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チャールズ・ミンツの『Krazy Kat』が面白いという話

 チャールズ・ミンツという映画プロデューサーがいた。

 アニメーション・スタジオと映画配給会社の仲介役を務める配給会社「ウィンクラー・プロダクション」を運営しアニメーションにおける女性プロデューサーの先駆けとなったマーガレット・J・ウィンクラーと結婚して、マーガレットに代わってスタジオの運営を担うようになった男である。

 それなりに漫画映画(カートゥーン)について知っているならば、「ウォルト・ディズニーから「しあわせうさぎのオズワルド」の権利とスタッフを引き抜いて自分のものにしようとした悪党」という印象をもって彼を記憶している者も少なくないだろう。事実、チャールズ・ミンツはカートゥーンのプロデュース業こそ行っていたが、彼が目を向けていたのはアニメーションの質的向上ではなかった。あくまでも凄腕プロデューサーであったマーガレット・J・ウィンクラーの夫として、ビジネスとしてアニメーションを継続的に制作していくことこそが彼の役割なのだった。

 しかし、現在一般に伝わっているチャールズ・ミンツの印象はあまりにウォルト側にとって都合の良い歪められ方がなされていると言える。彼の人格がウォルトにとって不快に映っていたとしても、チャールズ・ミンツとその伴侶であるマーガレット・J・ウィンクラーがおよそ20年間にわたってカートゥーン作品の安定した供給を行っていた事実は変わらないのである。

 そんなチャールズ・ミンツは、1929年よりコロムビア映画の配給下で従来より制作していた『Krazy Kat』のサウンド化に乗り出す。

 1913年よりジョージ・ヘリマンによって描かれ大成功を収めていたコミック・ストリップである『Krazy Kat』は、1910年代より幾度ものアニメーション化を経験していた。新聞王ウィリアム・ランドルフ・ハーストが設立したインターナショナル・フィルム・サービス(IFS)による一度目のアニメーション化、IFS作品の製作権を継承したブレイ・スタジオによる二度目のアニメーション化、そしてマーガレット・J・ウィンクラーのウィンクラー・プロダクションによる三度目のアニメーション化である。

 当初ウィンクラー版の『Krazy Kat』の制作は、ラバーホースアニメーション(ゴムのように動く作画スタイル)の始祖として知られ、『Felix the Cat』のキャラクターデザインを改訂した人物であるビル・ノーランが指揮を執った。ノーランは奇しくも、かつてIFSでハーストが権利を持つ漫画作品の動画化に取り組んだことがあった。またこのシリーズには後にフライシャーやディズニーで活躍し、ベティ・ブープや白雪姫に命を吹き込んだアニメーターのグリム・ナトウィックも作画に携わっていた。ナトウィックもまた、IFSでアニメーションのキャリアを始めた人物であった。

 やがてウィンクラー版『Krazy Kat』の制作指揮はノーランに代わって2人の男に任されるようになる。ベン・ハリソンと、マニー・グールドである。

 マニー・グールドは後にワーナーで過激な作画スタイルを確立した、有能なアニメーターだ。ワーナー時代におけるグールドの作画スタイルは極めて個性的で、誇張されたポージングと素早いタイミングを多用したダイナミックな画面を作り出していた。『Krazy Kat』や『Color Rhapsody』などのグールドが1920-30年代に携わった作品からは(アニメーターとしてよりも監修的立場に立つことが多かったこともあり)彼の強烈な個性をあまり感じることはできないが、ミンツ作品が一定の質を保っていたのはグールドの力も大きかったと思われる。

 ベン・ハリソンはグールドほど名を残すことはなかったが、彼もまた、ラバーホースアニメーションの名手であった。ハリソンのアニメーションに対する態度は、ハリソンとグールドのもとで『Krazy Kat』の制作に携わっていたアニメーターのハリー・ラヴが後にこう回想している。

 「ベンはモブシーンをネタにするのが大好きで、おかげで僕は気が狂いそうになったよ。もし彼が洗濯について話していたら、シーツと枕カバーが総出演する洗濯行進楽団のシーンをやる羽目になるってことなんだ。[ストーリーが]どんなものであれ、遠近法付きで行進する楽団が出てくるのさ」
 「どんなものにもスクワッシュと反発動作が必要だった。」「ビルから金庫が落ちてきたとしたら、それが重いことを示す必要があるから、つぶしたりはしないものだ。ところが、ベンはあらゆるものをつぶしたんだよ」

