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ユングの娘 偽装の心理23

             偽装の心理23

その数日後、十二月下旬に入った東京の気温は、
観測史上最高気温の25度を記録した。
気象庁は南から来る強烈な高気圧が原因で、
一時的なものだと発表したが、
テレビをはじめとするマスコミは例によって
異常気象だと騒いでいた。

街並みには半袖姿の人々も見られた。
都内のあちらこちらのアスファルトには、
陽炎が立ち昇り、空間を歪ませている。

鳴海徹也は、
刑事一課長のデスクの前に立っていた。
彼の前で、鏑木一課長は
座っている椅子を小さく揺らしながら、
鳴海の提出した報告書を読んでいた。

「結局、衣澤康祐の件は自殺だったんだな。
  しかし、その影に凶悪事件が潜んでいたってわけだ。
  容疑者の牧野善治はテレビのゴールデンタイムで
  アニメ化されてるほどの、有名な漫画家らしいじゃない。
  報道番組やワイドショーで騒がれてるよ。
  そのせいか本庁が腰をあげてね。
  今日の午後、記者会見を開くらしい。
  捜査の方はこれまで通り、所轄でやれとさ。
  華のある記者会見は本庁で、泥臭い仕事は所轄でっていう
  お決まりのパターンなんだけどね」
鏑木は、少し歯がゆそうに言った。

「まあ、いいじゃないですか。
  我々の仕事は悪党を捕まえることですから」
鳴海は、ため息交じりに応えた。

「ま、そうだね。それにしてもテツさん、お手柄だよ。
  よくある自殺から別件の凶悪事件を炙りだすなんてさ」

よくある自殺———か。

鳴海は鏑木の言葉に対して、
何か心に引っかかるものを感じた。
今でも日本全国の自殺者数は、二万人以上もいる。
その一人ひとりの自殺は、今回の衣澤康祐の場合のように、
表面化されていない別の犯罪を投射しているのかもしれない。
警察はもとより、マスコミやジャーナリストの中に、
個々の自殺の要因を深く掘り下げた者は数少ないだろう。
それと同様に、それらの悲劇と無縁の人々は、
特に関心さえ持たないのが現実だ。

衣澤康祐を死に追いやった牧野善治は、
直接刑事事件を起こして逮捕されたが、
『週刊キャピタル』編集部の西川や、
衣澤康祐の両親などが彼に与えた悪意は、法では裁けない。
それは百も承知だが、今回、ユングの娘の力で、
その一角を切り崩したのもまた事実だ。

「課長、オレの手柄なんかじゃないですよ。
  ユングの娘の協力が無かったら、真相はわからないままでした」

「氷山先生にも、お礼を言っといてよ」
鏑木はニヤリと笑うと、再び手にした書類に視線を戻した。
鳴海は軽く一礼すると、その場を離れた。

鳴海は、向かいのデスクにいる河合聡史に視線を向けた。
その時、鳴海の脳裏に、あることが思い出された。
それは河合に初めて、
ユングの娘を紹介された日の帰り際のことだ。
ユングの娘は鳴海が持ってきた
衣澤康祐の日記に目を通していた時、
目に涙を浮かべたように見えたと河合に話した。
だが、河合は真冬に夏が来ても、ありえないと言った。
しかし今日の陽気はどうだ。
まるで真冬に夏が来たといってもいい日だ。

やはり彼女は涙したのだ。
あの時、氷山遊は衣澤康祐の日記を読んで、
彼の心中を読み取っていたのだ。
そして、その心の痛みに共感したに違いない。
衣澤康祐の受難と苦悩を、
我が身のことのように受け取っていたのだ。
だからこそ、彼女は涙したのだ。
彼女は、顔も知らない人間の心に共鳴することができて、
また、その苦しみに同調して涙することができる、
豊かな心の持ち主なのだろう。

他人の心を読み解く上で、
それは彼女が極めて優秀な心理学者であることの、
裏打ちなのかもしれない。
となれば河合が言うように、氷山遊は、
冷静沈着が服を着ているような女性ではないということだ。
彼女は周囲の者が思っているのとは違い、
とても感情豊かな優しい女性なのだ。
それは鳴海の中で、確信に近いものを感じさせた。

