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人の噂も七十五日

上のことわざ、この高度に発展したIT社会に伴い、さすがに嘘になってきてしまってるなと思います。

少し前にとある興味深いアカウントを見つけました。

@wasureta_news

固定ツイートに制作者の意図が記されていました。


この感覚、情報を受け取るだけの、その他大勢の側として生きている僕にとってはとても刺さる感覚でした。

Twitterという異常者がマジョリティとなってしまった終末のようなプラットフォームには、日々様々な意見がユーザーから投稿されていて、
僕はその情報量の多さや、異常者同士でやり取りされる言論を目にするのが苦しくなって、いわゆる「トレンド」にはあまり目を向けないようにはしています。

この世の中は嫌なニュースも多いし、
本来ならば目にしたくないようなニュースの方がView数を稼げてしまう、受け取り手の浅ましさも相まって、僕の目にもそういうニュースが多く飛び込んでしまいます。
自由で闊達な意見の交流が
オンライン上で出来るサービスが目の前に存在し、
「ニュースから感じた自分自身の学びや感想をアウトプットして共有する」
という、満点のSNSの使い方をしているユーザーも多くて、
たとえその意見がぼく個人が見るに堪えないものだとしても、大義としては間違っていないように感じます。

「私が感じたことを発信して、何が悪いんだ!!!!」といわれたら、僕はもう何も言えなくなるような気がするんです。


でも情報は日々更新されて、様々な人が発言をするのですが、
受け取り手の僕からすると、それらはまとめられた「一つの民衆の意見」のように見えてしまいます。
ハッシュタグやキーワードで切り取られた彼らの意見だけが浮かび上がってきて、その意見がそのユーザーのすべてのように感じてしまいます。

人は日々こんなにも物事を考え、怒り悲しみ、喜びながら生きているのに、それが実体として伴わない。
アイデンティティの見えない「アカウント」が雪崩のように意見を出して、大きな一つの言論を作り出しているように見えてしまうのです・


ある日は芸能人のスキャンダルで痛烈な批判をし、ある日は政治家の汚職、ある日は一企業の対応に怒号を浴びせる。
これらはもしかしたら、それぞれ違う人が発言しているのかもしれません。だけど、僕にはそれらすべてが同一のものに見えてしまうのです。


少しそれてしまいましたが、本題に戻ります。

このアカウントを見て「面白い」と思うような人は、SNSで日々飛び交う意見とは一線を画して、日常生活を送っている人であり、
前述からの対義語で言うと「正常者」だと思われます。

一方で、この意見を形成して確かにツイートで一時のバスを産んでいる人が、このアカウントの数値の奥にたくさんいるわけです。
この人たちが1ヶ月後、皆が話題を忘れたときにもどこかで生活している。
その事実が僕にはどうにも受け止めきれないのです。
SNSの一人格と日常生活の中にはとてつもなく深い溝が存在して、
それはアイデンティティの消失に伴う集団性が大きくなればなるほど、
僕はSNSの中にある個人が見つけられずに彷徨ってしまいます。


僕はこのアカウントを見つけて一時は「面白い」と感じられたはずなのに、
その巨大な意見を形成しているのは一個人であるということが怖くて震えてしまっている。
「盲目的な宗教の信者が一堂に介した会」とか「働きアリの集団」とか、そういうものに見えてしまって。
僕もいつしか異常者になっちゃったのかなぁ。なんて思ってしまったり。



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