-レナード・マルティン『マウス・アンド・マジック:アメリカアニメーション全史(上)』楽工社、権藤俊司(監訳)、2010年、p.249-250

 上記の回想が示すように、ハリソンはあらゆる面で「ラバーホースの申し子」と言うべき存在であった。その傾向は1929年にシリーズがサウンド化されたことでさらに目立つようになり、1934年頃までの数年にわたって『Krazy Kat』シリーズではフライシャー作品に比肩するシュールで多幸感にあふれた作品群がコンスタントに生み出されたのである。

 ミンツがプロデュースし、ハリソンとグールドが監督した『Krazy Kat』シリーズの作品は、どれも同じように楽しく、能天気で愉快だ。

 だが、中には挑戦的な演出を試みた作品も存在する。1933年の『Stage Krazy』がその一つだ。クレイジー・カットが「12番街のラグ」を演奏するシーンで、視点の異なるショットを素早く切り替えるモンタージュの演出が行われるのである。こうしたカット割りでスピード感を演出する技法は当時のカートゥーンでは滅多に用いられていなかったため、同時代の作品と比較して新鮮な視覚効果を与えることに成功している。

 現在ミンツ版の『Krazy Kat』は大衆から忘れ去られたばかりか、批評家からの評価も芳しくない。"アニメーション史に残る"傑作がシリーズ内で生み出されなかった事とヘリマンの原作からかけ離れている事が原因のひとつであろうが、多くのマニアから「凡作ばかりのシリーズ」という烙印を押されている傾向は否めないだろう。

 しかし作品をしっかり鑑賞してみると、意外と面白い、「観られる」作品が多いことに多くのカートゥーンファンが気づくであろう。

 ゴムのように動くアニメーション、朗らかな音楽、画面上に存在する全ての物体が楽天的な世界観。ハリソンとグールドが指揮を執った『Krazy Kat』の作品群は、どれもゴムのようにキャラクターがのびのびと動き、無機物に生命が与えられ、画面上に存在する物がひたすらバカ騒ぎを続ける。一貫したプロットは存在せず、キャラクターは定められたシチュエーションに沿ってランダムなギャグを演じるだけの存在で、感情表現もごくシンプルだ。凝った演出や作画はめったに見られないが、観客の視覚をほどよく刺激し、幸せにさせる魅力に溢れている。

 ハリソンとグールドのもとで制作に携わっていたスタッフ陣も、当時こそ注目を集めることはなかったが、後にアニメーション史に名を残すこととなる錚々たるアニメーターが揃っていた。

 第一に、ディズニーで『バンビ』や『ファンタジア』の原画を担当し、後にMGMでテックス・アヴェリーの片腕的存在として活躍するプレストン・ブレア。アニメーション教本の著者としても名高いブレアだが、実はキャリア初期に『Krazy Kat』の作画に携わっていたのである。

 第二に、アル・ユーグスター。ユーグスターはフライシャーからミンツのスタジオに移籍し短期間在籍していた。ブレアと共に『Krazy Kat』数作の作画や演出に携わった後、アイワークス・スタジオに移籍。その後ディズニーに移り、『白雪姫』の原画を担当している。

 こうした錚々たるスタッフのもとでコンスタントに作られ続けた『Krazy Kat』だったが、残念ながら1935年頃よりシリーズは迷走しはじめる。クレイジーのデザインがよりリアルな猫らしいものへと変更され、それに応じるかのように作品の方向性もより抑制されたものへと変化する。さらにはハリソンとグールドがシリーズの制作班から離脱し、従来の作品にあった破天荒な自由さが失われてしまった。さらにはチャールズ・ミンツが1939年に心臓発作で急逝し、スタジオはコロムビアに買収されてしまう。結果、『Krazy Kat』も1940年にアニメーション・キャラクターとしての生命に終止符が打たれてしまったのである。後にジーン・ダイッチらの手によってTVアニメとしてクレイジーは蘇るが、劇場用カートゥーンとしての彼の生命は1930年代をもって絶えてしまったのである。

 チャールズ・ミンツの『Krazy Kat』は現代のカートゥーンファンからは半ば忘れ去られた存在であるが、実はアニメーションの原初的な快感に溢れた楽しいシリーズだったのである。決してそこに際立って光る何かがなかったとしても、約15年にわたってお気楽でたまらなく愉快なカートゥーンが生み出されていたという事実は、忘れ去られてはならない。

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