なぜ今はこのような社会なのか(江戸の素晴らしいリーダー保科正之)

保科正之という人物を見てみる

保科正之は江戸前期の非常に優れたリーダーだが、
なぜそこまで知られていないのか?

大きな理由としては、保科が会津藩藩主だったからである。
明治政府からしたら、会津は宿敵であり、その会津の基礎を作った保科の歴史は、明治からしたら後世に伝える必要がないと考えたのかもしれない。

保科正之は、21歳で藩主になり、山形、会津と渡った。
会津藩主になったのは33歳だった。

10万人が死んだとする江戸時代最大の火事である明暦の大火の際、
江戸にある米蔵が焼け落ちそうだった。
その状況を見た保科正之はどうしたか。

民衆に、米取り放題令を出して、火を消した奴から持って帰らせた。
火事という不幸を逆手に取り、民衆の支持率を上げた。
また、江戸城の天守閣も焼け落ちていて、再建する選択肢もあったが、
保科は天守閣を江戸城に作らせず、その資金で、江戸中心と外との橋(両国の橋)を作った。

それによって、幕府政権に対しての江戸民衆からの信頼が生まれた。

また税金に対しても、誠実に臨んだ。

田んぼの検知をして、年貢を取り過ぎていた地域にはお米を返してあげた。
そしたら、百姓たちが隠してた田んぼも正直に出してきて、返した米より多くの年貢が最終的に納められるようになった。

また、社倉(米の貯蔵庫)を作らせて、飢饉があったら民衆に米を配った。
2年連続飢饉だった時は、その次の年は年貢を取らないと言ったような柔軟な制度を作った。

人事制度は能力主義で、リーダー以外は、皆少なめの給与にして、ピラミッド型の組織ではなく、フラットで平等に多くの人が意見を言える環境を作った。

これらの政策によって、会津は人口がどんどん増えていった。

商人や旅人が無料で病院で診てもらえるようにしたり、
90歳以上の老人には年金制度を作った。
年金制度はドイツのビスマルクが作ったものが世界初といわれているが、
その200年前に日本では作っていた。

また、島原の乱が起きたことで、武力や強い強制力で支配する形ではなく、教育や文化で世の中の秩序を作っていく政治にしていこうという、武断政治から文治政治に切り替えた。

結論を言えば、保科正之は、非常に現場を知り、天才的な政治家だった。江戸の法治国家としての基盤を作ったが、その成功実績を讃え過ぎた会津藩は、保科正之の頃(200年前)の教えを修正せず守り続け、時代の変化に適応できず幕末に滅びる事となる。

つまり、良いルールを作り、それを守ることはとても大切だが、
保科正之はルールを変えるなと言っておらず、むしろ既存ルールを大きく変えていた。

歴史の本質を読み解くためには、良いか悪いかを決めつけるのではなく、常に時代の関係性や流れを見極めながら、問い続ける姿勢と、至誠(まごころ)を持って生きていくことが大切だと教えてくれている。

しかし、このような保科正之のようなリーダーが政治をしてくれれば良い、自分はそれに本気で従い報いれば、きっと社会は良くなると多くの日本人が信じている気がする。
だとすると、やはり民主主義は日本に根付くことはない気がする。

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