「何笑ってんですか?鳴海さん」

いつの間にか笑みを浮かべていたらしい。
それに気づいた河合が、怪訝な表情で頸を傾げている。

「いや、別に」
鳴海は、そのことを河合に言おうとは思わなかった。
今度は、槍が降ってもないと言い出しかねない。

「鳴海さん、今日はもう退けてもいいですか?
  僕、ちょっと私用があって」
そう言ってきた河合の手には、リボンの付いた、
淡いピンク色の、洒落たデザインの小さな紙袋が提げられていた。

鳴海は腕時計を見やった。

「もう定時だな。今日は帰っていいぞ。
 後の書類整理はオレがやっておく」

河合は鳴海の言葉を聞くと、顔をほころばせた。
ピンクの紙袋を大事そうにかかえて出て行く。

そういえば、今日はクリスマス・イヴだったな———。

いつか河合は言っていた。好意を持っている女性がいると。
だが手の届かない『高嶺の花』だとも言っていた。
あの紙袋には、その『高嶺の花』への
プレゼントが入っているのかもしれない。

そういえば、今回の事件解決に協力してくれたユングの娘に、
きちんと礼を言ってなかったことを、鳴海は思い出した。

「書類整理が終わったら行ってみるか・・・」
 鳴海は小さく独り言を言っていた。

書類仕事が終わったのは、
時計の針が午後九時を回った頃だった。
想像した以上に手間取ったのだ。二十年以上刑事をやっているが、
自分には事務仕事は向いてないと、鳴海はあらためて思った。
やはり根っからの刑事なのだ。外回りの方が、性に合う。

鳴海は事前に帝應大学に電話を入れた。
すでに氷山遊が、帰宅しているかもしれないと思ったからだ。
電話を取った大学関係者の話では、
まだユングの娘は研究棟にいるとのことだった。

鳴海は、これから自分が向かうことを告げて電話を切ると、
赤いダウンジャケットを羽織り真代橋署を出た。
外に出ると、昼間はあれだけ暑かったのに、
陽が落ちた今は雪でも降りそうなほど、凍える寒さだった。

鳴海は真代橋署の駐車場から自分の車を出すと、
帝應大学へ向かった。
その途中、いくつもの通りには
クリスマスを祝うイルミネーションが飾られ、輝いていた。
まるで街中が、シャンデリアになったようだ。
歩道には浮かれた若者たちや、酔客のほかに、
いくつものカップルがいた。
いつの頃からだろう。この国でクリスマスが、
これほどの盛り上がりを見せ始めたのは。
同じ年末の行事でも、若者たちにとっては、
正月よりクリスマスの方が、好まれているようにさえ感じる。

正面の信号が赤になった。鳴海はゆっくりと停車した。
目の前の横断歩道を、大勢の人々が渡っている。
鳴海はシートの背もたれに体重を預けながら、
それらの人たちを眺めていた。

その時、鳴海は見た———。

横断歩道を渡る人々の中に、衣澤康祐がいた。
そして彼の隣りには、前原百合加の姿もあった。
二人は仲良く手をつなぎ、
何かを話しながら幸せそうに笑っていた。

鳴海は固く目をつぶり、まぶたを開いた。
そこには、衣澤康祐と前原百合加の姿は無かった。
衣澤康祐と前原百合加と思った二人は、
まったく別人のカップルだった。

これが幻視ってやつか———?

だが、それは何かの啓示のように思えてならなかった。
また別の未来、別の生き方を見たように感じたのだ。

もし様々な悪意が、衣澤康祐に向けられなかったら、
きっと二人は今夜のクリスマス・イヴを、
幸せに過ごしたに違いない。

鳴海は思った。氷山遊が言ったように、
無意識に追いやられた心的外傷が暴発してやった行為にしろ、
どこかで踏みとどまり、彼は死ぬことに抵抗しなければ
ならなかったのだ。
そうしていれば、
前原百合加も彼の死を背負うこともなかったはずだ。

フロントガラス越しに行き交う人々の姿が、滲んで見えた。
その輪郭がぼやけていく。
鳴海は泣いていた。声も上げずに泣いていた———。
鳴海は流れる涙を、拭うことも忘れていた。

突然、後方の車からクラクションを鳴らされた。
信号はすでに、青に変わっていた。

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