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江戸戯作の立役者、大田南畝の狂歌について考える②

 狂歌が全盛の江戸時代。「万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)」(「千載集」のパロディーの題名)から、春夏秋冬「四季」の太田南畝(おおたなんぽ 1749~1823)の作品をみてみる。狂歌ブームを作ったといわれる「万載集」には、たくさんの人の作品がある。
 選者は四方赤良(よものあから=大田南畝の狂歌名)と朱楽菅江(あけらかんこう)だが、中心となって選んだのは南畝である。


くれ竹の世の人なみに松たてて やぶれ障子しょうじを春は来にけり

 正月は季節としては春になる。「新春」「賀春」と年賀状に書く。みんな貧しくとも、生活にはムダな狂歌作りに励んでいた。
 門松を立て正月を迎える準備をし、障子の張り替えをする。障子を張るの「はる」と春がシャレになっている。


去年から気をはりつめし氷室守ひむろもり今夜は心とけとけとねん

 冷蔵庫のない時代には、自然の洞窟、氷室に冬の氷を保管していた。それを夏に献上するのだ。
 氷を守っていた氷室守は、氷が溶けないかとずっとドキドキのしっぱなしだった。やっと献上し終わって、今夜から氷の番をしなくてよいと思うと、心に張っていた氷が溶けてゆっくり寝ることができる。ドキドキの次はトケトケというオノマトペを使っている。内容と言葉のおもしろさをねらっている。


秋の野の錦のまはし すまい(相撲)草 所せきわき小むすびの露

 相撲に関連した、まわし、関脇、小結という言葉のシャレに、露を結ぶという言葉に、小結とむすぶ露のシャレとなっている。江戸時代の相撲取りはスターであり、浮世絵にも描かれた。

秋の夜の長きにはらのさびしきは ただくうくうと虫のねぞする

 秋の夜長の虫の音と、腹が減って、腹の虫が鳴いている。腹の虫の鳴き声はクウクウで、食う食うとのシャレになっている。なにせダジャレが多い。日本語は、オノマトペとダジャレで作られているようだ。


ねがくは とふりとおり手形をうちわすれ 跡へかへらん年のお関所

 通り手形は通行手形。




 松平定信の寛政の改革の時代になると、「世の中にほどうるさきものはなし ぶんぶといひて夜もねられず」という狂歌が世の中に流行する。
 松平定信は文武を奨励した。蚊は彼(か=松平定信)、文武と蚊のブンブンのダジャレになっている。その作者が南畝だといわれた。本人は否定し、役人の仕事に集中する。


 1801年に大坂銅座出役として大坂に赴く。
 銅を蜀山と呼んだことから蜀山人(しょくさんじん)の名を使うようになり、また狂歌を作り始める。随筆などの文章はずっと書いていた。何かを創作することが好きだったのだろう。


 70歳前の文章に、「人生有三楽。一読書。二好色。三飲酒。」と書いている。人生の三つの楽しみ。
 南畝は、ものすごい数の文書を残しており、漢文のこと、古文のこと、たくさんある。この文書も漢文で書いている。

 随筆では、コーヒーを飲んだことも書いている。「紅毛船にてカウヒイというものを勧む。豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり。焦げくさくて味ふるに堪えず」。


 金がなくても本を買った。読書が楽しみなのだ。そして金もないのに遊女を身請けして妾にしている。好色が楽しみだ。体調が悪くても酒を飲んだ。飲酒が楽しみだ。好き勝手なことをしながら、真面目な顔をして、真面目に役人として働いた。
 南畝は、実はこんな人間だった。いろいろな面をもっていた。本の虫で、女好きで、酒飲み。程度が極端ではあるけれど。



 辞世の句は、

今までは人のことだと思うたに俺が死ぬとはこいつはたまらん

とも

生き過ぎて七十五年食ひつぶし限りしられぬ天地の恩

ともいわれる。




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