問いを生むコミュニケーションは4つ

討論
どちらが正しいか決める話し合い
議論
納得解(結論)を決める話し合い
対話
新たな意味づけをする話し合い
雑談
自由な雰囲気の話し合い

目的によって、話し合いの手段は変わる。
この中で認識と関係性に揺さぶりをかけるのは対話である。
また、経営学者の宇多川元一は、対話は、新しい関係性を構築する事と定義する。

新しい関係性を構築する四つのステップ

①溝に気づく

②溝の向こうを眺める

③溝の渡り橋を設計する

④溝に橋を架ける

この溝とは、お互いの意味の解釈であり、その意味解釈の齟齬を埋めていく行為が、対話であるという事である。

意味とは、モノや事の抽象的解釈である。
つまり、構造主義的に、そのものだけがこの世界に存在しているのではなく、全ての関係性によってそのものが定義され、その文脈を読み、それを擦り合わせることがコミュニケーションなのだろう。
また、この文脈が似ている人が、基本的には気の合う人となるのだろう。

言い換えるならば、意味は、その人の経験やその場の状況過程に規定されている。
つまり、対話ではその意味理解をお互いに紐解きながら重ねていく事が求められる。

これは、ウィドゲンシュタインの言語ゲームで言っている内容と非常に近しい。
文脈、意味を理解せずに、擦り合わせようとせずにコミュニケーションが行われると、誰も意図ない結論で着地してしまうことがある。

私たちが歴史から本当に反省しなければならないのは、戦犯を探す事でも、どのようなコミュニケーションが必要だったのかという事ではなく(それも必要だが)、
誰の意志も、責任もない結論が実行に移され、それが間違いだったときに、誰も本気で学び直せない事である。

本当の失敗は、討論も議論も対話も雑談もなく、つまり全くのコミュニケーションのない「無論」で実施されることである。

「無論」により実施される代表例が「忖度」だろう。
誰かが計画した訳でも、命令した訳でもなく、ただそれをしなければならないと実施者が判断し、実施し、それが上位者の全くの意図と違う場合、誰も幸せにはならない。

このような「無論」によって、実施される場面が、日本企業には多くある。
それは、正解っぱい“世間“が駆動しているからだろう。

世間は、コミュニケーションコストを低減してくれる場面も多々あるが、プロジェクトや事業、社会を前進させていくときには、むしろコストになる場面が多々ある。

既存にあるものではないものを作り出す場面では、明確に世間の視点を抑え、対話を行い、それぞれが持つ文脈、意味を理解していくことが重要である。

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