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名無しの島 第20章 黒い血

 水落圭介をはじめ、有田真由美。小手川浩は前に進もうと歩き始めた。

その誰もが、、衣服やリュック、

腕や顔に化け物のどす黒い返り血を浴びている。

そしてどの顔にも、極度の緊張と疲労、恐怖の色が浮かんでいいた。

あれだけの銃弾を浴びせながらも、一向に怯まず、

獰猛に襲い掛かってきたあんな化け物が、

少なくともまだ数十体もいるのか・・・。

たった4人でとても太刀打ちできるものではない。

十発以上も浴びせて、やっと殺せたのは、たった1体。

そんな化け物相手に戦うには弾薬が少なすぎる。

 生きてこの島から脱出できるのか・・・?

そんな疑問が現実感を帯びてきた。


行方不明になった桜井章一郎を見つけ、救出するどころか、

自分たちの命が脅かされているのが現状なのだ。

 水落圭介は腕時計の文字盤をライトアップして、時刻を見た。

所沢宗一の船が迎えに来るまで、まだ1日以上ある。

それよりも、彼の船が来るまでに、この研究施設を出て、

あの船着場になっている岩場まで無事にたどり着けるのか?

「こんなとこ・・・来なきゃよかった・・・」

 斐伊川紗枝が、ぽつりと言った。

南部十四年式拳銃が、彼女の両手に握られたまま、

小刻みに震えている。彼女はその場に座り込んだ。

水落圭介も足を止めて、

そんな斐伊川紗枝に赤く火照った顔を向けて言った。

「だから言ったんだ。ついて来るなって・・・」

 自分も呼吸が荒くなっている。風邪でも引いたように、

悪寒が走るのを感じる。

「・・・だって、こんなことになるなんて、

 思ってなかったもん。あたし・・・

あたし、人を殺しちゃった・・・」

 斐伊川紗枝は声を震わせながら泣いた。涙が頬を伝い、

震える南部十四年式拳銃に、いくつもの涙滴を落とす。

「私だって、こんなことになるなんて思ってなかったわ。

 それにね、紗枝ちゃん、あれは人間じゃないのよ。

 かつて人間だった物。ただの化け物だわ」

 有田真由美が、強い口調で言う。

「化け物じゃない・・・生物兵器だ」

 小手川浩が訂正する。

「どっちだって、変わらないじゃない」

 有田真由美は小手川浩を睨みつけた。


小手川浩は彼女の非難には何の反応も見せず、

壁にもたれかかるようになっている、

水落圭介の方を向いた。

「水落さん、顔色悪いですね。

 何かに感染したのかもしれません」

圭介は、小手川浩へ空ろになった目を向けた。

「・・・感染?どういうことだ・・・?」

「あの生物兵器たちの血液を見たでしょう。どす黒い血を・・・」

「だからなんだ。簡潔に言ってくれ。頭痛がひどいんだ・・・」

「奴らは単なる殺戮兵器じゃないと思うんです。

 奴らは細菌やウイルスなどの、病原菌を媒介するんだと思います」

 小手川浩の声は苛立って聞こえるほど、平坦だった。

ただ、とつとつと語る。

「第2次世界大戦中、イギリスをはじめとするヨーロッパの

 先進国は蚊やネズミ、ゴキブリといった生物に、

 チフスやコレラ、ペスト菌、マラリアといった病原菌を媒介させて、

 敵国を攻撃するための研究、実験を繰り返してたんです。

 そして当時の日本も・・・。

 太平洋戦争が起きる前から、日本は中国の地方に、それらの細菌を

 媒介させた昆虫、動物を空からばら撒いた事実もあります。

 だったら、あの人型の生物兵器にも、

 それらの病原菌を寄生させていることも十分考えられます・・・」

「オレが・・・その病原菌に感染してるかも・・・ってことか?」

 水落圭介は、力無くコンクリートの壁にもたれかかった。

「しかし・・・なぜ、オレだけが・・・・?」

圭介はぽつりと言う。

「水落さんだけが感染してるとは限りません。

 僕たちだってすでに感染していて、

 発病していないだけかも・・・。ただ、水落さんが、

 先に発病したのだとしたら・・・」

 小手川浩は、しばし考えるように上を見上げた。

そして、視線を圭介に戻して言った。

「水落さん、口か目、鼻に奴らの体液を浴びませんでしたか?」

・・・そういえば、この居住区に来る前の部屋で、

通気ダクトから姿を現した化け物の首を切断した―――。

あの時だ・・・あの時、奴のどす黒い血を浴びた。

生臭い―――そして、苦い黒い血・・・。


 圭介の表情で察したのか、小手川浩が答えた。

「経口摂取で感染したのなら、パラチフスか腸チフスかも・・・」

 彼の言葉を耳にしながらも、水落圭介は反論した。

「チフスだと?もしそうだとしても潜伏期間があるだろう?

