しない限り、警察が勝手に捜査することはできない。
なぜなら、もし警察や検察が、単独で捜査、起訴した場合、
裁判の場で被害者もまた衆目に晒されることになる。
そうなれば、被害者は二度にわたって
大きく傷つけられることになるからだ。
被害者の人権を尊重するためにも、
二次被害のようなことがあってはならない。

「彼も告訴なんて考えてなかったみたいです。
  私を再び世間の目に晒すことに、
  強い抵抗があったのだと思います。
  私はしばらく口も利けないほど、
  ショック状態でしたが、
  康ちゃんは私以上に動揺していました。
  まるで心ここにあらずといった様子で、
  黙り込んだまま、
  魂の抜けた・・・まるで人形のように見えました。
  私はつらかったけど、気力を振り絞って、
  インターネットで私と同じような目に合った
  女性たちの情報を調べました。
  何か、牧野に一矢報いる方法はないかと・・・。
  そこで示談と言う方法を見つけたんです」

鳴海は再びうなづいた。強姦罪のような裁判によって、
被害者の人権が著しく損なわれる事案の場合、
衆目に晒される刑事裁判での解決ではなく、
民事裁判として告訴し、互いの弁護士を介入した上、
当事者間で金銭による示談が行われる場合が多い。

「私がそのことを言うと、
  康ちゃんはいい顔をしませんでした。
  彼は怒りと悔しさで顔を歪ませていました。
  彼にとって、お金で解決することに
  強い抵抗があったんだと思います。
  私だって、お金で癒されるとは思っていません。
  でも、他にどうしたらいいのかわからなくて・・・
  十一月二十八日以前の私に戻ることなんてできないと、
  康ちゃんも私も痛いほどわかっていました。
  互いに相手を想いながら、痛みを抱きしめながら、
  ただ時間だけが経っていきました」

百合加の両の瞳に、涙が溢れ出した。
彼女の両手に握り締められているハンカチは、
すでに濡れそぼっている。

「そんな時、週刊キャピタル編集部から、
  康ちゃんへ電話がありました。
  彼の誕生日の前日です。
  その電話に、彼は返事しかしていませんでした。
  通話が終わると、彼の手は力を無くした様に、
  携帯を床に落としたんです。
  私は驚いて、わけを訊きました。
  そしたら、読みきり作品として掲載される予定だった
  康ちゃんの漫画が、急遽掲載されないことになったとの
  連絡だったんです。
  たぶん、週刊キャピタル編集部に、
  牧野善治が圧力をかけたんだと思います。
  牧野と康ちゃんの担当編集者は同じ人でしたから・・・。
  絶対に、康ちゃんへの酷い嫌がらせです。
  康ちゃんは力無く笑ってました・・・」

 牧野善治の担当編集者といえば・・・西川という男だ。
あの男も、牧野の蛮行を知っていたに違いない。
西川は言っていた。
牧野善治は『週刊キャピタル』の看板作家なのだと。
その看板作家をかばうため、
牧野の犯罪を隠蔽しようとしたのかもしれない。

「そして翌日・・・康ちゃんの誕生日です。
  その日の午前中に、彼の元へ小包が届きました。
  彼は小包を開けると、
  呆然とした顔をして突っ立ったまま、
  動かなくなりました。
  康ちゃんは正面の空間を・・・
  いえ、何も見ていないような感じで、
  表情がありませんでした。
  あまりに様子が変だったので、
  康ちゃんの手にある小包を、
  引き剥がすようにして、私はそれを見たんです。
  中には1本のナイフのような物が入ってました」

鳴海は確信したようにうなづいた。
そのナイフのような物とは、間違いなく
衣澤康祐の両親が送って来たM7銃剣だ。
衣澤康祐の実兄が、自殺に使った忌まわしき凶器。
彼の両親に福岡まで事情を訊きに行った時、
氷山遊は言っていた。
彼の両親は『道徳的知的障害』———
他人の心の痛みに対して共感できず、
それどころかそういった振る舞いを、
相手のためだという善行だと信じて疑わない人格———だと。
それは自らの言動、行為がどれほど他人の心を傷つけるのか
道徳的に認識できない、
極めて自己中心的な知的障害者なのだ。

「それから康ちゃんは、私に言いました。
  しばらく、一人にしてくれ・・・と。
  私は彼の言う通りにしました。
  部屋を出て、近くの公園へと向かいました。
  でも、彼を心配する気持ちは募っていって、
  一時間ほどして戻りました・・・」

そこで言葉を途切らせた前原百合加が、
息を呑むのが感じられた。

「部屋に入ると、倒れてたんです。
  康ちゃんが・・・。ものすごい血を流して・・・」

声を振るわせる彼女の相好が、
耐え切れぬ苦痛を与えられたように歪んだ・・・。

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