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BS1「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く~」

7月末頃NHKワールドプレミアムで、6月に来日したドイツの若き哲学者を追ったドキュメンタリー番組を見ました。

実はこの春にも「欲望の資本主義2018」という番組で、「資本主義はショーだ!」といっていた彼の姿に「なに、この若い学者さん?!」と思い、関心を寄せました。

心がざわざわする中で、番組の始まりから、衝撃を受けることになります。

「世界」自体を捉えることはできません。「世界」は存在しない。

何それ・・・この学者さん、世界が「ない」って言ってる・・・


実はこの記事も当時すぐ書きたいと思いましたが、この学者さんの本も読み、同時にいろいろな角度から考察したいと思ったので、今になりました。

(以下、その番組の中から、彼の言葉を引き出します。)


「世界」とは「存在するもの全体」のことだと? 本当にそのような「全体」はあるのでしょうか?
現実は個別の「もの」が重なり合う網のような場で、「全体」を見わたす神の視点など期待できません。
「全体」性という考え方をやめれば、まったく新しい思考が生まれます。

全体性という思考をやめる・・新しい思考方式のようなものなのか?


(渋谷のスクランブル交差点を見ながら・・) クレイジーな光景だね。ここはまるで資本主義の心臓のようだ。人々がみんな何かを追い求めている。まさに僕の哲学でいう「意味の場」だ。さまざまな「意味の場」が現れ交差する。それが一つ一つの真実だ。現実はこのように無限に複雑で、決して全てを統一することなどできない。今、わかったよ。

「意味の場」が「真実」だと言っている・・・


究極の経済的な効率性・・・でも人がシステムのための部品のようだ。資本主義の世界では、人間とシステムが逆転してしまう。日本には二つのものが混ざり合っているね。秩序のもとにある瞑想的な静けさ、そしてクレイジーな混沌だ。働き過ぎ、高度なシステム、ラッシュアワーのストレス・・・表面的には瞑想的な平静さを保っているが、内心は穏やかじゃないだろう。

確かに、経済的なシステムのもとで、人間は「部品」と化している・・


私たちは今、深い危機の時代を生きている。民主主義の危機、気候変動、中東破滅の可能性。危機の時代には、新しい考え方が必要だ。

確かに、歴史を見ても「天動説」から「地動説」に変えた時も、相当大変だっただろう。現在AIが浮上する時代だから、もしかして・・・


物事には「絶対的な無意味さ」もなければ、「絶対的な意味」もない。それを知れば人は「自由」になれる。

確かに、「絶対」に執着しなければならない理由が、あるだろうか・・


(通りかかりのサラリーマンの質問)
「どうしたら幸せになるか?」って、ポイントは絶対的な幸せの法則はないってことだ。幸せになりたいならば、幸せはよそにはないことを知ること。しあわせを感じるべきは「今」だ。10分後死ぬかもしれないんだから。今、幸せを感じなければ幸せは訪れない。今だ、今だよ。

すごい!!この学者さんも「今、ここ」を、提唱している・・・


(哲学者ガブリエル「私たちは猿だ」VS科学者AI教授「動物+技術=人」)
ドイツの憲法の最初の一文にはカントによる人間の解釈があります。「人間の尊厳は不可侵である」とね。「人間の尊厳」はカントが与えてくれたコンセプトです。

ヨーロッパでも、ドイツだけは違うようだ。ドイツ憲法の、カントの人間の解釈は「尊厳」だった!


私は一貫して自然主義に反対しています。自然科学は最高の知識の一つですが、あくまでも一つの知識に過ぎません。(注:自然主義=すべての現象を自然科学のみで説明しようとする立場)自然主義はアメリカ軍国主義のイデオロギーでもあります。

なるほど、言葉はきれいな「自然主義」や「自然科学」が、実は一番あやしいのか・・・


世界共通の傾向ですが国家権力に近づく人は、自然主義者なのです。しかし自然主義はただのイデオロギーです。つまりこれは私たちの時代の、一番の知的な病です。私たちが問うべき相手はこれです。

国家権力者=自然主義者で、科学絶対主義的な感じなのだろう・・・


まさに「全体」がないからこそ、重なり合いが成立する。例えば細胞について考えてみると、細胞もまた「意味の場」ですが、細胞には一定の遊び自由があります。そうした細胞たちが重なり合って、新しい構造体に変化することができる。なぜなら細胞同士の動きを上から統合するものなど無く、そして融合を阻むものも無い。私の考えは西田幾多郎に近いと、そういう印象を受ける人もいるようです。
「動物から人間へ進化したといっても、人間は動物でなくなったのではない。(中略)そこに人間は絶対的矛盾的自己同一に面する。」西田幾多郎(1870~1945年)

なるほど、この学者さんの基本思考形態は、東洋的なようだ・・・


最初の哲学的な問いは、6歳だったころに訪れた。水槽の金魚が二重に見えた。その時から「存在」と「認識」について目覚めた時だった。

視覚を疑ったようだ。確かに視覚は、可視光線の反射にしか過ぎないし・・


子どもは誰でも哲学的な問いを持ちますが、それを忘れさせられるのです。私たちは子どもに読み書きと数の数え方を教えます。それと同時に「考えないこと」を教えているのです。
なぜ私たちは文字が読めるのに、哲学的には考えなくなっているのでしょうか。私たちは過ちを犯しています。

確かに、子どもたちに、考えないことを教え・・過ちを犯している・・


日本は哲学者にとって、興味深い国です。静寂が叫んでいるようだ。一見矛盾しているようで、末端はつながっているのかもしれない。
だから、そこにある見えない壁(ファイアーウォール)を乗り越えないといけない。冷笑的で反民主主義的な態度に出会ったら、ノーと言おう。みんなと違っても言おう。「自由」に考えることに、最上の価値を置くべきです。「世界」は存在しない。


「何か」が、ある・・・

そう思って、このマルクス・ガブリエル著「なぜ世界は存在しないのか」を読むことになります。そして先日、読み終わりました。

自分なりにまとめた内容を、明日、記事にします。


長い文章、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。

                            (つづく)

  

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