 1週間か2週間か・・・」

「普通ならば、そうです。でも細菌兵器としては、

 そんな長い潜伏期間では使えません。

 だから、すぐに発症するように改良を加えていていることも

 十分考えられます」

 小手川浩はそう言うと、突然咳き込みだした。

ホコリのせいだけとは、思えない咳だった。

「僕も・・・ヤバいかも・・・空気感染も有り得るかもしれない」

 小手川浩は自嘲するように言った。

涙ぐんでいるのは咳のせいか、それとも・・・。


そこで意見したのは、有田真由美だった。

「どんな病原菌だって、70年も前のものでしょ。

 現代の医学なら、治せるはずじゃない。

 まずは生きてこの島から脱出することが先決だわ」

 確かにそうだ。それらの病原菌に感染していても、

現代ならワクチンはあるはずだ・・・が、

小手川浩は既存の病原菌を改良した可能性を語った。

ということは新種の病原体かもしれない。

もしそうだとしたら、

未知の病原体ということもあるのではないか―――?


 とにかくいくら考えていても仕方ない。

ここに病理学者はいないのだ。

この呪われた『名無しの島』から逃げおおせなければ、

何もはじまらない・・・。

 だが、高熱のせいか、目の前のものが2重、3重になって、

ぼやけて見える。悪寒もひどくなった。

こんな状態では、化け物と闘うことはおろか、

満足に動くこともできない。

水落圭介は座り込んで、自分のリュックの中から、

救急袋を取り出した。

包帯やバンドエイド、消毒液、胃腸薬、鎮痛剤―――

そして解熱剤。

圭介は処方の倍の4錠の解熱剤を、水筒の水で飲んだ。

効果があるかどうかわからないが、気休めにはなる。


水落圭介は、自分を鼓舞するように立ち上がった。

「行こう・・・」

今はそれだけしか言えなかった。

「小手川君は後ろに下がって。私が前に出るから。

 紗枝ちゃん、さ、立って!」

 有田真由美は、まだ泣きじゃくっている、

斐伊川紗枝の二の腕を掴むと、彼女を無理やり立ち上がらせた。

小手川浩は返事する代わりに、咳き込んだ。

「水落さん、大丈夫?」

 有田真由美にそう言われて、

大丈夫じゃないなんて言えなかった。

彼女も死ぬほど恐いはずなのだ。

男の自分が情けない愚痴など言えるはずもない。

井沢悠斗がいない今、この探検のリーダーは

自分が務めるしかない。


水落圭介は、力強くうなづいたつもりだったが、

傍目にはただ、頭を上下しているようにしか見えなかった。

 水落圭介と有田真由美は、三八式小銃を構えて前に出た。

圭介のフォアグリップを掴んだ手に挟んだマグライトと、

有田真由美のヘッドランプで、前方を照らす。

剥き出しのコンクリートの上には、黒い血にまみれた、

射殺した化け物たちの死骸が転がっている。

彼らは、それらの躯をまたぎながら、

そして黒い血を避けながら用心深く歩いていく。

居住区はかなりの奥行きがあった。ライトに照らされながらも、

まだ突き当たりは見えてこない。


「痛ッ!」

 突然、水落圭介の左となりに並んでいた

有田真由美が声を上げた。

圭介は銃口と一緒に彼女の足元にマグライトの光をあてる。

見ると、最初に倒した黒いかぎ爪を持った化け物の右手が、

彼女の左足首を掴んでいた。

その黒いかぎ爪が有田真由美のトレッキングシューズを突き破り、

足首に、深く食い込んでいる。

その化け物は、体は死んでいるはずなのに、

右腕だけが別の生き物のように、

有田真由美の足首をしっかりと掴んでいた。

水落圭介はあわてて、三八式小銃のストックの台尻部分で

化け物の右手首柄を打ち据え、砕いた。

それでやっと化け物の右手は、有田真由美の足首から離れた。

跳弾を恐れてのことと、弾薬を節約するためだ。

ようやく足首を解放された有田真由美は、その場にしゃがみこんだ。

彼女の表情は苦痛にゆがんでいる。

 それにしても驚いたのは、

丈夫な登山用トレッキングシューズを貫くほどの化け物の握力。

水落圭介の脳裏に、

再び井沢悠斗に化け物が襲いかかり、殺した光景が蘇った。

 痛みに声を押し殺している有田真由美を見下ろして、

圭介は我に返った。

圭介は尻ポケットにねじ込んでいた救急袋を、再び取り出した。

中から消毒液と包帯を出すと、彼女のチノパンの裾を捲くり上げる。

見ると、5箇所から鮮血が流れている。圭介は熱で朦朧としながら、

傷口を消毒し、包帯を巻いた。

再び有田真由美は立ち上がるが、痛みが激しいのか、

右足を引きずるようにして歩き始めた。

 十数メートルほど歩いて、ようやく居住区の奥に突き当たった。

他に化け物はいないようだ。4人の間に安堵の空気が流れる。

右側に扉があった。これも鉄製だ。錆付いたL字型のノブを捻ると、

軋むような音を立てながら、扉は開いた。

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